安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

鉄ちゃんのつぶや記 第20号・統計が語る事故

2004-09-24 22:51:14 | 鉄道・公共交通/交通政策
 先日、とある闘争団員の方から「国鉄時代とJR以降の事故件数の比較、及びJR時代の平均事故件数に関する資料の持ち合わせがあったら提供してほしい」との依頼が私の元に舞い込んだ。なんでも、この方の住んでいる九州の町で、列車が通過した直後に線路の上に崖が崩れる事故があったにも関わらず、JR九州が「天災」として軽く扱っていることに納得がいかない、これは人災ではないか、という。

 国鉄がJRになってからすでに18年目。当時はインターネットはおろかパソコン通信もなく、ようやく「VAN」(付加価値通信網)なるネットワークの端末装置が駅頭に登場し始めたばかりの時期だから、国鉄時代の事故件数に関する資料を載せているサイトはさすがにないらしく、こちらは現在調査中だが、JR時代の事故件数を載せているサイトはすぐに見つかった。他ならぬ国土交通省のサイトであり、そこに載っている「平成12年版鉄道事故統計」が示す数字にはとても興味深いものがある。彼と私の2人だけにとどめておくのはもったいない資料で、ぜひ多くの人にも見ていただきたいから以下、ご紹介することにしよう。

 事業者別運転事故件数(平成12年度)
 http://www.mlit.go.jp/toukeijouhou/toukei01/unyunenkan/r-accident/00/8.pdf

 事業者別運転阻害事故件数(平成12年度)
 http://www.mlit.go.jp/toukeijouhou/toukei01/unyunenkan/r-accident/00/9.pdf
 (どちらもPDFファイルなので、見る際はAcrobat Readerが必要)

 「運転事故」とは列車の脱線、衝突、接触、火災、人身などの事故を指し、一方「運転阻害事故」とは30分以上の列車遅延や運休で「運転事故以外のもの」を指している。鉄道が事故を起こした場合、旧運輸省が制定した「鉄道事故等報告規則」によりいちいち報告をするよう定められているから、その報告に基づいて作成されたものと思われる。私たち利用者の感覚で事故というのは通常は運転事故の方であり、運休や遅延について事故と認識する人は少ないかもしれないが、それはともかく、JRについては各社ごとに事故件数をまとめてあり、各社ごとの営業キロ数、列車本数、運転距離の違いを考慮に入れなくてすむよう、ご丁寧にも「列車100万キロあたり件数」まで算出してくれているから、素人にも取っつきやすい資料といえるだろう。

 資料の中身に入ろう。まず運転事故の方から見ると、100万キロあたり1件を越えているのはJR四国、九州の2社。山陽新幹線のトンネル崩落やら「居眠り運転士」やらで後々さんざんバッシングされることになるJR西日本ですら1件未満だから意外な数字のようにも思える。運転事故が少ないのはJR北海道、東海の2社であり、優秀だといえるかもしれない。

 一方、運転阻害事故が100万キロあたり5件を越え、多いと言えるのが北海道と東日本。最も少ないのが100万キロあたり3件に満たないJR四国であり、旅客会社の中では3件台のJR九州がこれに次いで少ないという結果が出ている。

 運転事故が脱線、衝突、火災など「利用者にとってほんとうの意味での事故」を表し、運転阻害事故が「運休や大規模遅延」を表していることを考えると、この結果はとりわけ重要な意味を持つ。「運転事故」が多く「運転阻害事故」が少ないJR四国、九州の2社が「事故の危険性があってもなかなか列車を止めず、そのことが現実に事故を引き起こしている」ことを示していると考えられるからだ。運転阻害事故が多く運転事故が少ない北海道、東日本の2社は全く逆で、「事故が起こる前に頻繁に列車を止めている」という結果が読みとれる。

 さらに、北海道、東日本、四国、九州の4社に関しては、運転事故が多い会社は運転阻害事故が少なく、運転阻害事故が多い会社は運転事故が少ないという反比例の関係をかなりはっきり読みとることができる。実際には、この統計の「運転事故」には踏切事故のような外的要因による事故も含んでいるから、すべてが鉄道側の責任で発生した事故とは必ずしも言えないが、踏切のない新幹線が別統計になっていること、統計の精度に影響を与えるほど大きな「キロあたり踏切数」の差が各社間にあるとは考えにくいことからして、「事故が予想される場合に列車を止める頻度の高い会社ほど実際の事故を高い確率で防止できている」という仮説が成立することに疑問の余地は少ないだろう。

崖崩れが起きる可能性があっても列車を止めず、列車が通過した直後、ほんとうに崖崩れが起きた九州の町でこの闘争団員が抱いた「これは人災ではないか」という危惧は事実だった。まさにそのことを他ならぬ国土交通省の統計が裏付けてくれたのだ。JR四国、九州の体質と言ってもいいかもしれない。

 同時に、このお粗末な事故は「人間軽視が招いた事故」と言えないだろうか。国鉄時代であれば、軌道自転車に乗った係員が、崩壊しそうな山や崖がないか巡回点検を行うのが常であった。やる気のある有能な国鉄マンを「国策に反対しているから」という理由で強引に首切りし、ぎりぎりまで人員を切りつめた上で過重労働を強制するJRに、もはや山や崖を巡回点検する余力など残されていない。かくして今後も同様の事故は繰り返されるだろう。そのときも「たまたま列車のいない線路の上で崖崩れが起きる」という幸運が続くとよいのだが、その保障はどこにもない。

(2004/9/24・特急たから)

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【鉄ちゃんのつぶや記 第19号】「保護」と「自立」

2004-09-24 22:50:08 | その他社会・時事
 悪名高き有事法制のひとつである「国民保護法」が9月17日付で施行され、JR、電力・ガス会社、NHKや民放テレビ局などの公益企業が「指定公共機関」に指定された。今後、これらの企業では「国民保護業務計画」の策定が義務づけられるなど、政府・企業一体となった「国家総動員体制」づくりが始まることになる。だが、この期に及んでもまだわからないことがある。国民保護法とはいったい何なのだろうか? そもそも誰が何を、何から保護するのだろうか? そしていったい誰のために?

農民作家の山下惣一さんという方が、自著の中で興味深いことを書いている。1980年代、日本の農業が過保護だ過保護だ、自由化しろとさんざん政財界あげての攻撃にさらされていた時期である。「いったい日本農業のどこが過保護なものか!」と慷慨する山下さんが、同時期、「保護」というものの本質について鋭い指摘をしているのだ。

 『たとえば「トキ」という鳥がいて、大切に保護されている。これはトキのためになのか人間のためになのか。…「保護してくれ」とトキの親方が環境庁に陳情したという話は聞かない。保護しなければトキは黙って滅びるだけの話だ。あきらかに人間のためにトキを保護するのである。トキが絶滅することへの人間の側の感傷。あるいは弱い鳥が棲めなくなった環境が、トキにではなく人間に及ぼすであろう悪い影響への危機感。これが保護の動機であり本質である。…徳川時代には「百姓は生かさぬように、殺さぬように」というのが農民支配、統治の要諦とされたことは誰だって知っている。…殺さぬようにというのが一種の保護思想である。為政者による、あるいは武士階級による「農民保護」が農民のためだったと考える人がいるだろうか』(「いま、米について。」山下惣一・著、講談社文庫より)

山下さんはこう考えた末、保護は「される側のためにではなくする側のためにある」と結論づけるのである。なるほどと唸らされる。国民保護法にこれを当てはめれば、事の本質がよりはっきりと見えてくる。国民「保護」は、「弱い国民が棲めなくなった環境が、国民にではなく政府に及ぼすであろう悪い影響への危機感」から、保護「する側」を守るための法律だったのだ!

しかし、私たちは守ってもらわなければ生きられないほど弱い存在ではない。自立した政治的市民は保護などなくても生きられるのだ。政府に見捨てられ、所属する労働組合にまで見捨てられて18年闘い続ける被解雇者も、イラクで人質にされながら「自己責任」のひとことで切り捨てられた3人も、「保護」なくして立派に生きているではないか!

 いまこそ私たちは声をあげよう。「保護なんて余計なお世話だ」と。守られてぬくぬくと過ごす人生は終わりにしよう。ひとりひとりが「五分の魂」を持とう。自分の頭で考え、自分の足で歩いていこう。

 日本の夜明けは、そこから始まる。

(2004/9/24・特急たから)

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