祖国復帰に賛成したのは日本が祖国だったからではない 民主主義国家だったから 軍国主義国家なら反対していた


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祖国復帰に賛成したのは日本が祖国だったからではない 民主主義国家だったから 軍国主義国家なら反対していた
 私が高校生の時の沖縄は米民政府が統治していた。50年以上も前のことである。あの頃は祖国復帰運動が盛んであった。
「沖縄は日本である」
「私たちは日本人である」
「日本は沖縄の祖国である」
と、先生は私たちに教え、卒業式、入学式などの式典の時は日の丸を掲揚し、君が代斉唱した。先生は新の正月に各家庭が日の丸掲揚するように指導したので、ほとんどの家が日の丸を掲揚をするようになった。今では日の丸を掲揚する家は少ない。復帰前のほうが日の丸掲揚する家は多かった。
 高校生になると祖国復帰についてあれこれと考えるようになっていった。
 私は祖国復帰に賛成であったが、日本が沖縄の祖国だから復帰するという考えには反対だった。日本が民主主義国家だから復帰に賛成であった。もし、日本が戦前のような軍国主義国家だったら祖国復帰に絶対反対だった。高校生の頃の私は軍国主義が大嫌いだった。神風特攻隊が、
「天皇陛下バンザーイ」
と叫んで敵艦に突っ込むのを映画で何度も見た。中学生の時はかっこいいと思っていたが高校生になると考えが違った。天皇陛下のために死ぬなんておかしいと考えるようになった。
明治時代から民主主義思想は発展していって大正時代には大正デモクラシーと呼ばれるほどになった。政治・社会・文化の各方面における民本主義が発展して自由主義的な運動が広まったのを大正デモクラシーという。大正時代には選挙で選ばれた政治家が首相になるという政党政治に発展するが、原敬首相が暗殺され、昭和になると昭和5年11月14日に浜口雄幸が右翼に狙撃され重傷を負い後に死亡。2年後の昭和7年の5月15日には総理大臣犬養毅が軍人に暗殺された。五・一五事件以後は軍部が政権を握った。
軍部が政権を握った日本は軍国主義になり、国民を歩兵としかみない戦争優先主義の政治になった。青年の夢や将来を奪って「死」を命じるのが軍国主義政治である。高校生になると洋画も観るようになる。洋画で見る戦争の多くは自由を求めた戦いであった。自由、平等、民主主義の考えが高校生になると強くなっていったから、自由を求める洋画の戦争には感動し、若者の自由を奪い死に向かわせる日本の軍国主義映画には反発した。だから、日本が戦前のような軍国主義国家だったら祖国復帰には反対だった。戦後の日本が民主主義国家になっていたから祖国復帰に賛成であった。

 沖縄が米民政府統治社会より民主主義国家日本になったほうがより民主的で自由になれると思っていた。もし、軍国主義の日本に復帰すれば自由のない貧しい生活を強いられるだろう。それは米民政府統治より悪い沖縄社会である。復帰前は米軍が統治していたと左翼は言うし、軍事植民地だっと信じている人は多い。しかし、それは間違いである。米国は民主主義国家である。軍部が政治をすることは禁じている。沖縄は米軍が統治していたのではなく、大統領配下の米民政府が統治していた。復帰前の沖縄は戦前の沖縄より自由であったし民主的であった。沖縄が米軍に支配された軍事植民地というのは左翼が流した嘘である。戦前の軍国主義時代の沖縄より米民政府統治の沖縄がより民主的で自由だったのだ。

 1972年(昭和47年)5月15日に、祖国復帰したが、特別な喜びも感動もなかった。沖縄が祖国復帰したのは祖国復帰運動の圧力に日米政府が折れたからではなかった。祖国復帰運動は復帰にほとんど関係ない。べトナム戦争で米政府の財政が危機的状態に陥ったのが祖国復帰の原因だ。
 米国は財政危機を防ぐために日本・沖縄にある米軍基地を縮小しようとした。主要な米軍基地だけを残してそれ以外の米軍基地は撤去しようとしたのだ。それに慌てたのが日本政府だった。ソ連、北朝鮮、中国との緊張は続いていたし、ベトナム戦争も続いていた。沖縄の米軍基地が戦力ダウンすれば日本の危機に繋がる。日本政府は軍用地料、軍雇用員の給料など米軍の基地の経費を日本政府が肩代わりするから米軍基地を現状維持するように米政府に要請した。米政府は日本の陽性を了解した。米軍基地の維持経費を日本が補填するには沖縄を日本の施政権下に置いた方が予算が組みやすい。それに政府としても沖縄の復帰を望んでいたから沖縄の祖国復帰が実現したのである。
祖国復帰の根本的な原因はベトナム戦争による米政府の財政悪化にあった。復帰前にこのように分析したのは革マルだけだったと思う。ほとんどのマスメディアは祖国復帰運動の圧力に日米政府が屈したように報じていた。
 革マルは祖国復帰は米政府の財政悪化を日本政府がカバーするためであると主張して。日の丸と星条旗を交錯させて燃やした。祖国復帰運動の象徴である日の丸を敵である米国の星条旗と交錯させて燃やすのは沖教祖などの祖国復帰運動を推進している左翼から恨まれただろう。
 学生運動から離れていたが後輩に誘われて与儀公園の大会に1年ぶりに参加した。革マルが握っている琉大学生自治会が檀上を占拠して日の丸と星条旗を燃やした。すると労働者グループが襲ってきて私たちは散り散りになって逃げた。その夜に琉大男子寮が共産党の青年部である民青に襲われて友人の町田が殺された。
 
 1972年5月15日に祖国復帰したが、感動はなかった。復帰しても沖縄の政治・経済が大きく変革していくことはないと思っていたからだ。保守も革新も祖国復帰できたのは自分たちが頑張ったからだと主張するが、沖縄にそんな力はない。復帰することによって日本の法律が適用され、莫大な交付金によって生活は向上していった。ダム建設によって断水はなくなり、莫大な交付金によって沖縄経済が大きく発展したのは予想外であった。

 若い頃は日本だけが議会制民主主義国家で、北朝鮮、中国、北ベトナムは社会主義国家であり、韓国、台湾、フィリピン、南ベトナムは軍事独裁国家だった。50年後の今は韓国、台湾、フィリピンは議会制民主主義国家になった。ベトナムは社会主義国家であるが日本主導のTPP11に参加して日本とは友好関係にある。色々問題はあるが昔に比べると素晴らしいことである。

 琉大に入ると共産主義、社会主義、プロレタリア革命、ブルジョア階級によるプロレタリアートの搾取など高校で培った民主主義を吹き飛ばすような思想に出会った。すごい思想であり学ぶものが多かったが、私がどうしても納得できなかったのが議会制民主主義国家の日本や米国でもプロレタリア革命を起こして暴力で議会制民主主義を変革させるという考えだった。労働者を搾取する資本家をプロレタリア革命によって倒し、労働者とその家族が中心となる社会をつくることには賛成であったが、議会制民主主義は大統領や議員を国民が選ぶ。国民に選ばれた大統領や議員を国民に選ばれていない革命軍が暴力で排除するということにはどうしても納得できなかった。
 あれから50年以上が経った。今は若かった私の疑問に答えることができる。やはり暴力で選挙で選ばれた大統領や議員を排除してはならない。なぜなら議会制民主主義ではプロレタリア革命はすでに成就していてプロレタリア革命を起こす必要はないからだ。議会制民主主義国家ではプロレタリア革命は起こらないし事実起こったことはない。レーニンは米国を帝国主義国家と批判したがレーニンが社会主義革命を起こしたのは米国ではなくロシアだった。ロシアは資本主義経済の議会制民主主義国家ではなく封建社会の独裁国家だった。独裁国家だったから革命を起こすことができたのであって、米国のような民主主義国家で革命を起こすことはできなかっただろう。
米国は資本主義社会でありブルジョア階級がプロレタリア階級を搾取するブルジョア独裁国家であると学生運動に参加している時に教えられ納得していたが、リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」という名言も脳裏にあり、米国でプロレタリア革命をするというのには素直に頷くことはできなかった。50年経過して米国ではすでにプロレタリア革命が成就していることが分かった。国民主権、普通選挙は非暴力のプロレタリア革命なのだ。
 労働者の妻や夫そして子供も労働者階級に属する。国民のほとんどは労働者階級に属しているということだ。国民が選挙で選んだ議員や大統領は労働者階級が選んだことになる。議員は労働者階級の代表なのだ。国民主権による議会制民主主義は非暴力でプロレタリア革命を成就していたのである。ソ連の共産党一党独裁の社会主義よりも議会制民主市議のほうが労働者階級を解放していたのだ。

1991年にソ連は崩壊した。崩壊した原因は経済破綻である。
社会主義国家では企業は全て国営である。それが社会主義と民営の資本主義とは違うところである。社会主義のソ連は企業を国が経営した。一方資本主義の米国、日本は企業は資本家が経営している。米国は自由競争の市場であり、経営に成功すれば企業は拡大していく。しかし経営に失敗すれば倒産する。つまり経営に優れていれば発展し、劣っていれば倒産するという厳しい競争社会が米国、日本である。資本主義と社会主義の経済では圧倒的に自由競争の資本主義が発展した。米国、日本は経済が発展し、社会主義のソ連、中国は経済が停滞した。この事実に驚いたのが日本、米国の経済発展を見た鄧小平であった。鄧小平は米国、日本の市場経済を中国に導入して、中国経済の発展を期待した。市場経済を導入しなかったソ連は経済がどんどん悪化していって経済は破綻し崩壊した。中国は世界二位の経済大国になった。ソ連と中国の違いは市場経済を導入し外国資本を受け入れたか受け入れなかったかである。

社会主義のロシアでは、1953年秋、中央と地方の政府、新聞社に食糧の欠乏を訴える市民の声が多く届いた。1954年にフルシチョフは処女地(カザフスタンや西シベリアなどの未開墾地、耕作放棄地)の開拓事業を提案し、処女地からの穀物の収穫が試みられた。1955年から数年の間は処女地の収穫物によって穀物の不足は一時的に解消されたが、処女地が不作に陥ると穀物は再び欠乏した。
1965年になると肉、魚類、卵、野菜、果物、日常食、砂糖の消費量は、ロシア革命前と比べて大幅に増加する。スターリン死後に食肉の消費量が増加した半面供給が追い付かず、週1日の「肉無しデー」が制定された。家畜の餌となる穀物を補うために農業の機械化を推進したが、アメリカ・西欧と比べて技術や労働力の質で劣り、生産性は低かった。飼料用の穀物の多くは、アメリカ・カナダなどから輸入されていた。
ブレジネフ政権を通して食糧不足は悪化し、競争原理が部分的に取り入れられたペレストロイカ時代に食糧の欠乏は顕著になった。裏ルートを通した買いだめにより、店頭から物資が消え去った。
食糧不足の根本的な原因は政治家が経営をしたからである。生産の効率化が利益を生むし、需要に応じて生産するのが経営の基本である。しかし、経営に疎い政治家は生産の効率化も利益追求もしない。そのために生産力は落ちていく。それが社会主義の欠点であるし、ソ連が崩壊した原因である。
1991年末のソ連崩壊後にはロシアの社会・経済が混乱する中で食生活はいち早く改善された。物資の不足は解消されたのである。国の管理ではなく自由な市場主義経済になれば社会主義のような経済悪化は起きない。
ソ連圏が崩壊して新しく登場したのが経済は市場主義、政治は議会制民主主義の国家であった。共産党一党独裁の社会主義国家の崩壊後に議会制民主主義になったということは労働者・国民は社会主義より議会制民主主義を選択したということである。社会主義の次に議会制民主主義が生まれるということが歴史的必然である。逆はない。

 ユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長は、ノーベル賞受賞者である京都大学の本庶佑特別教授と山中伸弥教授の研究に、個人の資産から総額100億円を寄付する。
寄付を決めた理由について柳井会長は、「この人は本当に能力がある、成果を上げられる人だな、などというのはだいたい僕の直感でわかる。本庶先生の研究は人類のためになるし、山中先生の研究に対しても以前から尊敬していたので、微力ながら援助させていただいた」と語り、
「人類の課題ですよね、ウイルスとがんは。本庶先生も山中先生も、世界や日本のために一生をかけて研究されている。研究とビジネスは似ていて、われわれは世の中をよくしたいという思いでは変わらない。日本がこのまま衰退しないように頑張りたい」と語った。
柳井氏が100憶円を京都大学に寄付することは素晴らしいことである。ただ100憶円という莫大なお金を寄付することができるのは彼が資本家であり、労働者を搾取して莫大な利益を得ているからである。搾取なしにはこんな莫大なお金を寄付することはできない。資本主義には搾取という問題があるが、経済発展に利益はなくてはならない。難しい問題である。それに本当は社会主義でも政治家や官僚は搾取して贅沢な生活をしていた。
労働者を搾取する利益をなくすことは難しい。議会制民主主義の今後の課題である。
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