自分の覚え書きです。自分語りになっちゃうのでわけわかんなくてすみません。
もう、どうにも気持ちがよくなくて、この数週間どよーんとしていました。
途中、信頼しているかたに愚痴をこぼしてしまって、そのかたに汚いものを押しつけてしまったなと後悔してさらにどよーんとしてしまった(Nさん、ごめんなさい。つきあってくれてありがとう)。
そんなこともあってずーっと考えてて、うん、私はそういうのが本当に苦手なんだなあって再再……再確認して、対処の仕方がよくなかったのをしみじみ反省しました。
自分のエゴと欲を美しいもののように飾り、それを満たす方法をすばらしいことのように語り、こんなにすばらしい自分だから“つらい思いをしている誰かを救ってあげる”、“スピリチュアルに目覚めさせてあげる”と行動する。
自分は特別な存在だと思い上がり、自分がやっていることをとくとくとしてふれまわり、自分をほめない人たちを責める。
“そういうやり方”はしたくないと思っていることを拡大して見せつけられ、「すんません、勘弁してちょーでー」でした。自分の中にも“そういう部分”は多少なりともあるけど、私はそういうのを美しいとは思えないし、しないように気をつけているつもりなので、よりいやな気分になるんだろうな。
ほんとにねー、いやなんだ、そういうことをしたくない。
今までもこんな思いをすることが何回もあったので回避してきたつもりだったのに、今回うっかり足を突っ込んじゃった。アホじゃ。
やっと復活したし、自分なりに対処の仕方を覚悟できたから、あとは実践あるのみ、うん。
きげんよく生きることでまわりも機嫌よくなる、それでいいんだと思う。
スピリチュアルっぽく言えば、そういう生き方が「現実をスピリチュアルに生きる」、「地上に天国をもたらす」ことだと思ってる。
だからスピリチュアルだの認められたいだの救ってあげるだのなんて、よけいなこった。
いろんな知識があっても、実際にどう生きているかが肝心じゃないかねえ。自分が何をしているのかに気づくこと、自分の本音に気づくこと、そのうえでどう生きるかを選ぶことを、生きているかぎり繰り返していくんじゃないかねえ。
ちょっと話が違うかもしれないけど、ある人がどんな人間かを知りたいなら、「その人の言葉ではなく、その人の行動(実際に何をしているか)を見ること」。
でも、行動が伴わなくても良いことを言ってることがあるから、その場合は言葉だけ受け取っておけばいいんだよ。