二人の国場幸太郎

二人の国場幸太郎
沖縄には二人の国場幸太郎が居た。国場組を創設した国場幸太郎と伊佐土地闘争の先頭に立って闘った沖縄人民党(共産党)の国場幸太郎である。


沖縄解放の闘士 国場幸太郎を悼む
来栖宗孝(元東海大学文明研究所教授)

 沖縄占領米軍の圧政に抵抗し、沖縄解放の不屈の闘士国場幸太郎は、2008年8月22日、多臓器不全のため居所宮崎県都城市で逝去された。享年81歳。
 国場は、旧制中学5年を沖縄で過ごした後戦後、東京大学経済学部を卒業して帰郷、沖縄における左翼革新運動の理論的指導者であった。
 彼の占領米軍の圧政に対する抵抗運動は、主として1950年代に顕著である。沖縄人民党の幹部として運動を指導した。
 特に1953~55年にかけて、宜野湾村(当時)伊佐浜土地に対する米軍の強制接収反対運動においては農民の先頭に立って闘った。このため、白昼バスの中から米軍情報機関(CIC)に拉致・監禁された。この時長時間に及ぶ拷問のため、己むなく自供したことが後年、人民党から除名される一因となった。しかしながら、現在、米帝国主義軍隊がアフガニスタン及びイラクを侵略し、イラク兵ら捕虜をキューバ島グァンタナモ米軍基地内で拷問、凌辱した事件が暴露されているように、国場幸太郎の屈辱的自供を非難することはできない。
 1956年に、人民党書記長瀬長亀次郎が那覇市長に当選したとき、米軍民政府高等弁務官はありとあらゆる適法・不法手段を弄して瀬長の行政を妨害し、失脚を図った。このとき、国場は29~30歳の若さで首里支所長として瀬長を補佐したのであった。
 1960年、沖縄人民党から離れ上京、主として著述で活動した。例えば、「沖縄と米国帝国主義」(「経済評論」62年1月号)、「沖縄の復帰運動と革新政党」(「思想」62年2月号)、「国場幸太郎・新里恵二論争」(「読書新聞」)(後二者は、沖縄の日本本土復帰運動における民族主義的偏向を戒め、人民解放の基本路線の上に立つべきことを示し、人民党との路線の差を明らかにした)、1973年「沖縄の歩み」(70年の「コザ市暴動」までの記述、以下未完)である。
 1964年宮崎県に移り、高校・高専校の教員となり定年まで勤めた。
 国場幸太郎の最後の業績は、不二出版(2005年)、「戦後初期沖縄解放運動資料集」全3巻である。国場は編・解説の共執筆者として全3巻に登場している。同時に、第3巻に「国場幸太郎インタビュー記録」を遺したのである。この資料集は「初期」と称するとおり、1944~1963年の記録である。
 本土復帰までの苦闘を重ねた国場幸太郎の必ずしも評価されなかった生涯に対し心から敬意を表し、安らかに眠られよとご冥福をお祈りするものである。(08.11.13)


国場幸太郎 こくば-こうたろう

1900-1988 昭和時代の実業家。
明治33年12月19日生まれ。17歳で大工の棟梁(とうりょう)となる。東京の建設会社ではたらいたのち,昭和6年郷里沖縄県にかえり,国場組を創設。国場組を中心とした企業グループ「国和会」の基礎をきずいた。那覇商工会議所会頭。昭和63年8月2日死去。87歳。

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