ご当地四日市の諏訪神社は、建仁2年(1202)7月27日、加藤判官景廉が、信州諏訪神社より勧請したものといわれています。ご神体は「八重事代主命(やえことしろのみこと)」と「建御名方命(たてみなかたのみこと)」でございます。何故にお二人なのか?そのあたりを調べてみました。
さて、昔々「古事記」の世界にさかのぼります。天照大神は葦原中国(あしはらのなかつくに=出雲地方)を息子にプレゼントしたいと考え、家来である天鳥船神と建御雷之男を略奪の使者として出雲に向かわせます。略奪とは言葉が悪いですが、結局、奪い取ったことになります。
当時、出雲の国は大国主命(おおくにぬしのみこと)が支配しておりました。大国主命には二人の息子が居て、これが八重事代主命と建御名方命なのです。葦原中国をよこせという要求に大国主命は「息子たちに聞いてくれ」と答えます。
兄の八重事代主命は「持ってけ泥棒」といって雲隠れします。弟の建御名方命は激しく抵抗し、使者の建御雷之男と力比べをしますが負けてしまいます。多分、戦があったのでしょう。
建御名方命は、追われて信州の地へ逃れます。大国主命は、天照大神に葦原中国を明け渡し、出雲大社のご神体となることを条件に服従を誓います。日本を統一する過程が垣間見えるようです。
信州には先住民族、守屋族がいて、諏訪湖の竜神を信仰しておりました。こうして進攻してきた諏訪氏一族と守屋族の信仰は合体され、後に建御名方命は、諏訪神社の御祭神となるわけであります。
諏訪神社の御分霊、四日市諏訪神社では、建御名方命をご神体とすると共に、兄である八重事代主命が恵比須神、商売の神様であったことから、このお二人をお祭りすることになったわけであります。
さて、昔々「古事記」の世界にさかのぼります。天照大神は葦原中国(あしはらのなかつくに=出雲地方)を息子にプレゼントしたいと考え、家来である天鳥船神と建御雷之男を略奪の使者として出雲に向かわせます。略奪とは言葉が悪いですが、結局、奪い取ったことになります。
当時、出雲の国は大国主命(おおくにぬしのみこと)が支配しておりました。大国主命には二人の息子が居て、これが八重事代主命と建御名方命なのです。葦原中国をよこせという要求に大国主命は「息子たちに聞いてくれ」と答えます。
兄の八重事代主命は「持ってけ泥棒」といって雲隠れします。弟の建御名方命は激しく抵抗し、使者の建御雷之男と力比べをしますが負けてしまいます。多分、戦があったのでしょう。
建御名方命は、追われて信州の地へ逃れます。大国主命は、天照大神に葦原中国を明け渡し、出雲大社のご神体となることを条件に服従を誓います。日本を統一する過程が垣間見えるようです。
信州には先住民族、守屋族がいて、諏訪湖の竜神を信仰しておりました。こうして進攻してきた諏訪氏一族と守屋族の信仰は合体され、後に建御名方命は、諏訪神社の御祭神となるわけであります。
諏訪神社の御分霊、四日市諏訪神社では、建御名方命をご神体とすると共に、兄である八重事代主命が恵比須神、商売の神様であったことから、このお二人をお祭りすることになったわけであります。