なぜ私は学生運動に参加したか


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
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ネパール地震救援に普天間基地のオスプレイが出動
JSF | 軍事ブロガー
2015年5月4日 4時28分



ネパール地震救援の為に、普天間基地に所属するアメリカ海兵隊の垂直離着陸機MV-22オスプレイが出動しました。オスプレイは艦船や大型輸送機に搭載されずに、沖縄から自力で飛行してネパールまで到着しています。第一陣の4機は土曜日には現地に到着しています。
アメリカ国際開発庁 (USAID)より、カトマンズに到着したオスプレイ
ネパールの国際空港には各国から救援隊の航空機が殺到し処理能力を超えたために、近隣のインドに引き返す事例が多発しています。そのような場合でもオスプレイならば自力で長距離を飛行し、尚且つもしも空港が過密状態であってたとしても付近の空き地に降りる事が可能です。
ネパールのような山岳地帯はもともと道路事情が悪い上に、地震で道路が寸断されて救援物資が届けられないため、救援にはヘリコプターを用いなければなりません。ヘリコプターは幾らあっても足りない状態です。しかし標高の高い高地で使えるエンジンが大出力のヘリコプターは数が限られる上に、航続距離の短いヘリコプターを現地に集める為には艦船か輸送機で運ぶことになります。ネパールは海から離れている為、大型輸送機に頼ることになりますが、上記の通り空港の処理能力を超えてしまった場合には、空港で大型輸送機から梱包状態のヘリコプターを取り出して組み立てて・・・といった長時間掛かる作業が滞ってしまう事になります。その点についてオスプレイは自力で飛んで行ける上に垂直離着陸できる為に問題となりません。
またオスプレイのチベット山岳地帯での運用に付いて、過去にインド軍が興味を示していたことを航空専門誌フライトグローバルが2012年1月18日に報じています。その当時からオスプレイの長い航続距離と高い巡航高度は、ヘリコプターの展開を阻む広大なチベット山岳地帯で有用となるだろうと見越されていました。そして今、オスプレイのその実力が発揮されようとしています。
JSF
軍事ブロガー
軍事ブログ「オブイェクト」管理人。オスプレイや弾道ミサイル防衛、無人攻撃機など、ニュースに良く出る最新の軍事的なテーマに付いて解説を行っています。
JSF | 軍事ブロガー
2015年5月4日

 普天間飛行場のオスプレイがネパール地震救援の為にネパールに飛んでいた。普天間飛行場から直行でだ。
 ヘリコプターとプロペラ機の二つの機能を備えたオスプレイは、ヘリコプターにもプロペラ機にもできないことができる。まさに夢の飛行機だ。沖縄の離島経済を復興させるのはオスプレイ以外にはない。
 時間が経てば経つほどオスプレイが優れた飛行機であることが世間に認知されていくだろう。
 たとえ、沖縄の情報を独占している沖縄二紙がオスプレイの素晴らしさを隠し続けたとしても。

かたくなであるのは翁長知事だ
翁長雄志知事は29日、沖縄県庁で臨時会見を開き、日米首脳会談で安倍晋三首相が「普天間飛行場の危険性を辺野古移設で除去する」と唯一の解決策とした発言に対し「かたくなな固定観念で、大変遺憾だ」と語った。昨年の選挙で示された移設反対の民意を受け入れなかったことに不快感を示した。
    「沖縄タイムス」
 翁長知事が「かたくなな固定観念で、大変遺憾だ」と言えるのは、鳩山政権時代に普天間飛行場の解決方法として15通りも案が出たが、すべてが実現不可能であることが判明し、鳩山元首相がやむを得ないで辺野古移設に戻った事実を無視しているからである。

1 九州移設案(新田春・築城基地移設案)
2 嘉手納基地統合案
3 キャンプハンセン移転案
4 関西国際空港移転案
5 馬毛島案
6 伊江島案・下地島案
7 自衛隊基地への移設案
8 勝連沖埋立案
9 グアム・テニアン島案
10 キャンプ・シュワブ陸上案
11 メガフロート案
12 辺野古杭打ち桟橋案
13 徳之島案
14 九州ローテーション案
15 無条件撤去論

 この事実はタイムスや新報でも掲載された。しかし、掲載した二紙は事実を無視し、隠し続けているのだ。
 鳩山政権時代に明らかになったのは次の五点である。

○閉鎖・撤去・・・日米政府が反対している。
○国外移設・・・日米政府が反対している。グアム移設は技術的に不可能。
○県外移設・・・本土で受け入れる県はひとつもない。
○辺野古移設・・・地元の久辺3区は賛成。
○普天間固定化・・・日米政府・保守・革新とも反対。
 

久辺3区が辺野古移設に賛成であり、振興策実現向けて国と協議会設置の方向に進めているのは4月26日(日)の沖縄タイムスに掲載されていた。

米軍普天間飛行場の返還に伴う名護市辺野古の新基地建設地に近い久辺3区(辺野古・豊原・久志)の生活基盤整備などを求めている件で、政府と地元が振興策の実現に向けた協議会を設置することが25日までに分かった。複数の関係者が明らかにした。
     「沖縄タイムス」
 地元が賛成していることを沖縄タイムスは報道したのである。翁長知事はこの事実を知っている。ところが地元の民意を無視するのである。それは沖縄二紙も同じだ。
 政府はあらゆることを検討した結果普天間飛行場の移設は辺野古しかないという事実に沿って辺野古移設を推進している。
事実を無視して、頑なに辺野古移設反対をしているのが翁長知事である。

翁長知事派と革新派の勢力争いは始まっている

5・17県民大会、県外著名人ら登壇も検討
 那覇市の沖縄セルラースタジアム那覇で17日午後1時から開かれる「戦後70年 止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」の運営委員を務める県議や市民団体の代表者らは3日、県議会で会議を開き、大会のプログラムなどについて議論した。翁長雄志知事や共同代表のあいさつに加え、県外、国外の著名人に登壇してもらうことを検討している。
 県民大会を周知するため、11日には共同代表の一部と県議らが県庁周辺でチラシを配布するなどの街頭活動を実施する。横断幕も作製しており、県内各地に設置する。新聞広告やラジオCMなども活用する方針。
 大会に参加できない人に対しても、大会カラーの青色の服や装飾品などを身に着けることで、新基地建設反対の意思を示してもらうよう呼び掛けることも決めた。
「琉球新報 」5月4日(月)
県外、国外の著名人の登壇、新聞広告、ラジオCMなど、革新が主導してきた県民大会とは雰囲気が違う。
革新が主導した大会は、沖縄二紙の記事が広告係りであった。革新は企画し発表すればよかった。そして、教員や公務員の動員に力を注いでいた。
今度の大会は広告を出すようだ。翁長知事派と革新の合同主催なのかどうか微妙だ。
元々保守の翁長知事派と革新は水と油のようなもので心を打ち解けて一緒に行動することはできない。
翁長知事派、共産党、社民党、社大党が一つの政党になることはない。それぞれが自派の議員を増やしたいはずだから来年の県議会選挙で共闘することができるかどうか微妙であるし。これからのさまざまな大会てせー゛は主導権争いに激しくなるだろう。5・17県民大会でも水面下では主導権争いを展開していると思う。
 

 なぜ私は学生運動に参加したか

「一九七一Mの死」は琉大男子寮で斬殺された町田のことを書いてあるが、私は学生運動をやっていた。なぜ私が学生運動に参加するようになったか、それは主席公選の選挙運動に参加したことが原因であった。

一九六八年一一月に主席公選があった。沖縄のトップが選挙で選ばれるのは沖縄の歴史上初であった。
 大学二年生であった私は長屋良朝苗候補の選挙運動に参加した。革新系の組織や団体に入っていない私は直接嘉手納町の選挙事務所に行って応援を申し込んだ。嘉手納町のバス停などで「長屋良朝苗、屋良朝苗、屋良朝苗をお願いします」などと声を張り上げた。
 選挙応援に参加した私だったが、ただ選挙のテクニックを教えるだけで沖縄の将来など政治の話をしない指導者に私は失望した。
 投票日の前夜、私は買収をするという婦人グループの尾行を命ぜられた。隠れて尾行をするのではなく、買収をさせないために私達が尾行していることを相手に分からせる尾行であった。
 私は革新も保守も腐敗していると感じ、選挙に失望した。

 私が選挙応援に行こうとしていることを知った先輩が、
「選挙で世の中はなにも変えることはできない。誰が当選しても同じ」
と、選挙応援には行くなと私を説得した。しかし、私は先輩の話が信用できなかったし、保守の西銘順治候補が当選するより革新の屋良朝苗候補が当選したほうが沖縄のためになると思っていたから選挙応援に参加した。その結果政治への失望が残った。
 選挙では社会を変えることはできない。変えることができるのは大衆運動だと考えるようになったのが二十歳の時であった。

 私は高校の時から祖国復帰運動の考えに反対だった。沖縄が日本復帰することは賛成であったが、日本が祖国だから復帰するのだという考えには疑問があった。
 もし、沖縄が中近東のクエートなどの国のように原油を埋蔵していて、石油輸出で経済が潤っているとしたら祖国復帰運動をしていただろうか。復帰すれば石油の利権が本土に奪われる可能性が高い。それでも祖国復帰運動をしていただろうか。多分、その時は祖国復帰運動はしなかっただろう。琉球は日本とは別であると主張し琉球独立を目指していたはずである。祖国復帰運動の本当の目的は日本が祖国だからではなく、復帰したほうが沖縄の得になるからだというようなことを高校生の時に考えていた。祖国復帰運動は欲望を隠してきれいごとに着飾っていると思っていた私だったから、辺戸岬と与論島で火を焚いて、あれが祖国の火だなどと新聞の一面に掲載されているのを見るとへたくそな人情芝居を見ているようで苦笑した。

 私は祖国復帰には賛成していた。沖縄は小さいし経済力は弱いし政治力もない。米国との政治交渉では弱小な沖縄はとても不利だ。それよりは日本復帰して日本政府が交渉するようになれば力強い。だから復帰には賛成していた。
しかし、なにがなんでも復帰しようという気はなかった。なぜなら、米民政府が統治していたが、米軍による弾圧というのはなかったからだ。経済はどんどん発展していたし、自由を謳歌することができた時代だった。だから日本に復帰したいという気持ちは強くはなかった。
革新が問題にしてきたのは米兵が起こした事件事故のことだった。事件事故はなくすことはできないし、米軍の責任とは言い難い。だから私には事件事故を理由に米軍に反発する気持ちはなかった。
もし、米軍が日常生活を弾圧していたら私は反発し、差別反対運動に参加していたと思う。現実は逆で米軍は沖縄の人々に戦前には比べ物にならないくらいに自由をくれたし、生活の向上をさせてくれたのである。母から戦前の話を聞いた私はそのように考えていた。だが、米軍の存在は圧迫感があったし日本に復帰したほうがいいと考えていた。
米軍への反発が強くない私は政治集会や大会には一市民として参加するだけで政治運動に参加する気はなかった。

大学に入学して間もない頃は同郷の読谷出身の先輩が民青(民主青年同盟=共産党)に勧誘したが、革新の祖国復帰運動論に反発していた私は彼らのしつこいオルグには付き合ったが、民青には入らなかった。
国文科の革マル派の先輩もしきりに私をオルグしたが政治運動に参加する気がなかった私は革マル派に参加するのも断り続けた。
 
 政治運動をする気がなかったが、主席公選だけは特別だった。
 主席公選は沖縄の歴史上初めてであり、歴史的なものであった。私は歴史的な瞬間に参加したかった。保守は金欲の集団だと思っていたから応援する気は全然なかった。むしろ軽蔑していた。
私は革新の屋良氏に当選して欲しかった。そのような思いで私は選挙運動に参加した。しかし、選挙運動に参加した結果は虚しさが残った。

 選挙ではなにも変わらないという先輩のいう通りだと思った。本当に世の中を変えることができるのは大衆運動だと私は思うようになっていった。だから学生運動に参加した。
 私のような学生は多かったと思う。あの頃はソ連や中国などの社会主義国家が理想に思える時代であったから、社会をよくしていきたいと考える学生が社会主義を目指した学生運動に走るのはある意味自然であった。
 
 私は「沖縄を返せ」の歌が嫌いだった。だから最初は歌っていたが次第に歌わなくなった。
「われらは叫ぶ。沖縄は我らのものだ、沖縄は。沖縄を返せ、沖縄を返せけ
歌からは沖縄が本土の私有物であるように感じられた。沖縄は沖縄であって日本の私有物ではない。沖縄に住む私たちも日本の私有物ではない。私にはそのような意地があった。だから、「沖縄を返せ」に反発した。よくもこんな歌を平気で歌えるものだと大声ではつらつと歌う人間が不思議だった。「沖縄を民主に」「沖縄を自由に」だったら喜んで歌っただろう。
 「沖縄を返せ」は本土の人間が作った歌であると数年前に知った。沖縄の人間が作ったのではないことを知り、やっぱりなと思った。「沖縄を返せ」を平気で歌う沖縄の人間は奴隷根性の人間だと私には思える。
 「ヤンキーゴーホーム」も嫌いだった。県民大会は革新系の大会だったから基地前では「ヤンキーゴーホーム」のシュプレイコールをやった。私は「ヤンキーゴーホーム」を言えなかった。米兵はアメリカの一市民である。国の命令によって彼らは沖縄にやってきたのであり、沖縄に米軍基地があるのは彼らの責任ではない。彼らを個人攻撃するのは間違っている。だから「ヤンキーゴーホーム」を言わなかった。言う人間も嫌いだった。
 祖国復帰運動、沖縄を返せ、ヤンキーゴーホームは革新の象徴である。私の心は最初から革新から離れていた。離れていたが県民大会には参加していた。
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