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学力差や学習意欲が階層差を反映していることは理解したが、その先は?

2012-12-21 08:26:23 | 読書ノート
苅谷剛彦『学力と階層』朝日文庫, 朝日新聞出版, 2012.

  00年代の日本の学校制度について考察する論文集。この本は2008年に同社から出版された書籍の文庫版で、オリジナルから一部内容を削除した箇所もあるとのこと。冒頭の論文で、生徒間の学力の差あるいは学習意欲の差は、家庭の階層差を反映している可能性が高いということをデータで示し、以降で階層に基づいた学力差を縮小する・あるいはこれ以上拡大しないための処置、間違った処方箋などについて考察している。

  手堅い内容だし首肯させられることも多い。しかしながら、1995年の『大衆教育社会のゆくえ』(参考)からの読者としては、予想の範囲内ともいえる。そろそろ「謝った認識にもとづく教育言説を正す」というこれまでの仕事から進んで、著者の考える階層差の少ない教育とはどのようなものなのか、打ち出してほしいところである。

  生徒全員が同程度の学力的達成となるまで公的な教育投資を続ける、このようなプランが馬鹿げていることは多くの人が同意してくれるだろう。公的に使える資源は無限ではないのだから。したがって平等主義者でもある程度の学力差は認めざるをえない。しかし、投資によって学力差が狭い範囲内に押しとどめられたとしても──そのわずかな差が就職などを通じて生涯所得の大きな差を産み出す可能性がある──、それでもまだ学力差が階層差を反映しているとしたらどうすべきか?このとき、さらなる追加的な公的投資でとことんその差を解消しなければならないのだろうか。

  著者の議論では、生まれつきの能力差という変数が組み込まれていない。そのため、階層差を無くすための支援と、能力的な問題で学業成績が悪い子どもへの支援とがごちゃまぜになってしまう可能性がある。学力差から、階層差も含めて環境を原因とするものを引いた部分が、生徒の生得的な能力差となる。それは階層差と別に議論すべきものだろう。その場合、社会が投資する額に見合う教育成果、あるいは教育効率という論点が浮上するのは避けられない。この視点が無いと、教育行政に対する批判もあまりリアリティを持たないように思える。

  というわけで著者のさらなる議論を待ちたい。それとも、これはすでに4年前の本だから、次の展開をもうすでに見せているのだろうか。
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