花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

高砂町 風景

2021年03月09日 | レモン色の町

“四日市史”近代編の冒頭を飾る 高砂町貸席 風景(明治5年)。三代広重画による東海道名所 改正五十三駅のうち四日市とあります。この年、稲葉三右衛門氏が、港の建設を請願した年です。すでに四日市は良港の地の利だあったため、高砂町は賑わっていたのでしょう。

通りの真ん中には桜の木が植えられまるで江戸の吉原のようです。蜃気楼が望めたとあります。以前にも紹介させていただきました。

2012年5月7日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

下の図は明治10年の旧港の鳥観図です。明治6年には稲葉三右衛門氏により港が着工され、その年に燈台と波止場を除く堤防が完成しています。8年に高砂町と稲場町が命名されました。出島みたいです。

時代は移りますが、昭和20年の空襲で焼け野原になった時の旧港です。

諏訪神社や市役所が望めます。第三小学校は今の納屋プラザです。

※ 稲葉三右衛門氏によって港の堤が出来たのが明治6年ですが、それ以前(明治5年の貸席風景)から高砂町(明治8年命名)は賑わっていたようです。

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江戸の道しるべ折損

2021年03月06日 | レモン色の町

江戸の道しるべ折損 トラックによる(昭和11年7月1日 伊勢新聞より)

愛知県渥美郡福江町 古内自動車運転手 河合春次(21)は、6月28日午後8時半頃 伊賀名張町からトラックに酒を積載して 豊橋に帰る途中 四日市南町 四日市銀行西支店四辻で運転を誤り 建てられてある石の道しるべ衝突 折損した この道しるべは天保10年6月7日 四日市上新町 石屋 新兵衛さんが建てたもので 名所図会等にも載せられている由緒あるもの 四日市土木出張所では 折れ口の骨つぎ工事を施したが 到底元通りとはならぬので 残念ながら近く建て替えることとなった

旧四日市を語る会に「精養軒の角(現在の伊藤皮膚科医院)のところに 子供の時分に石柱が立っていて それを学校の行きかえりに飛び越えては叱られた」とあった。四日市宿の辻に立つ道標のことです。

辻の西北に岡田屋さんがある

上の図は昭和2年頃の配置図です。この頃に精養軒さんはなくなっている。戦後 諏訪劇場前に建った精養軒さんと同じ店舗ではなかろうか?以前グリーンモール商店街で精養軒さんのことは書いている。

2018年12月23日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

少しい古いことになるが 伊藤さんという方が訪ねてみえた。

2011年4月15日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

その後伊藤さんからのお便りが届いている

2011年4月22日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

10年の歳月がたつが お元気でみえるだろうか?

追記 下総人様

当時の博覧会の図から見ると救護所(四日市市民病院)は、博覧会会場内に建てられたようです

道路の角に立つ建物の写真は 迎賓館前から撮られたものではないでしょうか?

 

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四日市市立病院変遷史

2021年03月03日 | レモン色の町

三滝川の北側、浜一色にあった四日市市立四日市病院は、伝染病専門病院であったため市民は他の民間の病院に頼っていました(もう1か所、海蔵村末永に梅毒専門の県立泗水病院がありました)。さて、昭和11年5月、尾上町の資産家 小菅剣之助氏の寄贈により千歳町に四日市市民病院が開院されます。

国産振興博覧会会場に建てられた救護所

この年“国産振興四日市大博覧会”が千歳町で開催されており、市民病院は同じ小菅氏寄贈で建てられた公会堂や商工会議所と並んで会場に隣接して建てられました。博覧会会場隣接とはいえ、市街地から離れた場所に公会堂や商工会議所が建てられた理由がここにありました。後に町中へ移転となります。当時の会場案内図を見ると“救護所”が病院になっていて、同じ建物と推測できます。

昭和11年千歳町に出来た市民病院

右四日市伝染病院と左四日市市民病院(昭和15年)

診療は、内科・外科、職員は医師を含めて20名、本館と病棟1棟、ベッド数14床の病院でした。その後、翌年には耳鼻咽喉科、昭和13年には新病棟と眼科を増設しています。手狭だったのでしょう。日中戦争の勃発や市民の衛生意識への向上等で院内は増築も間に合わない状況となりました。そのころ、諏訪公園西にあった津田病院が閉鎖、市に寄贈されることとなり四日市市立病院となります。これで四日市には、浜一色の市立伝染病院と千歳町の市民病院の三つの病院があったことになります。

昭和5年の地図 公園西に津田病院がある

ところが、千歳町の市民病院は、昭和19年の東南海地震で半壊し、諏訪公園西の市立病院へ併合されます。町の人々がお世話になっていた公園西の市立病院は、市民病院とも呼ばれていましたが、その理由が分かりました。ここも昭和20年6月の空襲で焼け、現在の諏訪公園交流館が臨時診療所となった時がありました。治療を受ける兵隊さんと看護婦さんの熊澤館をバックにした写真を見た記憶があります。

昭和36年4月、四日市市立病院は、堀木町に移転改築されました。

昭和43年には近畿鉄道用地になっています

四日市市立病院は堀木町へ移転していました。左隅に斎場があります。

昭和44年頃“四日市市の今昔”より 左が四日市市立病院 その右に水道局が建つ

 

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