花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

カンバック!昭和商店街16<すずらん通り3>

2018年12月12日 | レモン色の町

北京飯店は、私が20代の頃商店街の会合で行ったから、昭和50年頃まであったと思う。中華そばを食べるのは、嶋口屋だったので、北京飯店のラーメンは麺が細くて本場の味がした。唐揚げ、炒飯、餃子が定番だった。2階も食堂で板の床だった記憶がある。そういえば北京飯店で火災が発生した。戦後の古い建物では、しばしば漏電火災があった。それがきっかけで閉店したのではなかったかと思う。

 

今日のすずらん通り

北京飯店は後の紳士服ヤマモトの本部となり、現在取り壊し中である。街の真ん中で鉄筋コンクリートの解体は手間がかかる大変な作業だ。

 奥が広いのに驚く。草野さんの裏に突き抜けそうだ

スワサロンは健在で、現在でも商店街のみんなに愛されている。街の会合では、機内食セットをよく食べた。ハンバーグ定食が四角いお盆に並んでいた。昭和40年頃には菓子パンが売られていた事を思い出す。ぶどうパンの真ん中に杏ジャムが埋まっていて、白い砂糖のかかっていたのが好きだった。

 

すずらん通りには、木戸くんちの床屋があり、北勢堂からは音楽が流れていた。嶋口屋の路地を抜けて勤め帰りの人が家路へと急いでいた。

昭和43年のすずらん通り

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カンバック!昭和商店街15<麻生医院前2>

2018年12月10日 | レモン色の町

今日の、諏訪公園南沿い通り。トラックが待機している。多分、すずらん通りで解体中(笹井屋レストラン、その後、紳士服のヤマモトになった)の建物の瓦礫を運ぶ車だと思う。

 

下の図は、岡野繁松氏が描いた諏訪公園の図。市民壇が造られているから昭和初期、戦争以前の図だ。公園側には西から、ブランコ、鉄棒、クマと猿の檻、そして茶屋のようなものだろうユウリン亭とある。南側には空き地が広がっていてお祭りなどにはサーカスが来た。その先に明治天皇行幸記念館があった。

 

クマはいなくなり猿の檻が残った。昭和40年代頃まであったのではないだろうか。こんな話を披露している。結構受けがいいので何度でもしている。浅草お茶の間寄席で仕入れたのをアレンジした。

昭和18年7月18日。ここにあった猿の檻に、台湾から台湾猿5頭が来ることになった。当日、公園課の課長さんは喜び勇んでやって来たが、なんと、その中にニホンザル1頭が混じっているではないか。課長さんは怒った「約束が違う!」と。

その返事は、「1頭は、通訳デス!」

昭和43年のゼンリン地図

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恒例!年末恵比寿スペシャル

2018年12月09日 | おいらの商店街

今年9月、商店連合会から出かけた大津商店街連盟でイベント100円商店街を知った。早速、スワマエで模倣をさせていただくことにしたが、参加店は6店舗。幟を作る費用も出ない、ということで・・・百円商店街を百円市に変更。コピー紙にて制作した。

当店の百円市プラモ百円!早くも「何時からですか?」の問い合わせ有り。昨日、殺到されて困った夢を見たので、告知は店頭ポップ4枚のみで、控えた。売れなかったらどうしよう!

 

 

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カンバック!昭和商店街14<グリーンモール2>

2018年12月08日 | レモン色の町

諏訪中央商店街(現グリーンモール)は思い入れが深い。下の図は昭和32年頃の街区図である。右が北になっているのでご容赦いただきたい。

 

浜田小学校への通学路だった。内山君の家には早くからテレビがあった。当時テレビのない子供は、内山くんの店に押しかける。晩御飯になると嫌な顔をされるが、一向にかまわない。食べている横で一心不乱に観続けた。

本日のグリーンモール

暴れん坊の青木君が学校の窓ガラスを割った。そこで学級委員である内山君の呼びかけで、新聞紙で袋を何枚も作り八百竹さんへ持って行った。「糊が効いてないなあ」と渋い顔をされたが、いくらかのお金になった。漫画の影響か、当時は強きをくじき、弱きを助ける正義の味方が大流行だった。月光仮面、矢車剣之介、まぼろし探偵、赤胴鈴之助、快傑ハリマオ、少年ジェット、エイトマン、七色仮面、そして鉄腕アトム。

 貝増氏は装飾に余念がない

 時代は移り、バブルの頃、スタンドバー星座はキャバレーになった。しばしば商店連合会仲間で訪れた。時間延長はみんなの合図で決めた。そしてなにより、トイレの外で彼女がおしぼりを持って待っていてくれるのがうれしかった。阿呆な話である。

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カンバック!昭和商店街13<グリーンモール>

2018年12月05日 | レモン色の町

 昭和34年12月30日。明日は大晦日。諏訪花園前はお正月用品の買出しの人でいっぱいだ。諏訪劇場側から撮られた写真。

この年の9月、伊勢湾台風が東海地方を襲った。そんないやな思いを払拭するかのように人々は買い物に走る。諏訪花園の南隣が増田屋菓子店、諏訪中央商店街(現在のグリーンモール)寄りに子鳩洋装店、三重興農社、早川荒物店と並ぶ。

昭和43年のゼンリン地図

この日、我が家では全員で夜明け前から餅をついた。ついた餅を姉とリヤカーに乗せて、朝日町のおばあちゃんのところへ運んだ。新田町の店から東へ、線路に沿ってリヤカーを押す。途中、三滝通りを渡るころ、空が明るくなってきた。誰もいない町。吐く息が白く見えた。明日の紅白歌合戦の司会は高橋圭三と中村メイ子。この年は「御存知弁天小僧」を歌った美空ひばりの紅組が勝った。

昭和35年頃の諏訪中央商店街(グリーンモール)樹林社刊「四日市市の今昔」より

左上に「スタンドバー 星座」の看板が見える。服部スポーツ店の2階だったのか?そんな昔からあったのか?ムム?

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映画「来る」上映間近!

2018年12月04日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

よっかいちフィルムコミッション様が、パンフを作っていただいた。

大道具さんがみえて、仏壇を飾りたいとの御依頼があったのは今年の2月頃か?新品ではいけないということで、探した。そして納品。床の間横を仏間に仕立て、畳を傷つけないように、大道具の皆さんと共に慎重に収めた。これは飾り付けの様子である。

小道具の持ち込みは2台のトラックに。サッカーボールから三輪車、扇風機まであった。映されないものが殆どではないだろうか。仏壇に飾るお花だが、今の造花は良くできていますよ。といったが、答えはノー。監督の力の入れようが伝わる。ロケは1回では終わらず、後日撮り直しがあったそうだ。乞うご期待!

追記  寒い冬に夏のシーンを撮った。裏方の私は、ロケ当日は拝見していない。出来栄えが楽しみである。黒木華さんと妻夫木聡さんが来ていたそうだ。

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カンバック!昭和商店街12<麻生医院前>

2018年12月02日 | レモン色の町

昭和32年5月13日 雨上がりの道を、勤め帰りの二人が通る。諏訪公園南の麻生医院前(現在はコインパーキングになっている)から三番街に向かって撮られた写真だ。

公園に沿って通りには屋台が並ぶ。北側(大正館前)にも十数軒並んでいたから公園の周辺は飲み屋だらけだった。女手ひとつで生活の糧に始めるのには、屋台は手っ取り早かったのだろう。考えてみると、戦後の街の構成に、飲食の店がかなりウエイトを占めていたように思う。

左公園内に猿の檻が見える。ここの日本猿(台湾猿デハナイ)は時折脱走して、麻酔銃で撃たれては戻されていた。「えさをやるな」と書いてあるのに、みんながえさを与えていた。

同日、昭和32年5月13日 開店準備ができた

昭和32年2月 寒い日の夕刻。準備に余念がない

昭和32年11月12日 夜の道を子供をおぶった女性が通る

同じ日の夜 営業中の屋台

立ち退きを命じられた屋台の女性は、共栄ビルに移ったと聞いたが・・・

 

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カンバック!昭和商店街11<スワマーケットから西>

2018年12月01日 | レモン色の町

スワマーケットから西へ

昭和30年2月。諏訪駅が取り壊された跡に、広い空き地が残った。西から、パチンコ店、まるみや、スワン美容室の裏口、今村書店と並ぶ。その東に辻写真館へ抜ける狭い路地があって、奥に見えるのが諏訪劇場の大きな屋根だ。写真の左にスワマーケットが建っている。この道は、すでに取り払われている内部・八王子線沿いの道路だ。新しい駅へ通勤の人々がこの近道を通る。寒い日の午後。昼頃まで時雨れていた空がようやくあがった。ぬかるみの中を子供たちが遊ぶ。街のいたるところが遊び場になった。新しく出来た空き地を、僕が走る。

時は過ぎ、昭和31年8月30日。夏の宵。諏訪駅跡の空き地で「歌のびっくり箱・クイズ合戦」という催事が行われた。主催は江田町発展会。諏訪駅から南、中央通りまでが江田町だった。諏訪駅から南西へ伸びる内部・八王子線跡地が江田町西部地域会と呼ばれていて、江田町は今の一番街を包括するほど広かったのだ。大勢の人が集まっている。前を陣取った子供たちがキャラメル欲しさに舞台へと群がる。家にテレビは無い。暑さと退屈で街へ飛び出す。

ステージ南で営業中が、まるみやさん。照明が明るい。

またまた時は過ぎ、昭和33年8月17日。新しい駅から近道を通って来た男性が、イベント会場跡の空き地を横断する。??今村書店が閉店して建物が半分残っている。食堂に変わったのか?。男性の真後ろに建つのがまるみや。

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