沖縄差別・朝鮮差別・部落差別



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沖縄差別・朝鮮差別・差別
若い頃、大阪の大正区に行ったが、連れて行ったのは学生時代の同期生だった。彼女の姉はエタの子供たちが通っている小学校の教師をしたことがあり、姉の話では生徒が言うことを聞いてくれなくて大変だったという。差別されているから同情していたが、の子供たちの授業をするとそんな気持ちが消え、の人たちが嫌われ、差別されるのも無理はないと思ったと話したという。
私は大学を卒業して学習塾をやってたが、小学生の詩を掲載している本にの小学生の詩があり、生き生きとした表現が賞賛されていた。小学生に詩を指導した教師の授業がNHK教育番組で放映されたので視た。
彼女の姉が話した通りだった。ほとんどの生徒は席にじっと座ることはなかった。生徒たちは動き回っていた。先生の話を聞いているのか聞いていないのか分からない状態で授業は進み、子供たちは先生に絡みつくように接していた。
実際にエタに行ったことはないから、がどんな社会であるのか分からないが、子供たちの授業風景を見ると、ある程度は想像することができる。社会生活の規律や秩序が私たちとはかなりずれているだろうと思った。

江戸時代には士農工商の身分制度があり、士農工商よりも下のエタという差別された身分があった。そのために明治以後も差別され続けたと思っていたからの人たちに同情していたが、教育テレビでの生徒たちの実態を知り、社会で差別されているのには身分差別だけではなくの人たちの問題もあったのである。

士農工商の身分制度を廃止して市民平等を掲げて誕生した明治政府は維新後の改革の一つとしてを廃止し、他の身分と同じく「平民」に編入した。法的にエタは差別されなくなったから差別はなくなるはずである。しかし、明治以後も差別は続き戦後も続いた。
国が差別を解消したにも拘わらず差別が続いたのは国レベルではなく社会レベルでの差別が続いたということである。江戸時代にはエタを差別していたから、社会では明治時代になっても江戸時代の身分差別が続きエタを差別する人が居たことは確かであるし、一部の人たちがエタ差別したことはあるだろう。しかし、明治から100年近く経過していた1970年代にも差別は続いていた。
差別が続いたこと原因を知るヒントになったのがテレビで視たの小学性たちの様子であった。差別されたのにはの人たちにも問題があったのだ。
そこまでは若い頃に自分なりに認識していた。問題に特別興味があったわけではなかったから、それ以上の追及はしなかった。沖縄差別を追及するようになってから、差別問題にも興味を持ち、なぜ、小学生が授業中も勝手に動き回るのかということを考えるとの生活に問題があるが、なぜ、長い間他の社会に溶け込む生活にならなかったかということに疑問を持ち、考えた。
それはが他の社会と混ざらない状態が長く続いたからだろうと予想した。

差別
ネットで差別について調べると、が長く他の社会と隔絶し続けた理由が分かってきた。

(えた)の仕事は、農民が捨てた病死した牛馬を回収して処理をし、その肉を食べて生活し、その牛馬の獣皮の加工などを行い革製品の仕事を営んだ。また刑吏、捕吏などの下級警察のような仕事や、草履づくり、販売などをしていたとされる。エタの人たちはに生活を維持するための仕事があったのである。エタは職業でもあったのだ。だから、明治になっても内で革製品や草履などをつくって生活し、生活を江戸時代と同じようにに存続させていくことができた。
最下層の身分にはエタ以外に()が居た。の仕事は、溜御用(無宿者のための病監や収容所の管理)・牢屋敷への詰番、囚人送迎・罪人の仕置きの仕事、刑場の管理といった仕事であった。また、乞食を排除する目的で「番」や「番」として雇われたとされている。エタのがあったが、のはなかった。エタ差別はあるが差別はないのはがあったかなかったが左右している。
江戸時代にははなかった。明治維新になると身分制度がなくなると、のないは普通の社会の中で生活をして、社会に溶け込むことができた。だから差別はなくなったのである。しかし、エタは明治以後も存続したからエタ差別は続いた。
エタが差別され続けた原因はエタであり続けたこと以外にもあった。
近代化が発展していった明治、大正、昭和であったから、長い歴史を経る内にはに外から流入してくる人間がいて、から出て行く人間も居ただろう。エタのであってもそのようなことが繰り返されていけば普通の社会になっていったはずである。しかし、エタは皮革製品作成の特殊な職業でもあったから、入ってくる人も居なければ出て行く人もいなかった。だから、他の社会と隔絶した社会が固定したまま続いた。そのように私は考えていた。
でも私の考えは間違っていた。人の出入りはあったのだ。ところがエタの場合は人の出入りが逆に社会からの隔絶を維持する原因になった。
エタの居住者は先祖代々同じ血筋で固定されたものと多くの人が考えていると思うが、それは間違いである。歴史的にはエタで財をなし成功した者はエタの外へ出ていった。彼らが流出しないでの経済を発展させていったらは閉鎖状態から脱皮していっただろう。しかし、成功者はから出て行った。それだけではなかった。成功者が出て行く一方で、被差別の外で食い詰めた犯罪人や無職者が生活費の安いエタの中へ流入してきたのだ。
成功者の流出と犯罪人や無職者の流入が繰り返されてきたのが明治以後のエタであった。事実、京都市内のあるでは、京都部落史研究所の調査の結果、半数を超える「民」が外からの流入者と判明した。
外の社会に迎合できる人たちはから出て行き、落伍者たちがに流入してきたために、ますますは他の社会と隔絶する方向に進んでいったのである。

戦後になっても差別が続いていたのはエタへの差別というより、の人たちが社会に迎合することなく独自の社会を維持していたからである。もし、全てのエタの人たちがのようにから流出していってを解体して社会に溶け込んで生活していたなら、エタ差別はなくなっていたはずである。東京ではこのことが実際如実になっている。
東京の都心部においては発展の過程では解体し、今では跡形も残っていない。高齢の方や歴史的知識に詳しい方、実際に偏見や差別を受けた方はについての記憶がある。なかには苗字と出身地で「元」だとわかるというひとも居るが、東京の都心部には、地方に比べると高齢の方が生活している世帯が少ないため、ほとんどの若者たちにとってエタは身近な問題ではなくなっている。
東京の都心部を見れば分かるように他社会と隔絶したを維持していたから差別が続いたのである。

他社会と隔絶した独特の社会存続が差別の続いた原因であることが分かった時、沖縄差別の原因は大正区に沖縄村をつくったからではないだろうかと思った。
戦後沖縄の米民政府統治時代に最初の主席になった比嘉秀平氏や沖縄の歴史で公選によって最初の主席になった屋良朝苗氏は読谷村の貧しい農家に生まれながらも努力して勉学し教員になって本土や台湾で教べんを執った人たちである。戦前でも沖縄出身で社会で活躍した人は多かった。国家が四民平等の社会をつくったから沖縄の人間でも実力があれば活躍できたのである。その事実を考えれば、国による沖縄差別はなかったということが分かる。
差別と同じように沖縄差別は国による差別ではなく大阪社会における差別であった。
沖縄差別の原因は淀川水系と大和川水系により運ばれた土砂により出来た大阪湾の三角州の一つである大正区にソテツ地獄で困窮した沖縄の多くの農民出身者たちが集まってスラム=をつくったことである。スラムをつくらないで大阪市民と一緒に生活していたなら、沖縄差別と呼ばれるほどの社会問題にはならなかったはずである。

大阪では沖縄差別、差別に朝鮮人差別があることを若い頃から聞いていた。
沖縄人が飲食店でウチナー口で話していると朝鮮人と思われて店から出されたという話は何度も聞いた。
戦後は沖縄差別より朝鮮差別のほうが強かったようである。

朝鮮差別
一九一〇年に朝鮮は日本に併合される。明治以降日本は近代化を目指して産業開発をしていった。併合される前の朝鮮は身分制度の封建社会であったから産業は発達していなかった。そして、貧しかった。産業開発を進める日本には仕事があったので多くの朝鮮人が仕事を求めて日本に渡った。
生活に困窮した人達が仕事を求めて日本本土に渡ったのは沖縄と同じだ。絶えず一〇% 以上の増加率を見せる場所は大阪と福岡であり、大阪に多くの朝鮮人が流入してきた。日本語も知らない、大阪の文化や生活習慣も知らないで大阪に住み、そして、沖縄人が大正区に沖縄人のスラムをつくったように朝鮮人も大阪にスラムをつくったのである。在日朝鮮人の定住の空間を朝鮮人、朝鮮人集住地、朝鮮人村、朝鮮人町、朝鮮人多住地区などとと呼んだ。
貸家などには「朝鮮人お断り」の張り紙が貼られたのも沖縄人と同じであった。最初に生活基盤を築いた朝鮮人労働者を頼って大阪に向かう朝鮮人たちの渡日が増えて、大阪に居住する朝鮮人はより一層増加したというのも沖縄と同じである。
一つの場所に長く定着できず、賃金のより高いところが見つかれば、いつでも移って行くということ、そして仕事において、熟練度が劣り、使用主が信用できなくなるというのも沖縄と似ている。
近代化が進んだ大阪に近代意識が欠如した沖縄人や朝鮮人が大量に移住してきてスラムをつくったのが差別の原因である。

沖縄差別・朝鮮津別・差別
沖縄差別・朝鮮差別・差別に共通するのは封建社会時代の身分制度である。身分制度によって貧困生活を強いられた層の人間たちが明治以後の近代国家になっても貧困状態が続いた。明治政府になる沖縄から本土、朝鮮から日本への移動が自由になったので大阪に移住した人々が、エタのように集落をつくった。それが差別の原因になった。
沖縄差別・朝鮮差別・差別は身分制度、極貧、無教養、存続が原因して続いたのである。
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