戦前の校舎
昭和20年6月、B25の編隊が四日市の夜空に来襲、焼夷弾の雨を降らせました。当直の本田先生は、女先生二人に“御真影(天皇陛下の写真)”を持たせて校庭の小防空壕へ避難させました。この時、校舎の東南の道路で焼夷弾が破裂、爆音の合間を縫ってバケツで小川の泥水をすくい、なんとか消しましたが、今度は、大型油脂焼夷弾が校庭で爆発、風にあおられて西校舎から北校舎へと燃え移っていきました。
伊藤、矢田班長と共に団員たちは、北校舎1階の硝子戸を破り二階へ駆けあがりました。二階には不発弾が横たわっており、それをまたいで必死の消火です。何とか鎮火には至りましたが、昭和19年の空襲で受けた修理箇所が充分でなかったため、屋根の隙間からも煙が出始め、ポンプの水も届かないありさまでした。今度は、東の講堂への類焼を防ごうと、渡り廊下を破壊しますが火の勢いは収まるを知らず広がり続けました。この時、本部消防が阿瀬知川に避難していたことを知り救援を求め二台のポンプで消火にあたりましたが、東の新校舎を残して、北校舎の六分は焼け落ちてしまいました。
空襲後の学校(中央)と鵜の森神社(左)
鈴木芳松記 はまだ80周年記念誌より
空襲後の昭和26年落慶された校舎
下の図は、昭和30年当時の浜田小学校。
下の写真は、昭和45年 取り壊される校舎。建物の両側がセメント塗りのようになっているのが分かります。後に補強のため塗られたのでしょうか?下総人様のご指摘で気付きました。
1階が職員室、2階が講堂になっていました。
5年生の時にお世話になりました。
確か教室は一階ニ階合わせて4つ。
A〜D組と四クラスあった私達にピッタリでした。
廊下が真ん中で 両側に教室があったのでしょうか?
運動場側の教室は覚えているのですが 廊下の北側にも教室があったという記憶はあまりありません
その分 教員棟に比べて校舎が北にせり出していたのでしょうか
お訊ねの校舎の運動場側にはスノコを敷いた屋根付きの長い渡り廊下があったような?
その校舎の一階には特殊学級が入っており、渡り廊下を通るときは教室の中を覗かないようにいわれていた。
証拠写真が見付かりました。🤯🤯🤯
ぶらり四日市 そのニ十ニをご覧ください。
え〜っと、このブログの著者って誰だったっけ???
🙄🙄🙄 😅😅😅
動かせぬ証拠 記憶は忘却の彼方
職員室棟の北側は すべてモルタル塗り?になっていますが 取り壊しの写真では東西の一部が モルタル塗?りですね 木造の劣化が激しかったのでしょうか?
ま、どうでも いいことですが
御迷答:
予算の関係で、南側を犠牲にして、通りから見える北側を優先。 卒業アルバムにも載せなきゃいけないし〜〜。😅😅😅
今なら、CGで仕上げます
タケベエさんはCG技術のスペッシャリスト。😳😳😳
何時ぞやは、昌栄橋の北詰にあり、戦時の金属供出で撤去されたはずの稲葉三右衛門さんの銅像を、その場所にさりげなく復活させてみたり、、、、、
これじゃ〜、JR駅前のと三右衛門さん二人になっちゃうよ〜〜。😵💫😵💫😵💫