日本の歴史について、国内ですら、スッキリとした統一的な解釈とはなっていない。
いや、むしろ、歴史とはそのようなものかもしれない。
古来から、歴史は征服者が書き替えてきた。
日本の近代史についても、まださまざまな説や論評が飛び交っている。
近隣他国の批判も姦しい。
それが自由ということなのだろう。
大東亜戦争についてもしかりだ。(太平洋戦争という呼び名が多い)
A君がB君を殴って、喧嘩となった。
A君が悪いに決まっている。
しかし、「先に殴ったA君が悪い」だけて論じていいのだろうか。
なぜA君は殴ったのだろうか?
どのような背景や経緯があって、A君は殴ってしまったのだろうか。
当時の周辺状況についても、公平に考察を加え、その上で、A君の「殴った」行為を評価することも必要ではないか。
同じ言うな事態を避けるためには、一方的でない評価により、事実を記録しなければなるまい。
太平洋戦争については、幾つかの歴史が示されている。
「東京裁判史観」、「皇国史観」、「自虐史観」などと評されるものもある。
日本の行為が100点満点だったなどと、決して思ったりはしていない。
だからと言って、勝者が敗者を裁いた「見せしめ裁判」の結果を、全てだとも思わない。
私は、さまざまの立場で書かれて歴史や論評を、今も飽かずに読んでいる。
過ちを繰り返さないために。
そして、誇りある日本を語り継ぐために。
今年も幾つかの書籍を手にした。
年の暮昭和戦史を読みきれず 鵯 一平
別館として、写真俳句ブログの「いのちの囁き」を開いてます。
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