花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め48弾丸列車⑧

2020年05月11日 | レモン色の町

<軌道を中心に>

政府は、明治5年9月12日、英国のエドモンド・モレル技師に頼んで新橋〜横浜間に陸蒸気を走らせた。この時の線路の幅は、1,067mm、国際基準軌の1,435mm(広軌)と比べて狭く、狭軌と呼ばれている。ちなみに国際的に広軌と呼ばれているのは1,524mmあった。(参考まで、あすなろ鉄道は特殊狭軌といわれて、760mmである)

明治40年「南満州鉄道株式会社」が設立され、陸軍から業務を引き継いだ時の軌間は1,524mm、国際的基準の広軌であった。それを日露戦争後に日本軍が国内に合わせて1,067mmに変えてしまっていた。それを満鉄は、朝鮮間のスピードアップの為、当時言われていた広軌1,435mmに変える工事を行った。1年間かけ大連〜長春間の工事を終えたが、車両はアメリカからの輸入だった。一方で満鉄は、車両製造に力を入れる。大正3年、紗河口工場で待望の第1号が完成している。

満州鉄道の株券

一方、明治40年、関西鉄道四日市工場から逓信省へ移った島安次郎は、広軌改築計画を主張したが、大正7年原敬内閣の折に否決され辞職した。辞職後、東京帝国大学講師となる。息子で後に新幹線(軌間1,435mm)開発に携わる島秀雄は在学中に父の講義を受けている。その後、南満州鉄道株式会社社長代理となる。大正14年、「あじあ号」の設計に関与することとなり、昭和12年「鉄道幹線調査会」が発足すると特別委員長に選任された。 この委員会で「弾丸列車」の俗称で有名になる東京~満州間の新幹線構想が発表される。内容は、増設路線は複線電化、長距離高速度列車の集中運転(貨車列車など走らせない)、そして、軌間は広軌の1,435mmであった。


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