紙の上の沖縄 左翼・マスメディア・学者がつくりあげたフェイク沖縄


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紙の上の沖縄 左翼・マスメディア・学者がつくりあげたフェイク沖縄

紙の上の琉球王国、戦前
復帰50年ということで本土や沖縄の多くのジャーナリスト、学者、政治家が沖縄について述べた。彼らの沖縄論を読んでいる内に私の脳裏に浮かんできたものがある。「紙の上の沖縄」である。彼らが語る沖縄は現実の沖縄ではないという思いが強くなった。現実とは違っている沖縄。現実からは浮いている言葉が連なっている沖縄。紙の上の沖縄。そんな思いが強くなった。
私はずっと沖縄に住み続けてきた。本土に住んだことはない。私が見てきた沖縄と彼らの語る沖縄には大きななずれがある。

反戦平和の象徴的な「命どぅ宝」について私とは大きなずれがある。「命どぅ宝」は反戦運動の象徴の格言となっている。戦争をしたら命を奪われる。命こそが一番大事だ。「命どぅ宝」だ。だから戦争のない平和な沖縄しよう。しかし、復帰50年になっても沖縄には米軍基地がある。「命どぅ宝」だ。米軍基地を撤去しよう。
沖縄反戦平和運動に重宝されている「命どぅ宝」だ。
「命どぅ宝」を反戦平和運動に関連付けたのは瀬永亀次郎氏である。1968年11月19日 にカデナ飛行場でB52爆撃機が墜落炎上した。B52爆撃機は嘉手納飛行場から飛び立ちベトナムに爆弾や枯葉剤を落として帰って来た。悪名高い爆撃機だった。
B52戦略爆撃機の墜落事故は1968年11月19日午前4時15分ごろ、現嘉手納町と沖縄市の境界付近にあたる嘉手納基地の滑走路北側で発生した。ベトナム戦争に向かおうとしたところ離陸に失敗して爆発炎上した。一時は嘉手納弾薬庫地区から200メートルの距離にまで火が広がったという。爆風などで付近の住民16人が重軽傷を負ったほか、校舎・住宅など365棟が被害に遭った。
B52は、嘉手納飛行場に墜落事故9カ月前の68年2月から常駐していたが、事故を機に「黒い殺し屋」と呼ばれる同機への不安と恐怖が高まり、当時の嘉手納村民をはじめ県民の撤去闘争が拡大した。70年10月に全機は退去した。B52爆撃機飲む墜落炎上は県民に大きなショックを与え、反米軍基地運動が一気に盛り上がった。私も参加した。

与儀公園の県民大会で瀬永亀次郎氏が「命どぅ宝」を初めて言った。聞いた瞬間に私は怒りがこみ上げた。
「『命ドゥ宝』はそんな反戦に使うような安っぽいものじゃないぞ」
と心の中で叫んだ。「命どぅ宝」と「物呉ゆすどぅ我が御主(むぬくゆすどぅ わがうすう)」は琉球王国時代から続いている沖縄の格言である。沖縄の極貧から生まれた格言であり戦争とは関係がない。
 二つの格言について教師たちから教えられた。琉球王国時代の沖縄は非常に貧しかった。生きていくのが精いっぱいだった。遊郭に売られていく女の子が遊郭に行くことを拒むと親は家族が生きていくには女の子が遊郭に行かなければならないと説得した。その時に生きていくことこそが一番大事である。どんな屈辱なことにあっても生きていくこと「命どぅ宝」と説得したという。
 教師は「命が一番大事。生きていく努力が大事」と教え。私はもっと深い意味があるだろうと琉大の図書館で調べた。すると沖縄の貧しさが原因であることが分かった。私が瀬長氏に激怒したのには吉屋チルーの存在があった。比謝橋は子供の頃に遊んだ場所である。
遊郭に売られた吉屋チルーの琉歌である。

恨む比謝橋や 情ないぬ人の 吾渡さと思て 架けて置きやら
「恨めしいこの比謝橋は、私を遊廓に売り渡す為に非情な人が架けておいたのだろうか」
橋を渡って遊郭に売られて行くわずか八歳のチルを詠んだと伝わる琉歌、


 遊郭の女は18歳になると大人の女として男の性の相手をしなくてはならない。京都の舞妓も同じである。18歳になると舞子も水揚げをして芸妓になりお客をとるようになる。しかし、吉屋チルーはお客を取ることを拒否し、絶食をして自殺した。「命どぅ宝」には農民の貧困と吉屋チルーの琉歌と自殺のことが私の頭にこびりついていてとても重く感じていた。瀬永氏の反戦と関連させた「命どぅ宝」に強く反発した。

沖縄が貧しかった原因。
〇沖縄の土は赤土で栄養がないので畑に向いていない。
〇沖縄は小さい島であり、大きい山がない。だから本土のように山による水の保存ができない。夏に台風が来ないで雨が降らないと干ばつで畑が枯れた。台風は作物や建物に被害を及ぼすが、雨をもたらす。沖縄には台風が必要だった。台風が来ないで作物が収穫できないで多くの餓死者を出したこともあったという。
〇薩摩藩は1609年に琉球王国に侵攻し支配した。
支配された琉球王国は薩摩藩に
年貢9000石 芭蕉布3000反 琉球上布6000反 琉球下布10000反 むしろ3800枚 牛皮200枚をおさめなければならなかった。これは農民が負担することになるので農民はますます貧しくなった。
〇琉球王国は南蛮貿易で豊かであったと言われているが嘘である。南蛮貿易で栄えていた時はあったが、栄えていたのは15世紀までであった。16世紀になるとポルトガルやイスパニアなどの西欧勢力がアジアに進出してきた。日本商船も進出してきた。小さな交易力しかもてなかった琉球王国は、1570年のシャムとの交易を最後に、東南アジアとの交易に終止符をうった。
 琉球王国時代の沖縄は非常に貧しかった。南蛮貿易で豊かだったというのは大嘘である。それは紙の上の沖縄である。

 沖縄は戦前も貧しかった。明治政府になって40万人から60万人にまで増えたが、1929年の世界恐慌が原因で沖縄の砂糖が売れなくなった。沖縄の唯一の産業である製糖業が破綻した。そのために沖縄には60万人以上の人間は生活することができなくなった。多くの沖縄県民が本土、海外に移住した。貧困が原因の移住であった。
 琉球王国時代や戦前の沖縄の貧困を問題にしないから戦後の米民政府時代、復帰後の沖縄の経済が本土並みではないと主張し沖縄がひんこんであるような印象を持たせることによって、その原因は米軍基地にあると主張することができる。
 琉球王国時代40万人、戦前60万人だった沖縄の人口が米民政府時代95万人、復帰後146万人と大きく増加した。人口増加を見れば戦後の沖縄が発展してきたことは明らかである。それに戦後75年間は一度も有事になったことはない。有事になりそうになったこともない。その原因は米軍基地があったからである。米軍基地は沖縄の経済発展と平和に貢献した。それが沖縄の現実である。
米軍基地撤去をしたい連中が米軍基地が悪の根源であるように見せるために嘘の沖縄、紙の上の沖縄をつくり上げたのである。
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