今年の梅雨は異常気象 激しい長雨 ゴーヤー・トマト・ナスビの実がならない

今年の梅雨は異常気象 激しい長雨 ゴーヤー・トマト・ナスビの実がならない

 激しい雨が一カ月以上も続いている。梅雨はしとしと降るが今年の梅雨は激しい大雨である。こんなに大雨が続くのは初めての経験だ。

 5月の沖縄は梅雨になるから梅雨の雨であるはずだが、梅雨はしとしと降るのに今年の雨は豪雨であるのだ。それに梅雨は4、5日降った後に1、2日は晴れになる。週の前半に雨が降れば週末は晴れるというケースが多い。しかし、今年の梅雨は毎日が雨の日で晴れた日はない。今年の梅雨は異常に雨が多い。雨が多いことはダムの貯水率で明らかである。10日前の1日、沖縄本島中北部で国が管理する9ダムのうち大保ダム(大宜味村)を除く8つのダムの貯水率が100%となったのである。100%になって以後も大雨が降り続けている。越流(オーバーフロー)が続いている。このように雨が降ったのは過去にない。

異常な大雨は野菜に大きく影響している。トマトとナスビは順調に育ち、トマトは10個以上の実がなり、数個のトマトは実が赤くなって収穫した。ナスビも2個収穫した。これから実が大きくなるのを楽しみにしていた。ところが異常な大雨が続いた。トマトの実は大きくならないで腐れて落ちてしまった。ナスビは花は咲くが実にはならない。こんなことは初めてである。実の成長が止まり腐れてしまうということは考えられない。気温が急激に下がるのなら分かるが気温は下がらなかった。大雨が続いたことが原因としか思えない。トマトとナスビは実がついた後に異常なことが起きたがゴーヤーは実がまだならない。普通なら実がなる頃であるが実がつかないなっている。しかし、ゴーヤーにはまだ実がないのだ。異常な大雨の梅雨が原因としか思えない。

「花より野菜」の私は家の花壇に花を植えないで野菜を植えている。トマト1、ナスビ2、ゴーヤー⒉を4月に植えて、数日前にモーイとキューリを2本ずつ植えた。ピーマン、オクラも植えようと苗は買った。晴れた日に植えようと思う。

私の野菜だけが異常事態になっているかもしれないと考えることはできる。しかし、長年野菜育ててきた。今までこんなことはなかった。私の野菜だけが異常で他の人が育てた野菜は普通であるとは思えない。畑の野菜も同じだと思う。
畑をやっている友人と居酒屋で会う約束をした。野菜のことを確かめることが目的ではない。彼に煮た山芋を渡すのが目的だ。
私は月に数回は彼の畑に行き、ビールを飲みながらゆんたくをする。しかし、雨が降り続いているので一カ月以上畑に行かなかった。彼に頼まれたことがあった。山芋を煮てあげることだった。山芋の一個は私がもらい、一個は煮て彼にあげる約束をしていた。彼は山芋をビールのつまみにしている。彼から山芋を受け取ったのは一カ月以上前のことである。酒のつまみにするのだから急いで煮ることはない。気が向いたら煮るつもりだったが、雨が降り続いた。雨が降っていては畑に行けない。その内に晴れるだろうと思っていたら一カ月が過ぎた。一カ月も経ったので居酒屋で渡すことにしたのだ。
 山芋は大きい。普通の鍋で煮るには皮を剥いて切り刻まなければならない。しかし、山芋は皮のまま煮るのが普通である。その方が山芋のうま味が残ると子供の頃に教えられた。だから、皮のまま煮るのにこだわっている。皮のまま煮るには普通の鍋では煮ることができない。私は大きい圧力鍋を持っている。山芋を皮のまま煮ることができる。だから、大きい圧力釜を持っていない友人の山芋を私が煮るのだ。これで4度目である。

山芋の写真である。この山芋はとても大きい。私が煮た山芋の3倍以上である。

 読谷村の山芋スーブ(勝負)で優勝した山芋である。山芋スーブは一個の種芋から収穫した量を勝負する。優勝した写真の山芋は346・8キロである。山芋スーブは前石川市の伊波だけで行われていた。伊波では昔から行われている伝統行事だという。沖縄紙に伊波の山芋スーブが掲載されようになり伊波の山芋スーブが広く知られるようになった。すると他の地域でも山芋スーブが行われるようになった。読谷もその一つである。
 伊波の山芋スーブで山芋を掘る様子を見に行ったことがある。10年以上前のことである。山芋は好きだし父が植えていた伊波の山芋スーブで一つの種芋から100キロ近く収穫する農家もあるという。信じられない話だったので収穫する様子を見たいと思い、行った。
畑には10人ほどの白髪交じり人間たちが真剣な顔をして話し合っていた。畑の主らしい人が掘り出す山芋を指定すると5、6人がスコップや鍬で慎重に掘り始めた。
 山芋を掘るときはインチキがないように山芋スープに参加する全員で掘るという。仲良く笑いながら掘ると予想していたがそうではなかった。真剣な顔であった。山芋スープは親睦会であり楽しく笑いながらやると想像していたが意外と真剣にやっていることに驚いた。収穫した山芋は公民館に運び、重さを量って勝負するのだ。
 読谷村の山芋スーぶは伊波よりもスケールが大きくなった。一つの種芋から写真のような346・8キロも収穫する。それは鍬やスコップを使った人力ではできない。土を掘るときにユンボを使うのだ。ユンボで深く広く耕すのである。そして、糊料をたっぷり入れる。だから300キロ以上も収穫するのである。読谷村の山芋スーブには農業はしていなくてユンボなどの機械を扱っている人たちが山芋スーブに参加するためだけに山芋を栽培しているという。伊波の農業をしている人たちの勝負の世界とは違ってきている。私は伊波の山芋スーブが好きだ。

 友人からの山芋は隣の畑をしている人からもらったものだ。彼は80歳である。彼は野菜を育てるのが好きな人である。山芋スーブを嫌っている。食べるための山芋を育てている。彼は心臓が悪くペースメーカーを入れている。それに新型コロナに感染して長い間入院していた。体力の衰えを感じ、山芋栽培をあくらめた。種芋としてとっておいたのを友人にあげた。ところが友人は料理することができないので私に譲った。私は大きい二個の山芋は必要ない。だから、煮て彼にあげる。二個目も煮て半分は彼にあげようと思っている。彼は山芋をマヨネーズなどを塗ってビールのつまみにする。
 妻に料理させればいいと彼に言ったことがある。しかし、妻は千葉県出身で沖縄の山芋を知らない。だから料理のやり方が分からない。だから、料理ができない。妻に弱い男は山芋を食べることをあきらめた。彼の家庭の事情を知った私が山芋を煮ることになった。山芋はジャガイモよりもコクがある。山芋のコクをビールを飲みながら味わってほしい。

 彼にトマトとナスビの話をした。彼の畑でも同じことが起きていた。彼の場合はゴーヤーはひとつだけとても大きくなったが、このゴーヤー以外は実ができなかったという。私のトマト、ナスと同じことがゴーヤーでも起こっていたのだ。今年の梅雨は野菜の実に深刻な影響与えるほどの異常気象なのだ。
 翌日、目覚めた時に大雨だった。ふと、頭によぎったのが琉球王国時代でこのような野菜被害が出れば餓死者が出ていただろうということである。琉球王国時代は地割り制度であり、村から出ることも許されなかった。村によっては餓死者が出ていただろう。戦前なら日本政府が食料援助をして餓死者が出ることはなかっただろう。戦後の米国統治時代も米国の食糧援助で飢えることはなかっただろうと考えた後に、いや沖縄にはサツマイモがある。サツマイモのお陰で沖縄は飢えから救われた。野菜類が収穫できなくてもサツマイモがあるから琉球王国時代の農民も餓死はしなかっただろう。こんなことが目覚めて数分の間頭を駆け巡った。
 サツマイモは中国から沖縄に移入され、それから薩摩藩に渡った。中国からサツマイモを持ってきたのが野国總管である。彼は沖縄の飢えを救った人物として有名である。彼は嘉手納の出身であり、嘉手納町では毎年野国總管まつりを行っている。小学生の時、一人で野国總管まつりに行った。まつりで行うウチナー相撲を見たかったからだ。友達を誘ったが誰も行きたがらなかった。あの頃は村意識が強く、読谷の人間が嘉手納のまつりを見に行くこはなかった。とくに子供は他村に行くのを怖がっていた。私は一人で行った。相撲を見ながら私は眠くなり隣の大人に寄りかかって眠った。私は日射病になっていたのだ。病院に運ばれたがその日で退院した。
 サツマイモは沖縄では唐芋(とういも・からいも)と呼んでいた。その芋が薩摩に渡りサツマイモになったということを先生から聞いた。薩摩藩は中国をイメージさせる唐芋の名を嫌ったのだろう。琉球は支配下にあり琉球芋と名付けるのも嫌い、薩摩芋にしたと思う。サツマイモの名が全国に広がり、沖縄でもサツマイモという。サツマイモの名称にも政治が絡んでいる。
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