三滝川の北側、浜一色にあった四日市市立四日市病院は、伝染病専門病院であったため市民は他の民間の病院に頼っていました(もう1か所、海蔵村末永に梅毒専門の県立泗水病院がありました)。さて、昭和11年5月、尾上町の資産家 小菅剣之助氏の寄贈により千歳町に四日市市民病院が開院されます。
国産振興博覧会会場に建てられた救護所
この年“国産振興四日市大博覧会”が千歳町で開催されており、市民病院は同じ小菅氏寄贈で建てられた公会堂や商工会議所と並んで会場に隣接して建てられました。博覧会会場隣接とはいえ、市街地から離れた場所に公会堂や商工会議所が建てられた理由がここにありました。後に町中へ移転となります。当時の会場案内図を見ると“救護所”が病院になっていて、同じ建物と推測できます。
昭和11年千歳町に出来た市民病院
右四日市伝染病院と左四日市市民病院(昭和15年)
診療は、内科・外科、職員は医師を含めて20名、本館と病棟1棟、ベッド数14床の病院でした。その後、翌年には耳鼻咽喉科、昭和13年には新病棟と眼科を増設しています。手狭だったのでしょう。日中戦争の勃発や市民の衛生意識への向上等で院内は増築も間に合わない状況となりました。そのころ、諏訪公園西にあった津田病院が閉鎖、市に寄贈されることとなり四日市市立病院となります。これで四日市には、浜一色の市立伝染病院と千歳町の市民病院の三つの病院があったことになります。
昭和5年の地図 公園西に津田病院がある
ところが、千歳町の市民病院は、昭和19年の東南海地震で半壊し、諏訪公園西の市立病院へ併合されます。町の人々がお世話になっていた公園西の市立病院は、市民病院とも呼ばれていましたが、その理由が分かりました。ここも昭和20年6月の空襲で焼け、現在の諏訪公園交流館が臨時診療所となった時がありました。治療を受ける兵隊さんと看護婦さんの熊澤館をバックにした写真を見た記憶があります。
昭和36年4月、四日市市立病院は、堀木町に移転改築されました。
昭和43年には近畿鉄道用地になっています
四日市市立病院は堀木町へ移転していました。左隅に斎場があります。
昭和44年頃“四日市市の今昔”より 左が四日市市立病院 その右に水道局が建つ