ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

唖然、呆然、大苦笑!

2007-12-05 15:28:56 | Weblog
 あることをやめようと努力してもうずいぶんになるのに、ときどき失敗してものすごくきつい自己嫌悪に陥ってしまう……先日久しぶりにそれをやってしまい、20年近いつきあいの友人にジタバタぶりをさらけだしてしまいました。

 その“迷惑かけられ人”はあとで、笑いながら、そのときの私を描写してくれましたが、それはその人の優しさがなせるわざ。どういうときにそうなるかを知っているから、私の失敗を笑い話に替えてくれたのだと思います。

 大きなプレッシャーがあると出てきやすいこの課題については以前から何度も何度も考え、対処しようとしてきました。これまででいちばん平穏で幸せな状態にあると思えている現在なのに、なんでこれがまたあらわれてくるのか。

 人間ができていないなあ、まだまだだなあと唸っていたとき、今これがおきるということは、また違った視点でとらえる時期が来たということなんじゃないかとふと思いました。

 そして気がついたのは、今までは“考えてきた”ということ。じゃあ、やってこなかったことはなんだろう。

 感じることをしていませんでした。

 どういうときにそうなるのかは考えてきましたが、そういうときはどんな感じがしているのか、そのあとはどう感じるのか、どんな思いが残るのか……。感情的・感覚的な根っこはどこにあるんだろう。

 とにかく“その自分”を感じてみようと自分なりのワークをしたところ、出てきたのは“強くなくてはならない、どんなときにも雄々しくしていなくてはいけない、男であらねばならない、自分の弱さを認めてはいけない、女であってはいけない、やわらかな感情を見せてはいけない”などなど。

 もう、唖然、呆然、大苦笑! “私ってば、『自分は女性である』ということを受け入れることができたはずなのに”と。

 そして、「うーん、これは呪いだなあ」と思いました。両親からの心理的強制を受け入れてしまって自分自身をその呪いで縛っていることに気づき、20代半ばからそれを解放してたくさんの自縛を解いてきたのに、まだまだ奥のところにはくすぶっていたんだねえ。まだまだ“受け入れつつあるかもしんない”でしたか。トホホ。
 胸が痛い思いという表現がありますが、本当に肉体的に胸が痛い。

 ワークを終えて、たまたま枕元の本を手にとって開いたら、そのページにあったのが“人は、何か悪いことをしたと思いこむと、自分を罰する方法も見つけようとする。”という言葉。

 “やわらかな感情を見せてはいけない、男っぽくあらねばならない。それからはずれるのは悪いことだ”という潜在意識の自縛が、自分への罰として“あること”をさせて自分に恥辱を与えていたのね……うーん。

“何かがやみつきになっている人は、たいていこころの空白をうめるために、常習者となっているのだ。”

“何か悪い習慣が身についたり、問題を引きおこしたりするのは、自分の中のある欲求をみたすためである。欲求をみたすためのポジティブな方法がわかれば、悪い習慣も解き放つことができるものです。”

という言葉も目に飛び込みました。

 このワークをする前にやはりたまたま図書館から借りていたのが信田さよ子さんの本で、ワークから数日後に読んでまた新たな感銘を受けました。

 そしてこのところ使っているオーラソーマのボトルのアファメーションが“私はありのままの自分を受け入れます”。

 「同じようなアファメーションをもつボトルをいくつか使ったなあ」くらいの軽い気持ちで使っていたボトルでしたが、大きな課題に向き合えるように整えてくれていたのですね。

 すべてのことはシンクロしているなあ。知る必要のあること、出会う必要のあることはちょうどよいときに自然にあらわれることを今回も痛感しました。

 まだまだ何枚も薄紙をはがしていくことになるだろうけど、そのプロセスをリラックスして楽しんでいくゾ。欲求をみたすためのポジティブな方法も探すゾ。

 迷惑をおかけしてしまったすべての人、場所、時に陳謝します。ごめんなさい。そしてすべてのこと、人に心から感謝します。ありがとうございました。