幼馴染みのH.I君について書きます。
小学校と中学校の同年生だったHちゃんのことです。
当時、彼の家と私の家は、300メートル程度の距離にありました。
「IさんちのHちゃんは、温和しくていい子だねえ」
私の母は、そのような言い方で、よく私をたしなめたものでした。
(あのような子がいい子なのだなァ)
母の小言に不満を持ちながらも、納得できるものもありました。
しかし、「温和」は私の身に馴染まなかったようです。老いた現在ですら、まだ「温和」にはなりきれておりません。
高等学校が異なったので、それ以上の友人関係とはなりませんでした。
その後の彼は、巨大企業の地元工場に入社し、社会人として順調なスタートを切りました。
一方の私は、その後に東京暮らしとなったので、交流は途絶えてしまいました。
交流が復活したのは、お互いに古希を迎えてからです。復活に到る経緯に、一つの物語があるのですが、これは別の機会に書くこととします。
先日、彼から、「父を偲ぶ」というプリントを見せてもらいました。
同期に入社した120人の集まりで、「入社後の50年」といった意味の文集を発刊したおり、H.I君が書いたものでした。
そこには、私が知らなかった彼の半生が、簡潔に書かれてありました。
迂闊にも、いや、申し訳のないことながら、私の知らないことが幾つもありました。
「Hちゃん」とか「Sさん」とか呼び合っていながら、彼をあまりにも知りませんでした。
若くして他界したお父上に対する気持ちの深さにも、改めて触れることができました。
昭和21年に38歳で亡くなったのですから、お父上の無念はいかばかりであったでしょうか。
それから後は、お母上お一人の手で、二人の子供を育てあげられました。
かつて彼から、当時のお母上のご苦労を聞いたことがあります。うっすらと涙を浮かべながら語る彼の話に、私もわが母親の姿を重ねてながら聞きました。
そのお母上も、昭和47年に65歳で亡くなっております。
昭和40年代の初め、単身でアメリカへ出張し、40日間を要しながら、大型機械の輸送経路を調査したことが、淡々と書かれてありました。立派な足跡の一つでした。
私にそれほどの度胸があったろうか。わが身の外国への出張を思い出し、駄目だった自分を反省した次第です。
そのプリントに、お孫さんを抱いた写真がありました。
「温和しいHちゃん」が、そのままお祖父ちゃんになった感じでした。
このごろ彼とは、幾度か酒席を共にしました。穏やかな雰囲気のいい酒です。
しかし、勢いに乗ると、呑み過ぎてしまう癖がありそうです。「呑みすぎるなよ!」と忠告したことがありますが、噂によると、まだ治っていない様子。
折りがあったら、また忠告するつもりです。
若くして他界したお父上の無念に思いを致し、その分まで長生きしてほしいと思います。
それがお母上に対する供養にもつながります。
自分のことを棚に上げていること、十分に承知しているつもりです。
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