亀甲墓真後ろに家 不思議


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亀甲墓真後ろに家 不思議

 亀甲墓のすぐ後ろに二階建ての住宅が建っている。まるで亀甲墓の上に乗っかっているように見える。


この墓は恐らく戦前に建てただろう。それにしても亀甲墓のすぐ後ろに住宅があるのには驚いた。普通の墓の隣に家があるのは見慣れているが古い亀甲墓の直ぐ後ろにある住宅を見るのは初めてだ。
この家は引っ越した家から500メートルほど離れた場所にある。裏の通り沿いにあるので今の家に引っ越して初めて知った。この通りは字比謝あたりに行く時に通る。他の場所に住んでいたら通ることのない道路である。

子供の頃は墓といえば亀甲墓であった。墓は怖い存在であり、幽霊が出るかも知れないので怖くて近づくことはできなかった。そんな亀甲墓のすぐ後ろに家を建てたのである。考えられないことであるが紛れもなく事実である。
時代は移り変わり恐れ多い亀甲墓に対する気持ちも変わったのだろう。亀甲墓の隣に家を建てる気に私はなれない。

亀甲墓は琉球王朝時代に氏族のみに許された墓であった。琉球王国が明治政府によって滅ぼされ、廃藩置県で、氏族の特権がなくなったので明治中期には庶民にも亀甲墓を造ることが許されるようになった。庶民といっても亀甲墓をつくるには大金が必要であり普通の庶民につくれない。元武士や商人などの金持ちがつくっただろう。亀甲墓は門中墓ともいわれて親族がシーミー(清明祭)の時に亀甲墓に集まって重箱のウサギモノのごちそうをみんなで食べる。子供の頃は楽しみであった。核家族時代になるとそれぞれが墓をつくり家族だけのシーミーをやるようになった。親族が集まるシーミーはなくなった。

亀甲墓の家について、驚くのはそれだけではない。墓の右側に道路がある。この家の出入りに使用している道路である。この道路の右側にはなんと10以上の墓があるのだ。遠くに見える建物が亀甲墓の真後ろに立てた家である。墓に囲まれている家である。なぜこんな場所に家を建てたのか。不思議である。土地がとても安かったのだろうか。それともこの土地の所有者だったからなのだろうか。


これらの墓も亀甲墓であるが、ブロックとスラブで造ったものであり、戦後の墓である。戦後は核家族になったのと墓が安くなったので墓がどんどん増えていった。戦前の人口は60万人だったが戦後は人口がどんどん増えて、140万人になった。人口が増えたのも墓が増えた原因である。

 それにしても亀甲墓の真後ろに家を建てたのは不思議である。しかし、建てた理由を家主に聞く気はない。聞いても教えないだろう。
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