花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

諏訪駅の謎が解けた

2018年04月22日 | レモン色の町

映画上映会の後、Tさんから回答をいただきました。片付けで慌ただしかった為、大変失礼をしてしまいました。帰ってからブログを見ましたら、Tさんのコメントが入っておりました。コメントから取り出してここに掲載させていただきます。ありがとうございました

結論から言いますと、近鉄と三重軌道の軌規格が同一になったことは無く、直接レールで繋がったこともありません。
※狭軌規格の寸法は何種類もあります。しかしながら、三重軌道が諏訪駅から国鉄四日市駅西まで運行していた歴史はあります。
《三重軌道》
開業時762mm(開業時から変更無し)
《四日市鉄道》
開業時762mm→1435mm(S39)
※S39年湯の山温-名古屋直通開始
《伊勢鉄道》
開業時1067mm→1435mm(S34頃)
時期としては大正5年から諏訪-四日市間を、三重軌道と四日鉄道が各々の路線で並行して運行してましたが、昭和3年頃に廃線になっています。
《諏訪駅-四日市駅間路線延長》
四日市鉄道:1916年(大正5年)3月5日~三重軌道:1916年8月28日~
《諏訪駅-四日市駅間路線の廃止》
1927年(昭和2年)11月10日申請、12月23日認可
廃線の理由ですが...
1.三重、四日市を数年後に合併する計画があった。
2.両社の社長は伊勢鉄道社長熊沢氏が兼任しており、経営体こそ別組織であるものの実質伊勢鉄道配下だった。
3.伊勢鉄道の四日市-桑名間延長において、新路線は四日市駅-諏訪駅間を通過する計画となっていた。そのため両社は当区間の路線を廃止し、跡地を伊勢鉄道が使用することとした。...などが主な理由です。
尚、この計画において四日市鉄道は軌間を1067mmに変更し、伊勢鉄道へ直通する計画がありました。しかしながら、熊沢氏が1927年(昭和2年)の私鉄疑獄事件に連座し失脚したことから、三重軌道、四日市鉄道の2線は他地区への発展をみぬまま、その地に留まりました。
※三重県における戦時交通統制と地域交通体系の再編成(三木理史氏)参考
四日市駅まで路線が通じていた当時は、駅西側に三重と四日市の合同貨物ターミナルがあったそうです。四日市市在住の軽便鉄道愛好家の方が関連写真をネットにアップされております。写真を拝見しますと、諏訪駅-四日市駅間の路線の様子が想像できる気がします。「北勢軽便王国物語」で検索されれば、見つけられると思います。



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2 コメント

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Unknown (さくらかぜ)
2021-04-05 23:37:13
諏訪ー四日市間を考えるとき、伊勢電気鉄道四桑線計画を押さえておく必要があります。
桑名ー四日市の路線免許は揖斐川電気が先に降りており、これは市街地を大きく迂回し、四日市駅に南側からアプローチするものでした。
となると伊勢電気鉄道が揖斐川電気の免許を譲り受けても四日市でスイッチバックする必要があります。
三岐鉄道の保々から四日市までの計画線も南側を大きく回り込んで免許申請されています。(これが今の三岐鉄道バスで名残かと思います。)
つまり、四日市駅の北側に線路を敷くにも用地買収に多額が必要となることから、目をつけたのが、三重鉄道であり、四日市鉄道でした。
熊澤一衛は三重鉄道、四日市鉄道を傘下に収め、両社の軌道を譲り受ける形で諏訪から桑名の四桑線を延ばすことにした。と考えています。
このため、善光寺カーブ、天理教カーブが生まれたのだとおもいます。
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ムム・・・ (タケオです)
2021-04-06 09:52:00
さすがです
私の知ってる人???さくらかぜさん
これからもご教授ください
鉄道の歴史は深い
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