花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

二軒茶屋餅のこと

2011年09月06日 | 諏訪商店街振興組合のこと
先日のこと、鳥羽へ出かける機会があり、駅の売店で時間待ちをしておりましたら“二軒茶屋もち”を見かけて買い求めました。そう、小津安二郎が学生の頃、伊勢在住の折に食した二軒茶屋餅のことです。
先日の役員会でも、八鳥氏が「城下町の和菓子文化と異なり、伊勢路は餅文化だ」という言葉を思い出します。“永餅”“へんば餅”“赤福餅”“二軒茶屋もち”と伊勢神宮へ向かって旅する人々には、上品な和菓子よりも腹持ちの良い餅菓子が好まれたのでしょう。
“二軒茶屋餅”添付のしおりにはこう記されておりました。
     
 二軒茶屋餅の創業は、今からおよそ400年前の天正年間(1573)のこと、私(鈴木宗一郎)で20代目を数えます。
 当店のすぐ裏手は伊勢の町なかを流れる勢田川の河岸になっておりますが、その河口にある大湊(おおみなと)、神社(かみやしろ)は古くから宋や明との貿易で大変にぎわった港です。そこには全国より海路を経て伊勢神宮へ参拝する船参宮の方々の港でもあり、そこから勢田川をさかのぼって、ここ二軒茶屋に上陸するのが通常のコースでした。と申しますのは、当地は下宮・内宮の中間にあり、また遊郭・旅館街として名高い古市へも最短距離にあったからです。一面の芦原だった船着場近くには、当店ともう一軒に茶屋(湊屋)ができ、誰いうとなくこの地を“二軒茶屋”また当店のきな粉餅を“二軒茶屋餅”と呼ぶようになったといい伝えられております。
     
     
径4センチほどの小さな餅で(昔はもっと大きかったのかもしれません)こし餡に包まれた小さな大福にきな粉がまぶしてあります。別にきな粉が添えられてありました。
8年ほど前になりますか、振興組合からこの河崎へ視察に出かけたことがありました。勢田川をはさんで古い商店が並び、船の往来で繁栄した名残りが見受けられました。
     
     

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