昨日(8月12日)の中日新聞掲載のあったロジドリ裏面に“渡満の果てに 三重の満蒙開拓団”の特集があった。昭和7年以降、三重県からも3千〜4千人の家族が満州へ渡り半数以上が帰国できなかったという。弾丸列車が華々しく走る陰で、悲惨な現実があったことを忘れてはならない。
川野さんは、コレラ、発疹チフス、はしかや肺炎が蔓延する中、空腹に耐えながら遺体の埋葬に携わった。そして40日後、ようやく綏化(すいか)から新京への列車に乗ることができる。
ところが途中厄介なことが相次いだ。「数日間の道中、列車はしばしば停止しました。無蓋車に便所はありませんから、泊まるたびにみんな降りて用を足すんです。夜になると『ギャーッ』という悲鳴が物陰の方からときどき聞こえてきました。それでも、助けに行くことはできません。真っ暗ですし、下手したらこっちが殺されます。
列車が止まったのにはわけがあります。というのも、ソ連兵が列車を停めて、私たち避難民にゆすりたかりをするわけです。『女をだせ』とか『時計出せ』、『銭出せ』とか。女を出さないでいると、車内は緊迫した異様な雰囲気になるんですよ。女たちがお互い不信のかたまりとなってしまうんです。それで、向こうが要求する人数を出すと、やっと鉄橋を通してくれました。列車が動くということは結局は誰かが犠牲になったということ。水商売業者とか淫売の前歴がある人とかが、身代わりになったんです。日本帝国裏面史“実験国家満州帝国のすべて”より