脳出血から入院までのこと



新発売


新発売・沖縄内なる民主主義13 A5版  定価1380円(税込み)
新発売・台風十八号とミサイル 定価1450円(税込み)


本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
脳出血から入院までのこと

去年の12月29日に脳内出血で中頭病院に入院した。出血したのは視床という箇所であり、脳の奥にあり手術するのは難しいらしい。
視床出血は脳出血では 2番目に多くみられ、全体の約30%ぐらいを占めている。
視床は、視覚、聴覚、体性感覚などの感覚入力を大脳新皮質へ中継する役割があり、視床出血の症状としては、「しびれ」、「片麻痺(かたまひ)」、「感覚障害」、などがある。
幸いにも症状が軽くて二週間で退院したが、ネットで調べると視床出血は死亡率が高い脳出血であると書いてあった。そして、命が助かっても、しびれ、痛み、意識障害、片麻痺、などの後遺症が残ることが多いという。
私は死亡しなかったし、幸いなことにしびれなどの後遺症はない。意識の集中が少々落ち、物忘れが増えた感じがするが、心配するほどの程度ではない。

血圧は高かったし、いつかは脳出血するかもしれないという危機感はあった。危機感はあったが検査はしなかったし予防もしなかった。

最近は以前のように頭が痛くなることはなかったし、睡眠も8時間取るようにしていたから、まさか、28日に脳内出血を起こすとは予想していなかった。
しかし。脳内出血をした後に考えると、出血したことが私なりに納得することができた。

「沖縄内なる民主主義」シリーズを三カ月に一度のペースで出版することを決心し、その実現に集中している。三カ月毎に二冊の本を出版することは年八冊になる。普通に出版すればかなりの費用が必要である。金持ちではない私に年八冊の出版はできない。だから、徹底してコストを押さえなければならない。原稿から編集、校正、本の表紙、書籍バーコード設定まで全て一人でやっている。そして、沖縄の印刷所に印刷させるよりも、ずっとコストを安くさせるために東京の印刷所にPDF原稿を送って印刷させている。印刷所で普通にやっている、試し刷りや校正はしない。
三カ月に二冊の出版であるから、原稿は二カ月で書き上げ、一か月で添削、校正、編集をやっている。一月に出版した本は11月で完成し、12月に印刷をする。印刷をする12月は4月に発売する本の原稿を書く最初の月でもある。印刷の手配、原稿を書いていたが、月末になると正月を迎えるために庭と家の大掃除をやった。家は30坪近くの古い外人住宅である。大掃除といってもリフュームに近い掃除であり、ペンキ塗りやニス塗りもやった。100坪近い庭の雑草を刈り、木の枝を切る作業もかなりしんどい。掃除は一週間近く続いた。朝はパソコンに向かい、ネットを見たり、原稿を書いたりし、昼は草を刈ったり、木の枝を切り、部屋の掃除を夕方から夜までやった。そして。作業の合間にはパソコンに向かった。一週間は一日中働いた。
28日もいつものように朝から働きづめであった。夜になると、昨日紙を剥ぎ取った広間と台所を仕切ってある襖に新しい紙を貼るのではなく、ニスを塗る作業をした。ニス塗りはかなり神経を使う。
夜の9時ごろにニス塗りの作業を休憩して、部屋に戻りパソコンでネットニュースを見ていたが、お茶を飲もうと椅子から立ち上がり歩こうとした時に左足に異変が起きた。パソコンを見る前はなんともなかったから、パソコンを見ている内に脳内出血をしていたことになる。
足を上げて踏み出した時にがくんと足が落ちたのだ。変だなと思いながら五、六歩歩いてみたが左足の異常は同じだった。足がしびれたのかと思ったが、足に痺れは感じなかった。ゆっくりと歩いた。やはり足の動きは変だった。歩き続ければ普通に戻るだろうと歩き続けたが戻らなかった。
脳内出血をしているかどうかを確かめるために私は足をゆっくりと上げてゆっくりと下ろした。私の意志はちゃんと足に伝わってゆっくりと足は下りた。もし、脳出血が原因であるなら意思通りに足は動かないだろうと私は思っていた。意志通りに動くということは脳出血ではないということである。
庭の掃除や家の大掃除をしているので体を酷使している性で足がおかしくなったのだろうと思った。しびれがあったり足が完全に不自由であったら脳出血だと思って急いで救急車を呼んでいたが、しびれはないし、足は意思通りに動かすことはできるから脳出血ではないだろうと思った。しかし、不安は消えなかった。
私は歩き回った。歩き回ると足のびっこが治ると思ったからだ。しかし、びっこは治らなかった。もしかすると脳出血をしているかも知れない。救急車を呼んだほうがいいのではないか・・・・。迷ったが、症状は脳出血とは思われないので救急車を呼ぶ決心はつかなかった。翌朝になっても、今日と同じようにびっこを引くなら病院にいくことを決めて寝た。もし、寝ている間に再出血していたら私は二度と目を開くことはなかっただろう。

翌朝になってもびっこを引いた。しかし、しびれはないし、足をゆっくり上げて下ろすと意思通りに動く。神経は大丈夫だから脳出血ではないだろうと思ったが不安は消えなかった。
自転車にのって庭を走った。脳出血ならうまく乗れないだろうと思ったからだ。自転車はうまく乗れた。フラフラしないし、左足はしっかりと力を入れることができた。
脳出血の心配はない。二、三日すれば足のびっこも治るだろう。病院に行かなくてもいいと思った。行かないと決めたが、決めた後に「もしかすると・・・・」という不安がもたげてくる。
悩むより病院でCT検査をしてもらったほうがいいと思うようになり病院に行くことにした。私の車は軽貨物でギヤー車である。左足でクラッチを押すことができるか不安だったので試してみた。大丈夫だ。左足でクラッチを押すことはできる。
私は車に乗ると中頭病院に向かった。ということは脳出血をしている状態で車を運転したことになる。脳出血をしている可能性は低いと思っていたから運転をしたのだが、途中で再出血していたら大変なことになっていたと思うとぞっとする。いや、ぞっとするというより自分の無謀さに笑えてくる。
大湾の国道58号線から間道に入り、嘉手納道の駅に出ると嘉手納飛行場の金網に沿って沖縄市の知花十字路に向かった。知花十字路を左折してしばらく進み、右折すると中頭病院に着く。中頭病院の駐車場に車を止めて、中頭病院に行ったが、なにか様子が違う。病院を出入りする人が居ない。月曜日であるから病院が休みであるはずがない。おかしいなと思いながら病院の入口に着いたが、出入りする人は居ない。作業員が居るだけだ。
「ここ中頭病院だよね」
作業員に聞いた。
「ああ、そうだよ。しかし、中頭病院は引っ越したよ」
私は愕然とした。
「どこに引っ越したのか」
「さあ、登川というから近いと思うよ」
そういうと作業員は去って行った。まさかあるはずの中頭病院がなくなっているとは。病院が引っ越すなんて誰が予想するか。私は困った。
中頭病院の斜め後ろの方に知花クリニックという病院があった。こんな近くに別の病院があるのに驚いたが、CT検査ができるのならその病院でもいいと思い病院に入った。
CT検査案内のポスターを探したが見つからなかった。この病院は内科専門なのだろう。脳外科はないかもしれない。私はCT検査はしないと思って病院の外に出た。ところが後で知ったが知花クリニックでもCT検査をしていた。受け付けにCT検査をしているかどうかを聞けば分かったのだが、私は勝手に内科専門の病院だろうと決めつけてしまっていた。
現在私が通院しているのが知花クリニックの眼科である。

中頭病院はどこにあるのか。登川にあるというから、車を走らせながら探すことはできると思うが、その気力はその時の私にはなくなっていた。脳出血が気力を失わせていたのだろう。私は病院前に止まっているタクシーで行くことにした。
「中頭病院を知っているか」
「ああ、近くだ」
「中頭病院まで」
後ろのドアが開いたので乗った。乗る時に左足をひっかけた。中頭病院に着いて下りる時も左足をひっかけてすぐに下りることはできなかった。
 タクシーを下り、ぴっこを引きながら中頭病院に入った。
 受け付けに、足の症状を話し、CT検査を受けたいというと、病院の紹介状を持っているかと受け付けは聞いた。聞いた瞬間、内心しまったと思った。
 大病院に集中する傾向を緩和するために、最初は地元の病院に行き、地元の病院では対応できない時に紹介状を書いてもらい、中頭病院のような総合病院に行くシステムになったことを新聞で読んだ記憶がある。だから、受け付けは紹介状を持っているかを聞いたのだ。私は読谷の病院に引き返さなければならないのか。しかし、読谷にCT検査をする病院があるだろうか。無いかも知れない。嘉手納町にはあるだろうか。もしかすると嘉手納町の名嘉病院にはあるかも知れない。しかし、これから名嘉病院に行くのは面倒くさい。
「ここで検査を受けるのはできないのか」
「できますけど、時間がかかりますよ」
時間がかかってもいいから名嘉病院に行くよりはましだ。もしかすると名嘉病院でも長い時間待たされるかも知れない。
「お願いします」
「それでは後ろの席で待っていてください」
私は受け付けの後ろにある椅子に座った。暫くすると受け付けの女性がやってきて、
「血圧を計らせてください」
と言い、血圧を計った。血圧は156だった。
「ちょっと高いですね。暫く待っていてください」

 暫くという名の少々長い時間待たされて、受け付けが6番のほうに行くようにと言った。足の具合を調べると言った。私はCT検査を受けに来た。受け付けにもCT検査を受けたいと言ったのだが、病院は病院としての手順があるようで、最初に足の具合を調べなければならないと言った。病院の手順には従わなければならない。
 指定された場所に移り、暫く待って、診察室に入り、足の状態を調べた。女性の医師は私に質問したりしながら足を診察した。診察した結果、びっこを引く原因は分からなかった。これで診察は終わりで、受け付けの人は家に帰ってもいい口ぶりだった。
 私はCT検査をする目的で中頭病院に来た。このまま帰るのでは来た意味がない。私は受け付けの人にCT検査を受けたいと言った。すると受け付けの人は、
「三時間くらい待ちますよ。それでもいいですか」と言った。
 もうこうなったら何時間でも待つ。とにかくCT検査を受けなければ気が収まらない。
「いいですよ。」
と言った。
 あの時、三時間待つのを嫌って家に帰っていたら、どうなっていただろう。もしかしたら再出血をして、危険な状態になっていたかも知れない。そう思うとぞっとする。

朝食を取っていないからお腹が空いていた。
「近くに食堂はありますか」
「二階に食堂があります。CT検査の時は向かいの受け付けのほうで呼びますので」
と受け付けの人は言った。
「わかった」
私は食堂に向かった。
 階段を上るときに、左足は階段に引っかかった。右足はスムーズに上の階段を踏むが、左足は階段の半分までしか上がらない。右足で階段をひとつ上がり、左足は右足と同じ階段まで上がる方法で階段を上った。階段の右手に食堂はあった。食事をして、一階に下り、呼び出しがあるという受け付けの前の椅子に座り、私の番号が呼ばれるのを待った。
 一時間ほど待って私は呼ばれた。
「最初にMRIの検査をします。次にCT検査をします」
と受け付けは説明し、MRI検査を受ける場所を教えた。MRI検査の受け付け室に行き、書類を渡して椅子に座っていると、暫くして私の名前が呼ばれた。私は若い男に促されてMRI検査室に入った。
「うるさいですので」
と言って、ヘッドホーンを渡した。CT検査は受けたことがあるがMRI検査は初めてである。


 MRI(MR)の写真である。
MRIとは磁気と電波を利用して,あらゆる断面の画像を得ることができる.撮影の時は,狭いトンネルの中に入って大きな音のなかで検査する.X線を使わないので,放射線被ばくはない。時間は長いが放射能被爆がゼロのMRIである。時間は短いが被爆するのがCTスキャンであるという。
MRIとCTスキャンは似たような画像を取るのだから、どちらかひとつにすればいいと思うが、病院ではMRI検査をした後にCT検査をした。なぜだろう。二つの違いはどこにあるのだろう。

ヘッドホーンをつけて横になると、MRTの中へ入って行った。やかましい音が響き、予想していたより長い時間入っていた。MRI検査が終わると、
「次はCT検査をします」
と言われた。MRT検査室から出ると椅子に座って待った。
 
CT検査を受けた時、係員たちの態度が急変した。足の具合も少しずつ良くなっていたし、CT検査を受ける頃には脳出血が見つかるはずはないと思っていた。だから、CT検査を受けて、医師がなんの異常もないことを告げられ、足の具合がよくならなかったら、再び病院に来なさいと言われて、私は家に帰るものだと思っていた。
ところが、CT検査が終わり、CTから出ると一人だった係員が四人になっていた。そして、ベッドを準備していた。私が起きようとすると静止して、
「動かないで下さい」
とぃって、私をゆっくりとベッドに移した。みんな真剣な顔をしている。
 ベッドは病室ではなく救急室に運ばれていった。救急室は雑然としている。救急室に運び込まれると看護師が近寄って、家族に連絡したいから家族の名前を教えるようにと言った。私は一人暮らしであるから家族は居ない。息子が居ることを言うと、息子の名前を訊いた。名前を教えると看護師は去って行った。
 メガネの医師が来た。CT画像を見ながら、こいつはひどいなどと言う。医師は私に質問はしなかった。多分脳出血をしているから刺激を与えないようにしているのだろう。私としては症状について説明をしてほしかった。
 暫くして、看護師が来て、息子と連絡が取れないという。私の携帯には息子の携帯番号が記録されている。携帯を取り出して息子の携帯番号を教えた。
 私が救急室に運ばれたのは集中治療室が満杯で空きがないからのようである。
 脳内出血をしていることが分かった時、私はほっとした。足のびっこの原因が分かったし、左足以外は大丈夫である。話すことも考えることもできる。病院だからこれ以上出血しないように治療をするだろう。病院だからこれ以上悪化することはないだろう。そう思うと脳出血をした不安より安心感が大きかった。
 一時間くらい経ってから息子がやってきた。医師は息子に私の症状を詳しく説明した。医師から症状を聞いた息子と話し合った。私は話すことができるから大丈夫であると話した。
私は私の症状を息子から聞いた。
「シショウという箇所の出血である」
と息子は言った。シショウは脳の奥部にあり手術するのは難しいらしい。

集中治療室に空きができたので、私は集中治療室に移動した。これから入院生活が始まる。
入院することで困ったことが二つあった。一月十日発売予定の「沖縄内なる民主主義11」「おっかあを殺したのは俺じゃねえ」を五日までに沖縄教販に届けることができなくなったことだ。そして、もう一つは四月に出版する予定の「沖縄内なる民主主義12」が出版できなくなるかも知れないことだった。四月に発売するためには一月一杯でほとんどの原稿は書かなくてはならない。しかし、入院が長引くと原稿が書けなくなる。原稿が書けなければ出版することができない。「沖縄内なる民主主義12」を四月に出版することができるか不安であった。
入院は何日間だろうか。二、三日であればいいが、脳出血なのだから二、三日で退院することはないだろう。一週間か、二週間か、それとも一か月間か。一か月なら「沖縄内なる民主主義12」の四月出版はできない。症状は軽いから入院は短いだろう。一週間くらいでは退院できるのではないか、などと考えた。しかし、考えても仕様がないことである。なるようになるしかない。
集中治療室に運ばれて、私の入院生活が始まった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 劉暁波氏の死... 米軍・自衛隊... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。