花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市鉄道唱歌

2024年06月12日 | レモン色の町

今日は、川島(訂正:神崎)のHさんの宅へ赴き、『四日市鉄道唱歌』なる貴重な曲を教えていただいたので紹介する。この歌は、戦後しばらくの間、田植え時期等にでも歌われていたということであった。

大正期の四日市鉄道

日露戦争後、帝国日本の鉄道は第一次大戦期の重工業化と国際化によって黄金期を迎えた。明治42年2月 桂太郎内閣は,地方交通の発展をはかるため、軽便鉄道法(けいべんてつどうほう)を帝国議会に提出、明治43年8月から施行した。これに手を挙げたのが、湯の山に本社を持つ“四日市軌道”だった。“軌道”つまり、道路の上でも敷設可能な狭軌の小型車両を、湯の山から四日市迄敷くことで、観光客を運び、菰野の産品も輸送しようというものだった。その後、四日市軌道は、専用路線のみの運行となり“四日市鉄道”と改名される(と、ここまで調子よく書いたが、間違っているかもしれない。乞う、訂正)。たいじゅさんに追記いただきました コメント欄をご覧クサい

大正期 四日市鉄道のコッペル車?

湯の山から始められた工事は川島まで伸ばされた。その当時、川島小学校の校長であった“伊藤鉄太郎”氏は、鉄道開通の喜びを唱歌として残されていた。川島小学校では戦後まで盛んに歌われたようだ。作曲:田村虎蔵

大正5年3月三重軌道との合同駅

1.清き流れの川島に なごり残して行く汽車の

 右は紡績会社にて 左の丘はふじ山よ

2.坂の島なる一つ松 続く青葉の景色よく

 眺むる暇もあらばこそ 早くも高角停留所

3.左に見ゆるは松茸の その名も高く聞こえたる

 一生吹山のこの秋は 友とうつれ遊ばなん

4.語ろう中に桜駅 桜の花の名所なる

 地蔵堂をば上に見て 金渓川に出てにける

5.金渓川の鉄橋を 渡れば神森の停留所

 藤の花咲く盛りには 下車する人も多からん

6.行く手にみえし松並木 いつしか我を迎えたり

 土方氏の城下にて 栄えし昔ぞしのばるる

7.昔に優る繁華にて 今や日の出の東町

 あれよと指さす稲の間に 汽車は止まれり菰野駅

8.城跡過ぎれば中菰野 関取米の原産地

 下りても見よや五色の 養蜂場の美しさ

9.冠ヶ岳(かんむりがたけ)に御在所 いよいよ近くなりにけり

 やがて登らん白雲の かかれる峠のあたりまで

10.地蔵片倉うち過ぎて 早わが汽車は終点地

   湯の山駅に着きにけり しばし憩いて登山せん

※ 神崎のHさんにお聞きした 四日市鉄道唱歌。大きな反響を?いただきました。翌日、Hさん(平尾さんと申します)からお礼の電話をいただきました。大変恐縮しております。うれしい限りです。