2ソテツ地獄と命どぅ宝

「沖縄に内なる民主主義はあるか」

二 ソテツ地獄と命どぅ宝

 数年前、「命どぅ宝」という格言はいつ頃生まれたのかを話題にしているコラムがあった。三十代の女性が書いているコラムであったが、「命どぅ宝」は40年前に生まれたという説や沖縄戦の時に伊江島で生まれた説など複数の説があるが、どれも彼女が生まれる前のことであり、どれが本当なのかわからないと書いてあった。
 私は「命どぅ宝」の格言が40年前に生まれたという説があることに驚いた。「命どぅ宝」は昔からある格言であると聞いていたし、40年以上も前に何度も耳にした格言であった。「命どぅ宝」の格言が40年前に生まれたというのは確実に間違っているし、沖縄戦に生まれたというのもおかしい。
「命どぅ宝」には私なりのこだわりがあり、40年くらい前の若い頃に「命どぅ宝」について調べたことがあった。私の記憶では「命どぅ宝」は琉球王朝時代からある格言であり、「命どぅ宝」が戦後に生まれたのではないことは確実だった。私はそのことを新聞に投稿しようと思い立った。しかし、私の記憶だけで説明するのでは説得力がない。私はネットで「命どぅ宝」に関する資料を集めることにした。ところがネット検索をして再び驚いた。ネットでは琉球王朝時代から「命どぅ宝」はあったと説明しているサイトが一つもなかったのだ。

ネットサイトの言葉辞典には、

【ぬちどぅたから】 何をおいても命こそが大切であるいう意味。沖縄戦の際、難民の一人によって叫ばれたとも伝えられる。1950年代に伊江島土地闘争のスローガンとして用いられ、さらに1980年代の反戦平和運動のなかで広く普及した。

と書いてあった。別のサイトも検索したが、ネットでは、「命どぅ宝」は沖縄の反戦平和運動のスローガン、シンボルであると説明していて、反戦平和以外の格言であるという説明はひとつもなかった。
 「命どぅ宝」の格言が生まれた時期については諸説があった。生まれた時期が一番古いのは明治の初めであった。

いくさ世もすまち みろく世ややがて
 啼くなよ臣下 命どぅ宝
「戦の時代は終わった。やがて、平和で豊かな時代がやって来るだろう。嘆くな臣下たち。命を粗末にはするな。」

という琉歌を琉球王朝最後の王尚泰が詠んだので、この琉歌から「命どぅ宝」は世間に広がったという説であった。
しかし、この説は歴史の事実とは合わない内容である。その頃の琉球王朝は薩摩藩に支配されていて武器は取り上げられ戦争をやる能力は失われていた。それに薩摩藩に支配された1609年以降は琉球王朝は戦争を一度もやっていない。琉球王朝は250年以上も戦争のない平和な時代を過ごした。だから、尚泰が戦争を体験したはずはなかった。戦争をしていない尚泰が「いくさ世すまち」と詠むのはありえないことである。
 別のサイトでは、この琉歌は尚泰が詠んだのではなく、沖縄県出身の画家で作家の山里永吉氏(1902年・・1989年)が昭和7年(1932年)に書いた戯曲『那覇四町昔気質』の幕切れに「いくさ世もしまち みろく世もやがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」という琉歌を劇中の尚泰が詠む台詞があり、「命どぅ宝」は『那覇四町昔気質』の上演から広まっただろうという説であった。
 もし、その説が本当であるとするなら昭和7年から、沖縄では「命どぅ宝」だから戦争には反対であるという反戦平和の思想が広まったということになる。
 しかし、この説も怪しい。日本は日清戦争、日露戦争に勝利した。日本だけでなく沖縄の人々も大国清やロシアに小国日本が勝利したことを喜び、清、ロシアに勝ったことで日本人としてのプライドが高くなった。沖縄の人々は反戦平和どころか戦争を歓迎し、戦争の勇者を称えた。戦争をすれば必ず勝つと信じていたから沖縄の人々は戦争を歓迎していた。1932年に満州事変が起こり、満州を日本が支配するようになると、満州を新天地として沖縄からも夢を抱いた人々が移住した。日本軍が南方の島々を武力で制圧し植民地にしたおかげで沖縄の人々はサイパン、グアムなど南方の島々に移住してさとうきびを栽培することができた。勝ち戦は領土が拡大し豊かな生活を求める人々の移住が増えることになる。勝ち戦は沖縄の人々に夢を与えた。戦前の沖縄には反戦平和運動が広まる要素はなかった。事実、反戦平和運動があったという記録がない。反戦平和運動がなかった沖縄に反戦平和運動のシンボルである「命どぅ宝」が広がったというのはありえないことである。

 元琉大学長であり、県知事でもあり、国会議員でもあった太田昌秀氏は「命どぅ宝」について著作「こんな沖縄に誰がした」で、
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を持っていた。そして、『命どぅ宝』、すなわち何よりも『命こそが大事』を合い言葉にして、他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」
と述べている。学者である太田氏は「命どぅ宝」の格言は琉球王朝時代の昔からあったと述べている。太田氏の説が正しいとすれば「いくさ世もすまち みろく世ややがて啼くなよ臣下 命どぅ宝」の琉歌から「命どぅ宝」が広まったという説ば否定され、「命どぅ宝」が戦後に生まれたという説も否定される。
 しかし、太田氏の説明も納得できるものではない。太田氏は「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い」と述べているが、琉球王朝以前の沖縄は、南山、中山、北山と国が三山に分かれていて、1429年に南山の按司(豪族)であった尚巴志が武力によって三山を統一した。
三山を統一した琉球王朝は八重山と奄美大島を武力で制圧した。昔の琉球は武器を持った武士階級が支配していた社会であり、戦争に勝つことによって支配地を広げていった。これは史実である。「いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い」というのは史実に反する説明である。
三山時代から琉球王朝が奄美大島を支配するまでの沖縄は戦争をやっていた時代であり、琉球王朝は太田氏のいうような武器も持たず戦争を忌み嫌う国ではなかった。
太田氏は琉球王朝時代の人たちを武士階級と農民階級の区別をしないで「琉球の人々」と呼んでいる。まるで琉球王朝時代は身分のない平等な社会であったような印象を与える。しかし、琉球王朝は身分制度のある社会であり、支配する武士階級と支配される農民階級、搾取する武士階級と搾取される農民階級に分かれていた。支配者階級である武士人口は全体の約5バーセントを占めていて、5パーセントの武士階級が政治を行っていた。農民階級は政治に関わることはできなかった。ひたすら農業をやり武士階級に搾取されていた。
太田氏のいう「琉球の人々」とは政治や外交を行っている人々のことであり、支配者階級の武士を指している。人口の95パーセントを占める農民や漁民などの平民は太田氏のいう「琉球の人々」には含まれていない。

琉球王朝は1609年以来250年以上戦争をしていない。太田氏がこの事実を根拠にして「琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い」と述べたとしたら歴史の事実を正確に説明していないことになる。
1609年3月、薩摩の大名であった島津家が3000人の兵で琉球王国に攻め入った。琉球王国の王、尚寧王は軍隊を動員して、抵抗するが、豊富な戦いの経験をもち、しかも鉄砲を使う薩摩軍に琉球王朝の軍隊はまったく歯が立たず、4月には首里城を明け渡してしまった。琉球王国は戦争で島津の軍隊に敗北したのである。敗北した琉球王国は薩摩藩に支配された。
薩摩藩に支配された琉球王朝は政治上の実権はないものの表面上は独立王国の形を残した。その理由は中国との貿易を続行させて琉球王朝の利益を薩摩藩が得るためであった。尚寧王は捕虜となり薩摩へと連行された。江戸に行き徳川家康と秀忠にも謁見した。2年後に尚寧王は琉球へ戻されるが、薩摩藩に忠誠を誓う起請文を書かされた。薩摩藩は琉球王朝の存続は認めながらも琉球王朝を実質的な支配下に置いた。薩摩藩の支配下に置かれることを拒んだ謝名親方は処刑された。

これが客観的な史実である。太田氏の述べている「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を持ってきた。そして、『命どぅ宝』、すなわち何よりも『命こそが大事』を合い言葉にして、他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」という事実は歴史のどこにもない。
薩摩藩に武器を取り上げられたために琉球王朝は武器で戦うことができなくなった。そのために素手で戦う方法を琉球王朝は中国から導入した。それが空手である。空手は沖縄が発祥の地として世界中に有名になった。空手は素手で相手を殺す技である。空手は沖縄では唐手(とぅーてぃー)と呼んでいた。沖縄古武道では農作業に使う鎌やてんびん棒を武器にして戦う術もある。
薩摩藩に武器を取り上げられても琉球王朝は中国から空手を導入して武士としての戦う精神は失わなかった。戦うことを本分としている武士階級に「命どぅ宝」の格言があったとは考えにくい。
太田氏は「『命どぅ宝』、すなわち何よりも『命こそが大事』を合い言葉にして、他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」と述べているが「他者」とは薩摩を指すのかそれとも中国や韓国などの外国を指しているのか抽象的で分からないが、琉球王朝は島国なので他者は海を隔てた遠い存在である。他者と共生するというほど他国と政治・経済が密接な関係にあったとは考えられない。
琉球王朝は中国や韓国と貿易をしていた。貿易は商売だから武器を使わない平和的な交渉で成り立つ。「他者との友好的共生」が貿易のことを指しているのなら、貿易は商売であるから「友好的共生」が絶対に必要である。わざわざ「命どぅ宝」を合い言葉にする必要はなかった。

薩摩藩は琉球王朝が謀反を起こさないように琉球王朝から武器を取り上げて、武器を持つことを禁止した。琉球王朝は太田氏の言うように武器を持たなかったのではなく武器を持つことができなかったのだ。戦争を忌み嫌ったのではなく戦争をする能力がなかったのである。
250年以上戦争がなかったのは琉球王朝だけではない。江戸幕府をはじめ日本全国で戦争がなかった。
薩摩藩に支配されていた琉球王朝は武器を持つことを禁じられていた。武器を持てない琉球王朝は「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する」方法しかなかったのだ。
琉球王朝が他国に攻められることもなく平和であったのは薩摩藩の保護下にあったからであり、琉球王朝が「武器を持たずに他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」から平和であったのではない。

「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」

「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」は昔から言い伝えられてきた沖縄の格言である。私が子どもの時は「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」は対のようなもので二つの格言は一緒に話すことが多かった。
学校の教師は「命どぅ宝」は人間の一番大切なものは命であるという格言であると説明した。
現在は「命どぅ宝」は反戦平和のシンボルとして有名であり、県内外の人や若い人にも知られているが、「物喰ゆすどぅ我が主」はほとんど聞かれなくなった。

命が一番大切であるというのは誰もが思うことであり、「命どぅ宝」の格言は真実をついている面はあるが、命が一番大切というのは別の見方をすれば命が惜しいということである。命が一番大切であるから命を守るために強いものの言いなりになるという解釈もできる。高校時代の私は「命どぅ宝」は命が惜しくて権力者にぺこぺこしているのをイメージした。
 幕末のヒーローである坂本龍馬は命の危険を恐れずに新しい日本を築くために奔走した。そして、命を落とした。高校生の時、坂本龍馬を主人公にした「陽はまた昇る」というテレビドラマがあった。坂本龍馬を田村高広が演じ、ナレーターは芥川隆之であったが、坂本龍馬が命をかけて新しい国づくりを目指して活躍する「陽はまた昇る」を私は毎週わくわくしながら見ていた。命を賭けて新しい日本をつくろうとしている坂本龍馬はヒーローであったし、多くの少年が坂本龍馬の生き方にあこがれたように私も坂本龍馬の生き方にあこがれる少年であった。命が惜しいからなにもしないで権力者にぺこぺこするのをよしとする沖縄の「命どぅ宝」の格言は私を惨めにさせる格言であった。
 愛する者たちや虐げられた人たちのために権力者と命を賭けて戦う主人公を描くテレビや映画がほとんどである。テレビや映画では命が惜しくて権力者にぺこぺこするような人物は人間のくずとして描かれる。人間のくずを正当化しているのが「命どぅ宝」であると高校時代の私は思っていた。

 中国では毛沢東が人民解放軍を率いて革命を起こした。キューバではカストロやゲバラがキューバ革命を起こした。フランスのシャンソン歌手のイヴ・モンタンは第二次世界大戦の時レジスタンスとしてドイツ軍と戦ったことで有名だった。人のため世のために命をかけて戦うのがかっこいい人間である。
チェ・ゲバラが捕まって処刑されたと報道されたのは高校生の時だった。キューバ革命を成功させたゲバラは革命の貢献者としてキューバで悠々たる生活を送ることができたのに、大臣の座を捨てて、新たな革命を起こすために苦難の道を選んだ。ゲバラはかっこいいしヒーローだった。
世界史はフランス革命やロシア革命など、人々が命をかけて権力者と戦い、新しい社会をつくったことを教えた。人間を圧政者から解放するには命をかけて戦わなければならないことを映画やテレビドラマや歴史教科書は教えていた。
それなのに沖縄の格言は権力者にぺこぺこする「命どぅ宝」や「物喰ゆすどぅ我が主」である。私は沖縄の格言が嫌いだった。

一九六六年、高校二年生の時に読谷飛行場でパラシュート降下訓練のジープに少女が圧殺される事故が起こった。事故への抗議集会が喜納小学校であり、読谷高校生であった私は他の生徒と一緒に抗議集会に参加した。
集会が終わると多くの人がバス停留所に集まったので、バスに乗るのにかなりの時間待たなければならなかった。私はバスに乗らないで歩いて帰ることにした。多くの人がぞろぞろと喜納から嘉手納方向に1号線(現在の国道58号線)を歩いていたが、私の隣を歩いていた琉大生が私に話しかけてきた。彼と私は討論になった。学生は平和憲法の話をやり平和のために日本は軍隊を持つべきではないといい、沖縄の米軍基地は撤去するべきであると話した。

私たちが歩いている1号線の左側は嘉手納弾薬庫の山が黒く横たわり、正面には嘉手納飛行場の明かりが煌々と輝いていた。嘉手納弾薬庫には核爆弾が貯蔵されているという噂は子どもの頃から聞いていた。第三次世界大戦が起こったら核爆弾を貯蔵している沖縄は真っ先に攻撃されて沖縄の人間は一瞬のうちにみんな死んでしまうという話は何度も聞かされた。もし、明日第三次世界大戦が起こるとしたら死ぬ前になにをしたいかなどと子ども同士で話し合ったこともあった。
だから、私は子どもの頃から戦争には敏感になっていた。中学生の時にキューバ危機があった。ソ連がキューバにミサイル基地を造ろうとしたのに対してケネディ大統領はもしキューバにミサイル基地をつくるならソ連と戦争するのも辞さないと宣言し、ミサイル基地をつくろうとソ連の輸送船がキューバに向かった時、ケネディ大統領の指令で核原爆を積んだ多くの爆撃機が飛び立ち、ソ連と一触触発の事態になった。このニュースを聞いた時、私はいよいよ第三次世界大戦が始まるかも知れないとびくびくした。幸いなことにキューバ危機は回避され、世界大戦に発展することはなかった。キューバ危機の回避は勇気あるケネディ大統領のお陰だと思った私にとってケネディ大統領はヒーローだった。
私の高校生のときはベトナム戦争が激しくなっていた時であった。毎日嘉手納飛行場からB52重爆撃機がベトナムへ飛び立ち爆弾を落として帰ってきた。エンジン調整の爆音は一晩中続いた。テレビの音も話し声も聞こえないくらいに爆音は大きかった。嘉手納飛行場の爆音が一番ひどい時期であった。
毎日ベトナム戦争の悲惨な状況が報道されていた。しかし、私は沖縄の米軍基地を撤去してほしいという考えはなかった。むしろ、米軍基地がすべて撤去すれば、他の国に沖縄を占領されるという恐怖のほうが強かった。
私は、もしアメリカ軍がベトナム戦争に敗北した時、南ベトナムを占領したベトコンはアメリカ軍のいる沖縄を攻撃するだろうかということを考えた。ベトコンが南ベトナムを支配したとしても核ミサイルなど多くの兵器が揃っている沖縄を攻撃すれば、アメリカ軍はベトナムに核爆弾を投下してベトナムを廃墟にしてしまうだろう。そのことを知っているベトコンが沖縄を攻撃するのはありえないことだというのが私の考えだった。アメリカ軍が沖縄に駐留している間はベトコンだけでなくどの国も沖縄を攻撃することはない。沖縄は安全であると私は考えていた。

「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」の格言への反発や子どもの頃から戦争に対して敏感になっていたから、琉大生の憲法9条の平和論や米軍基地の撤去論に私は納得できなかった。自衛隊を廃止し米軍が撤去した日本・沖縄は無防備な国になる。無防備な国が他の国に侵略された歴史はあったが、平和が続いたという歴史はない。米軍基地がなくなれば平和で豊かになるという考えは非現実的であると高校生の私は考えていた。無防備な日本を植民地にしようと侵略してくる国は絶対あるはずである。どこかの軍隊が侵略してくれば武器を持たない日本・沖縄は簡単に占領されてしまう。日本・沖縄の人間は抵抗することもなく奴隷にされてしまう。
私は琉大生の話に反発した。内心では、「お前のようなきれいごとを言っても冷酷な世界には通用しない」と思いながら、「外国が攻撃したら日本・沖縄はどうすればいいのか」と私は琉大生に質問した。話を折られた琉大生は一瞬言葉に詰まったが、軍隊がいなくても大丈夫であると色々説明をした。琉大生の話した内容は記憶に残っていないが彼の説明に私は納得できなかった。軍隊がいなければ敵に支配されるのは明らかであり、単純明快な理屈である。琉大生の説明に納得しない私は、「外国が攻めてきたらどうするのか」という質問を繰り返した。
私のしつこい質問に困った琉大生は人民軍で敵と戦うと言った。私は人民軍も軍隊ではないかと琉大生に言うと、彼は自衛隊やアメリカ軍は軍隊であるが人民軍は軍隊ではないと言った。
琉大生は人民軍とアメリカ軍や自衛隊との違いを説明したが私は納得できなかった。琉大生は、自衛隊やアメリカ軍は国家がつくった軍隊であり支配者の利益のための軍隊である。しかし、人民軍は人民がつくる軍隊であり人民のための軍隊であるから自衛隊やアメリカ軍とは違うというような説明をしたと思う。学生は中国の人民解放軍をイメージして話したのだろう。民主主義国家の軍隊はシビリアンコントロールされているから人民軍と同じである。このことは脳裏にあったが高校生の私は筋道をたてて説明することはできなかった。琉大生と私は話がかみ合わないまま終わった。

 敵が攻めてきたら自分たちを守るために戦うのは当然である。沖縄戦の時、民間人が日本軍と一緒に戦ったのを私は当然の行為だと思った。中学生が鉄血勤皇隊として勇敢に戦ったのを私は賞賛するほうだった。戦後生まれの私は軍国主義少年ではない。天皇ために戦う考えはなかった。ただ、敵が沖縄を攻めてきたら家族、親戚、仲間や沖縄の人々を守るために戦うのは当然であると考えていた。占領されれば奴隷になる。奴隷にならないためには戦うしかない。そのように私は考えていた。
 「命どぅ宝」の思想は命が惜しいから侵略してきた敵軍と戦わないで降伏し、敵の奴隷になる思想である。沖縄の「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」の格言は奴隷の精神であると私は考えていた。
 
「命どぅ宝」「物喰ゆすどぅ我が主」の二つの格言は沖縄の農民の奴隷精神の表れだと考えていた私はふたつの格言を誇らしげに話す教師にむかついた。

「命どぅ宝」の重さ

 多くの格言は戒めや幸福や倫理について述べている。「命どぅ宝」、「物喰ゆすどぅ我が主」のような奴隷精神の格言はない。もしかすると二つの格言には教師の説明や私の解釈とは違うもっと深い別の内容があるのではないかと私は気になっていた。本で調べようとしたが高校の図書館には「命どぅ宝」について説明している本はなかった。琉球大学に入学したので、琉球大学の図書館にはあるだろうと思い、「命どぅ宝」について書いてある本を探した。本はあった。それは沖縄の格言について書いた小冊子だった。その本には「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」についての説明が載っていた。本は「命どぅ宝」の格言が生まれたのは沖縄の農民の極貧が原因であると書いてあった。何度も大飢饉に襲われて農民は困窮し、家族が生き残るために女の子を那覇の遊郭に売らなくてはならなくなった時、那覇の遊郭に売られるのを嫌がる女の子に、女の子が遊郭に行かなければ家族みんなが飢え死にする。家族が生き残るためには恥もプライドも捨てなければならないと親は女の子を諭し、生き抜くことつまり「命どぅ宝」であると説得した。そういう話が載っていた覚えがある。

沖縄の畑は赤土で痩せている。それに毎年やって来る台風で作物は被害を受ける。島国である沖縄は水事情も悪くひでりが続くとすぐに水が不足した。沖縄の農民は何度も大飢饉に襲われた。
琉球王朝は一六〇九年に薩摩藩の支配下に置かれた。薩摩藩への貢物が強制され、琉球王府は、年貢9000石、芭蕉布3000反、琉球上布6000反、琉球下布10000反、むしろ3800枚、牛皮200枚を薩摩藩に収めなければならなかった。しかし、この負担があるからといって琉球王朝の王や士族が倹約生活をしたわけではない。琉球王朝の王や士族も贅沢な生活をした。その負担は一方的に農民に課せられた。琉球王朝時代の農民は島津への貢物と琉球王朝への献納の二重負担を強いられた。そのために農民はほとんど蓄えがなく、干ばつの時には疫病や餓死者が多く出た。 
 干ばつの年は農民の租税免除があったが租税免除はその年限りで、翌年には容赦なく年貢が取り立てられた。農民はますます貧しくなり、借金返済のために身売りが後を絶たなかった。貧しい農家は漁村に男の子を売り、女の子は那覇の遊郭に売った。歌人の吉屋チルーが七歳で那覇の遊郭に売られる途中で比謝橋に来たとき、「恨む比謝橋や情ねん人ぬわん渡さ思てぃかきてぃうちゃら」と詠んだ話は有名である。農民は生き延びるために子どもを売ったのである。
薩摩藩と琉球王朝の二重搾取のために税が重いばかりでなく、地方の間切りや村役人などの特権階級は税以外にも農民から取り立てて私腹を増やしていた。そのために農民はいっそう貧しかった。だから、台風や干ばつに襲われると蓄えがほとんどない農民は毒のあるソテツの実を食べて飢えをしのばなければならなかった。それをソテツ地獄と呼んでいる。沖縄の農民はソテツ地獄と呼ばれる大飢饉に何度も襲われた。
ソテツは台風にも干ばつにも強い植物であり、農作物が全滅するような台風や干ばつでもソテツだけは生き残った。しかし、ソテツの実は少ない。ソテツを食べる頃にはすでに餓死する者も多く出ていただろう。農民は命をつなぐための最低線でソテツを食べた。いつ死んでもおかしくない状況がソテツ地獄であっただろう。「命どぅ宝」の格言は飢え死にするか否かの極限の生活の中で必死に生き延びようとした農民によって生まれた叫びの格言であった。

 大正末期から昭和初期にかけてもソテツ地獄があった。
 沖縄の輸出品は砂糖が八割を占めていた。砂糖以外には泡盛、パナマ帽子、畳表、鰹節、漆器くらいであった。
 国際的な砂糖の値段の暴落は県経済に深刻な影響を与え、農民の収入が激減する中に台風や干ばつが襲い、農民は貧困の極みに陥り、ソテツを食べて餓えを凌がなければならなかった。貧しい農家は家族が生きるために子供を身売りした。男は糸満へ、女は遊女として辻の遊郭に売られた。明治以後、人身売買は禁じられていたが、沖縄では半ば公然と人身売買が行われていた。

死に直面した農民に唯一残されていた光は自由や豊かさなどではなく、ひたすら生き延びることであった。生き延びることだけが農民の希望だったのだ。自由・平等の世界を思い描く余裕は沖縄の農民にはなかった。小冊子を読んだ後の私は「命どぅ宝」に対する考えが変わった。
「あなたにとって何が一番大事ですか」と質問された時、多くの人は「幸福」や「愛」に関係あるものや、子供とか、妻、親、仕事などと答えるだろう。「命」と答える人はいないだろう。「命」は空気と同じで存在して当たり前のものであるからだ。大病や大怪我をして九死に一生を得た人間でない限り「命」が一番大事とは思わない。死ぬかも知れない体験をした人が「生きているだけで幸せ」と言う。琉球王朝時代の農民は死と向かい合いながら生きていた。生き延びるのが精一杯である「命どぅ宝」の生活を送った。
日本には「命どぅ宝」に近いことわざとして、「生きているうちが花」「命あってのものだね」などがある。しかし、「命どぅ宝」とはニュアンスが違う。「生きているうちが花」「命あってのものだね」には生きているといつかは幸せや楽しみがあるという内容が含まれている。しかし、「命どぅ宝」にはそのような「幸」「楽」「花」がない。「生きているだけで幸せ」の幸せも「命どぅ宝」にはない。ただ単純に、生きるのが大事だという格言である。
 「命どぅ宝」は単純で明快な格言であり簡単に作れるような格言のように思われるが、本土の格言にも同じ格言がないように、人間の幸せ、生き甲斐、倫理など人間の生きるための哲学とは無縁である「命どぅ宝」は本当はなかなか発想されない格言である。ソテツ地獄を何度も体験し死と直面しながらひたすら生き延びようとした琉球王朝時代の農民だったから「命どぅ宝」の格言は生まれてきたのだろう。
 
 「命どぅ宝」は死と隣り合わせだったから生まれてきた格言であり、琉球王朝最後の王尚泰や作者の山里永吉や尚泰を演じた伊良波尹吉が生み出せる格言ではない。
 「命どぅ宝」は、生死の瀬戸際で必死に生き抜こうとした農民の自分に鞭打った格言であり、生きることへの執念の格言である。
 「命どぅ宝」は私にとってずしりと重い存在になった。
  
生命を守る県民共闘会議
 
1960年4月28日
復帰運動の母体である復帰協が結成される。祖国復帰運動の始まりである。復帰協の先頭に立ったのは教職員会であり、復帰協の会長は教職員会から選出された。初代の、復帰協の会長は教職員会事務局長である喜屋武真栄氏であった。
   復帰協には革新政党の社大党、人民党、社会党が加入し、沖縄自民党は加入しなかった。

沖縄自民党
   復帰については現段階では時期尚早であるという段階的復帰
  論であり、基地については「本土なみ」基地であり、基地を容
認していた。
社大党 
早期の祖国復帰を主張していた。復帰の時点で「本土なみ」
  基地が残るのはやむをえないという姿勢であった。
人民党、社会党 
即時全面祖国復帰を主張し、米軍基地の撤去を求めていた。

復帰協を結成した初期の方針は、安保条約には原則的に反対との立場を取りつつも、祖国復帰を優先させていたから米軍基地に対しては反対とか撤去というはっきりした方針はなかった。むしろ、基地問題を取り上げることによって復帰が遅れるのを恐れたので、基地問題を取り上げなかった。復帰協の軸となったのは、教職員会や労組、民間団体などであり、政党ではなかった。

1967年 復帰協は「米軍事基地反対」の方針を打ち出す。
  
1967年 三大選挙が行われる。
11月10日、主席・立法院選が行われ、主席選は屋良朝苗が西銘順治に対して3万票余りの差をつけて当選。
立法院選は保守18議席、革新14議席となった。

1968年11月19日
嘉手納飛行場で、ベトナムに飛び立とうとしたB52重爆撃機が墜落、爆発炎上する。

1968年12月1日
那覇市長選は革新共闘の平良良松(社大党)が自民党候補に圧勝した。

1968年12月7日 
B52重爆撃機が墜落、爆発炎上がきっかけとなり、革新政党によって「生命を守る県民共闘会議」が結成された。

1969年3月22日
復帰協は第14回定期総会において「基地撤去」を運動方針に掲げる。

1968年11月19日、B52重爆撃機が嘉手納飛行場で墜落炎上して大爆発をした。その衝撃は大きく、嘉手納飛行場の周辺の住民を恐怖のどん底に落とした。嘉手納飛行場から2キロも離れていない場所に私の実家があったが、ニュースを聞いてすぐに実家に帰った私に、爆発の音はすさまじく戦争が起こったのではないかと思い、死の恐怖に襲われたと家族は話した。
B52重爆撃機が墜落炎上して大爆発をしたことで反基地運動は県全体に広まった。

戦後すぐに反戦平和運動があったと思っている人は多いだろう。しかし、意外と思うかもしれないが戦後間もない頃は反戦平和の思想は沖縄にはなかった。だから反戦平和による軍事基地撤去運動もなかった。米軍による土地接収に対する反対運動は全県的に盛り上がったが、それは先祖代々引き継がれてきた土地を異民族である米軍に取られることに反対した土地闘争であり、反戦平和や軍事基地反対の思想ではなかった。
沖縄戦で日本兵、民間人合わせて20万人近くの犠牲者が出たが、それでも人々は日本の勝利を信じており、沖縄戦の最中は軍国主義の絶頂期であり、天皇崇拝が高揚している時でもあった。人々の思想が天皇崇拝の絶頂状態のときに、昭和天皇が玉音放送で敗北宣言をして戦争は終わった。ほとんどの日本人や沖縄人は戦争に負けるとは思っていなかったので、降伏を宣言した玉音放送に多くの国民がショックを受けた。天皇崇拝の精神状態で戦争が終わったのだ。軍国主義から反戦平和主義へと沖縄の人々の精神が180度転換するのは簡単にできるものではない。
沖縄の人々は軍事基地への反発より異民族アメリカに支配されているという屈辱のほうが強かったはずである。だから、先祖代々引き継いできた土地を異民族である米軍に取られるのに反対した。異民族に支配されている沖縄の人々は祖国日本への復帰を熱望した。祖国日本へ復帰する理由は日本が民主主義であり、平和憲法の国家であったからではない。アメリカの異民族支配から脱したいからであり日本を祖国と考えていたからである。
沖縄の大衆運動は土地闘争に始まり、途中から祖国復帰運動に転換した。異民族に支配されるのを嫌った祖国復帰運動は50年代に始まるが、復帰協が軍事基地反対を掲げたのは1967年の復帰協第12回定期総会においてである。しかし、その時は軍事基地反対であり、軍事基地撤去を主張したわけではなかった。
復帰協が軍事基地撤去の運動方針を掲げるのは、1969年の第14回定期総会においてである。復帰協が軍事基地撤去の方針を掲げたのに反対した同盟系組織は復帰協から脱退した。同盟系組織が抜けることによって、人民党や社会党などの革新政党の影響が強くなり復帰運動は急進的になった。復帰協は「基地撤去」を強く主張するようになっていった。祖国復帰をすれば「核も基地もない平和で豊かな沖縄になる」というのが祖国復帰運動のうたい文句だった。

沖縄は、わずか数ヶ月で10万人近くの民間人の命が奪われるという凄惨な体験をした。沖縄戦を体験した人々には戦争への恐怖心は根強くあった。米軍基地を見れば沖縄戦を思い出してしまう人々も多かっただろう。
「沖縄に米軍基地があるから、もし戦争になったら真っ先に沖縄が攻撃される」「米軍基地があるから沖縄は戦争に巻き込まれて沖縄の人々の尊い命が奪われてしまう」「米軍基地がなくなれば沖縄は戦争に巻き込まれない」これが「生命を守る県民共闘会議」の米軍基地撤去を主張する理由であった。
 
 「生命を守る県民共闘会議」が主張する、沖縄に米軍基地があるから沖縄が戦争に巻き込まれるという説明には不可思議なことがひとつある。どの国が沖縄を攻撃するのかが明確にされていないことである。「命を守る県民協議会」を主催する革新政党は沖縄に軍事基地があるから、戦争になったらまっさきに沖縄が攻撃されると主張し、沖縄を再び戦場にしないために沖縄の米軍基地は全て撤去するべきだと主張はしても、沖縄を攻撃するかもしれない国を口にすることはなかった。
アジアを見渡せば沖縄を攻撃する国は限定できる。最初に予想できるのは中国である。次に北朝鮮、そして、旧ソ連である。それらの国は社会主義国家であり、日本、アメリカのような民主・資本主義国家とは対立している国々である。 
それでは中国や北朝鮮が沖縄を攻撃する可能性があっただろうか。朝鮮戦争の時は韓国の95パーセントを北朝鮮が支配したが、アメリカ軍が北朝鮮軍を押し返した。それ以後アメリカ軍は韓国に駐留し続けて北朝鮮が侵略するのを防いできた。台湾でもアメリカ軍の存在が中国の台湾侵略を防いできた。
もし、中国の人民解放軍が日本・沖縄を急襲すれば、日本・沖縄を占領することができるかも知れない。しかし、日本・沖縄を攻撃することはアメリカに宣戦布告をすることである。人民解放軍が日本・沖縄を占領することはできても、太平洋を隔てたアメリカ本国を占領するのは不可能だ。アメリカを屈服させることはできない。 
アメリカ軍は韓国、フィリピンにも駐留していた。アジアの海を航行している原子力航空母艦があった。原子力潜水艦もアジアの海を潜行していた。中国が日本・沖縄を攻撃すればすぐにアジアに駐留しているアメリカ軍が一斉に中国を攻撃する。グアム、ハワイから飛び立った核爆弾を搭載した重爆撃機も中国を攻撃する。中国全土が破壊されて中国が敗北するのは明らかだった。
世界最強のアメリカ軍が駐留している日本・沖縄を中国や北朝鮮が攻撃する可能性はなかった。
しかし、「生命を守る県民共闘会議」の主催者は沖縄に米軍基地がある限り沖縄が戦争に巻き込まれると主張し続けた。現実には起こらないことを吹聴したのが「生命を守る県民共闘会議」であった。
人民党や社会党の政治家は米軍基地があるから戦争に巻き込まれると盛んに主張したが、沖縄を攻撃する国があるとすれば中国や北朝鮮であるのだが、中国や北朝鮮と親しい関係である人民党や社会党の政治家は決して中国や北朝鮮が沖縄を襲ってくるかもしれないとは言わなかった。
沖縄を攻撃する国は具体的には想定できないという奇妙な理屈が「沖縄に米軍基地がある限り沖縄が戦争に巻き込まれる恐れがある」「戦争が始まれば米軍基地がある沖縄がまっさきに攻撃される」であった。「米軍基地があるから攻撃される」という理屈は直感的にはもっともらしいが、よく考えてみると首をかしげるおかしな理屈である。

大学生になると高校生の時には知ることができなかったアメリカの軍事戦略、アジアの情勢、世界情勢を知ることができた。アジアの状況を知れば知るほど沖縄が中国に攻撃される可能性はないと私は確信した。アメリカが沖縄に駐留しているから沖縄が戦争に巻き込まれる危険がなかったのは戦後66年間沖縄が一度も外国から攻撃を受けなかった事実が証明している。沖縄が外国から攻撃を受けるかも知れないという情報があったこともない。ところが革新政党はアメリカ軍が駐留しているから沖縄が戦争に巻き込まれるといい、沖縄が戦争に巻き込まれないためにアメリカ軍基地の撤去を主張した。これは世界の政治・軍事情勢を無視した間違った認識である。

 B52重爆撃機が嘉手納飛行場で墜落炎上して大爆発をしたのは事故であり戦争ではなかった。B52重爆撃機の爆発炎上は事故であり沖縄が戦争に巻き込まれる問題ではなかった。しかし、革新共闘会議はB52重爆撃機の事故を戦争と結びつけて「生命を守る県民共闘会議」を結成し、多くの住民が犠牲になった凄惨な沖縄戦体験のトラウマを呼び起こして、「生命を守る県民共闘会議」のもとに人々を結集させた。

「命どぅ宝」と「生命を守る県民共闘会議」

「生命を守る県民共闘会議」が結成した頃に、「命どぅ宝」の格言は琉球王朝時代の過酷な死と隣り合わせの窮乏の中で生き抜くために自分を勇気付ける格言であっただろうという考えに私は行きついていた。琉球王朝時代の農民は生き抜くことで精一杯であり自由を主張するどころではなかったのだと私は納得し、高校時代に反感を持っていた「命どぅ宝」に自分なりの終止符を打っていた。
 ところが、1969年に「命どぅ宝」を意外な場所で耳にした。場所は与儀公園であった。与儀公園は県民大会がよく行われる場所であった。その日は「命を守る県民共闘会議」の県民大会が開かれた日だった。
 県民大会の壇上で労組代表や革新政治家たちはB52重爆撃機の墜落炎上させた米軍を非難し、沖縄戦で十万人もの住民が犠牲になったことと関連させながら、沖縄に米軍基地がある限り沖縄は戦争に巻き込まれて二十数年前のように多くの住民が犠牲になると演説した。
戦争が起こったら罪のない女子供の命も失われると戦争の悲惨さを語り、人間は命が一番大事である、「命どぅ宝」であると県民大会に集まった人々に訴えた。演説は何度も「命どぅ宝」を繰り返した。この瞬間から「命どぅ宝」が反戦・平和のキャッチフレーズになった。
 革新政治は社会主義思想を根にしている。社会主義はアメリカの資本主義を否定し資本主義の次の社会を目指している政治であるとあの頃の私は信じていたから、「沖縄に米軍基地がある限り沖縄が戦争に巻き込まれる恐れがある」「戦争が始まれば米軍基地がある沖縄がまっさきに攻撃される」と主張する革新政党に反発していたが、革新政党が社会主義を根にしているので革新政治に期待しているところがあった。
ロシア革命、中国革命、キューバ革命と社会主義は輝かしい社会変革を実現してきた。沖縄や日本を変革するのが社会主義であるはずである。沖縄の次の社会をどのようにするのか、私は革新政党に次の指針を示すキャッチフレーズが欲しかった。しかし、沖縄の革新政党がキャッチフレーズにしたのは「命どぅ宝」であった。「命どぅ宝」は命さえあればいいという思想であり、人間としての夢も希望もない思想である。「命どぅ宝」は明治維新の四民平等にも劣る思想である。私は革新政治家たちが「命どぅ宝」を連呼すればするほど革新政治に失望していった。
 1963年にキューバ危機があった。ソ連がキューバにミサイル基地を建設しようとしたのに対して、ケネディ大統領は核戦争も辞さないと強いメッセージをソ連に送った。核戦争を回避したいアメリカとソ連の首脳によってキューバ危機は回避されたが、核戦争に懲りたケネディ大統領は核戦争になる前に極地戦争で解決しようとするキッシンジャー教授が唱えた局地戦に戦略を転換した。それがベトナム戦争だった。ベトナム戦争はアメリンカ軍が南ベトナムでベトコンと戦争していたが、ベトコンが沖縄を攻撃する能力はなかった。中国は台湾に攻める気配は見せたが、台湾のバックにはアメリカ軍が存在していたから中国が台湾に侵攻することはできなかった。
 中国がアメリカと直接戦争するのは考えられなかった。ソ連もキューバ危機で懲りていたからアメリカと直接戦争をするのは避けていた。
世界の政治情勢をみれば沖縄が戦争に巻き込まれる可能性はゼロであることは容易に理解できた。それなのに革新政治家たちはアメリカ軍が駐留していると沖縄が戦争に巻き込まれると主張し、「命どぅ宝」を連呼しながらアメリカ軍基地の撤去を主張した。
生命を守る県民共闘会議の運動は、沖縄の人々のトラウマになっている沖縄戦の死の恐怖に訴える運動であった。まさに命を守ろうとする動物的本能に訴えるような運動であり、人権、自由、幸福とは無縁の政治運動であった。
 沖縄の将来を築かない、沖縄の人々の思想を後退させる思想が「命どぅ宝」であった。私は革新政治に失望し次第に革新政治から離れていった。

軍隊があるから戦争が起きるのか

 沖縄の反戦平和思想には「軍隊があるから戦争が起こる。世界中の軍隊をなくせば戦争は起こらない」という考えがある。軍隊がなければ戦争は起こらないのは確かである。しかし、軍隊があると必ず戦争が起こるのだろうか。アメリカとイギリスが戦争する可能性があるだろうか。フランスとドイツが戦争をする可能性があるだろうか。ほとんどの人がアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパの国どうしが戦争するとは考えないだろう。ヨーロッパの国々は民主主義国家であり、国民を代表する政治家が国を運営している。民主主義国家と民主主義国家はたとえ軍隊を持っていても戦争はしない。
イスラエルとパレスチナは戦争をしている。原因は領土の争いであるが、イスラエルは民主主義国家であるがパレスチナは民主主義国家ではない。もし、パレスチナが民主主義国家になればイスラエルとの交渉は政治交渉が中心になり戦争はしなくなるだろう。アメリカはイラク、アフガンと戦争をした。アメリカは民主主義国家であるがイラク、アフガンは独裁国家だった。独裁国家だったイラクはイランやサウジアラビアとも戦争をした。
戦争が起こる原因は色々ある。軍隊があるから戦争が起こるという単純な理論で世界の戦争を判断するのは間違いだ。
沖縄に米軍基地があるのは中国や北朝鮮の社会主義国家と資本・民主主義国家アメリカ・日本やアジアの国々との対立が原因である。アメリカ、日本のような資本・民主主義国家と旧ソ連、中国の社会主義国家の対立は戦後生まれたものである。
戦後の国と国との対立の内容は戦前とは違う。戦争の内容も戦前と戦後は異なるものである。沖縄戦の体験からは戦後の戦争の内実を知ることはできない。沖縄の米軍基地の存在理由を知るには戦後の世界情勢を知る必要がある。「命どぅ宝」の反戦平和の視線だけで沖縄の米軍基地を見つめるだけでは沖縄の米軍基地の存在の理由を知ることはできない。
「命どぅ宝」の思想は戦後の世界の戦争を見る目を盲目にしている。
戦前のように軍隊が政権を握った軍国主義国家と戦後のように国民の代表が政権を握った民主主義国家では軍隊の性質が全然違う。軍隊が政権を握れば国民を弾圧し領土を広げようと戦争を起こす。戦後の民主主義国家では軍隊には政治権力がなく、政府の指揮下で行動するから戦後の軍隊は国民のために働く。同じ軍隊でも戦前と戦後では軍隊の性質が違う。
「命どぅ宝」の思想は、軍隊は命を奪う戦争をするためにあると決めつけているから、軍国主義国家の軍隊と民主主義国家の軍隊の違いを認識することができない。東日本大震災で自衛隊は人命救助や瓦礫処理、不明者捜索、福島原子力事故等で活躍した。戦後の日本の軍隊は戦争だけのために存在はしていない。国民を襲うあらゆる災害から国民を守るために存在している。「命どぅ宝」の思想では自衛隊の本質を理解できない。 
軍隊があるから戦争するというのは安易な考えだ。軍隊をつくるつくらないは政治であるし、戦争するしないは軍隊の問題ではなく政治の問題である。

民主主義思想のない「命どぅ宝」 

1969年、生命を守る県民共闘会議の県民大会で反戦平和のシンボルとしての「命どぅ宝」は登場した。あれから40年以上が経ち、いまでは、「命どぅ宝」は反戦平和のシンボルとして定着している。多くの人が「命どぅ宝」は最初から反戦平和の言葉として生まれてきたと信じている。
反戦平和の思想が生まれる前から「命どぅ宝」の格言はあった。しかし、誰もこの事実を言わなくなった。ネットで「命どぅ宝」の本来の意味を説明しているサイトはない。
 私の子供の頃は「命どぅ宝」を反戦平和とは違う意味で日常的に使っていた。
 
 苦い薬を飲むのを嫌がる子どもに親は「命どぅ宝どう」と諭して飲ました。
危険な遊びをしている子供に、「命どぅ宝どう」と言って危険な遊びをやめさせた。
辺野古に住むある老人が「命どぅ宝」だから普天間基地の辺野古移設に賛成すると話しているのが新聞に載ったことがある。「命どぅ宝」が反戦平和のシンボルだと思っている人は老人のいう「命どぅ宝」を矛盾していると思っただろう。老人は「命どぅ宝」を、生きていくためには背に腹は代えられないという意味で使った。辺野古は過疎化が始まっていて、過疎化イコール死であると老人は思い、過疎化を食い止めるためには普天間基地の受け入れも仕方がないという意味で「命どぅ宝」と言ったのである。


テロリストアルカイダはニューヨークの貿易センタービルに旅客機を衝突させて貿易センタービルを破壊した。ペンタゴンにも衝突してペンタゴンに大きな被害を与えた。ホワイトハウスも航空機で爆破しようとした。アメリカ軍がアフガンに侵攻したのはアメリカをテロの標的にしているアルカイダを殲滅するのが目的であった。アルカイダはアフガンを根城にし、タリバン政権がアルカイダを匿っていたからだ。
アメリカはタリバン政権を倒してアフガンを民主主義国家にすることと、アフガンにいるアルカイダを殲滅することを目的にアフガンに攻め入った。「命どぅ宝」をシンボルにした沖縄の反戦・平和主義者たちはアメリカが目的としているアフガンの民主化にはほとんど関心を示さなかった。
イスラム原理主義のタリバンが独裁支配していたアフガンは、すべての音楽を禁止して、娯楽や文化を否定した。市民に対する見せしめでもある公開処刑を日常的に行っていた。女性は学校に行くことも働くことも許されなかった。過酷な女性差別のためにアフガンの女性は悲惨な生活を強いられていた。働くことを許されない未亡人は乞食をして生活を支えるしかなかった。
タリバンが独裁支配していたアフガンの悲惨な社会に沖縄の反戦・平和主義者たちは目を向けることはなく、アメリカ軍のアフガンへの進攻を「罪のない女や子供が犠牲になる」と主張して大反対した。
アメリカ軍はタリバン政権を倒しアフガンを民主主義国家にした。アメリカはアフガンの国家が女性の人権を守り、自由と平等の社会を築く方向に進むように努力している。
アメリカ軍はフセイン独裁政権を倒した。そして、イラクを民主主義国家にした。イラクが民主主義国家を自力で築くことができるようになると、宗教対立による爆弾テロや反政府の爆弾テロは絶えることはないがアメリカ軍はイラクから引き上げた。
アメリカ軍はアフガンからも2014年に引き上げる予定である。
もし、アメリカ軍がタリバン政権やフセイン政権を倒さなかったら、現在もアフガンとイラクは独裁国家であり、市民は弾圧され自由のない差別の社会で苦しみ、罪のない多くの人たちが刑務所に入れられたり処刑されたりしていただろう。アフガンとイラクが民主主義国家になったことは非常に喜ばしいことである。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義はアフガン・イラクが民主主義国家になったことにはなんの反応も示さない。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義は単純に戦争がなくなればいいという思想である。戦争さえしなければ、人民を弾圧し、搾取する独裁国家であっても黙認する。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義は民主主義には無関心である。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義は人権、自由、平等の民主主義の思想が欠落している。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義は人権・自由・平等の民主主義社会を築けない。









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春爛漫 (りゅうし)
2013-03-28 23:38:58
はじめまして、一昨日宜野湾老人福祉センターの島唄で始めて『命どう宝』を知りました。
凄く上手な歌でなぜ今まで一度も聞いたことがないのか不思議になって調べていたら、この記事にたどり着きました。

素晴らしい力作です傑作です。
おかげで沖縄名の歴史、現代の世界の様子まで見えてきました。
ありがとうございます。
お気に入りに登録させていただきます。
 
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