泊山から海軍道路を東へ、第二海軍燃料廠跡にぶつかり塩浜街道を南へ、楠方面へ進んだ。
農道に入ると、楠城跡の立て札が見え、その先に楠神社があった。神社の西に小さなコンクリートの建物が望める。思ったより小さい。
近くで農作業をしている方がみえた。
「ここは、鈴鹿川と鈴鹿川派川の分岐点にあたる。現在は農業用水として水を汲みだしているが、水不足の時だけ利用している。というのも水に使用量(使用料の間違い)がかかるようになったからだ。建物はここの周辺の者で管理している。今ではカギがかけられているが、小さい頃はよく水を飲みに入ったものだ。名水というわけにはいかない。大腸菌も入っていたに違いない」ということだった。
隙間から覗いてみたが、階段で下へ降りるようになっていた。どのように汲み上げているのか見たいものだ。
その下(南東箇所)に、軍用地と民有地を区分する『境界標柱』が立っていた。高さ40センチほどのコンクリート製で『海軍用地』と彫ってある。北野保氏の「よっかいち浪漫紀行」によると、北西側にも立っているそうだ。四日市で現存するのはここだけで、貴重な戦争遺産といえる。
鈴鹿川堤の間に残る本郷深井戸は、暑い日差しを受けて静かに佇んでおりました。