店の横に、昭和30年代の映画ポスターを貼っている。
今回は、東映スター、大川橋蔵を特集した。ウィキペディアから拝借して、説明文も入れてみた。
昭和4年、柳橋の芸子の子として生まれ、生後間もなく歌舞伎役者の小野家の養子となる。
昭和10年、市川男女丸を名乗って初舞台を踏み、六代目尾上菊五郎に認められて、六代目の妻寺島千代の養子となり二代目大川橋蔵を襲名する。
六代目亡き後は菊五郎劇団に属し女形として活躍したが、戦後という新しい時代の中で歌舞伎界の前途に不安を感じていた。このころ、一足先に映画界にデビューしていた市川雷蔵の勧めもあり映画界入りを決意した。
昭和30年、マキノ光雄の誘いで東映に入社、デビュー作「笛吹若武者」で共演した美空ひばりから「トミー」のニックネームをつけられる。東千代之介・中村錦之介・市川雷蔵・大川橋蔵の四人は「ニスケニゾウ」と呼ばれ、昭和30年代の日本映画黄金時代の立役者となっていく。
「若さま侍捕物帳」や「新吾十番勝負」などで活躍したが、昭和30年代後半に東映がヤクザ映画に路線変更すると舞台やテレビに活躍の場を移した。
昭和41年、祇園でなじみの芸子 沢村真理子と結婚、この年からフジテレビで「銭形平次」の放送が開始された。「銭形平次」は、一人の俳優が同じ主人公を演じた1時間ドラマとしては世界最高記録となり、ギネスブックに認定されている。
「銭形平次」の最終回を迎える前年の昭和58年から体調を崩していて、入退院を繰り返しての収録だった。結腸癌が肝臓に転移していて、本人には病名を知らされなかったが、自らの病気を察知していて医師に対し
「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気を遣い、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、何故こんな病気になったんですか??」と訴えたという。
昭和59年12月7日死去、享年55歳だった。
意外に薄幸の役者だった。芸子の子として生まれ、芸子を妻にしている。歌舞伎界の恩を背負って映画会に移った。大して不摂生もしていないのに癌に侵され、55歳という短い生涯を閉じた。華やかな芸能界の裏側を垣間見た思いでゴザイマス。
追記
ドウでもいいことなのですが、信号で止まっていたとき、メーターを見たら、走行距離が77777だった。ドウでもいいことです。