goo

受験校の決め方

1年前の第一志望と違い、今回は実際に受験する学校を日程にしたがって決めていかなければなりません。この作業は意外に大変で、神経も使いますし、またいろいろと情報を集めなければならなくなります。

 まず、前提を整理しましょう。

1)絶対に私立にいれるのか、公立でもいいのか。

少子化の問題で、最近では公立の中学も選択できるところがでてきました。公立も競争が始まれば、またいろいろと変わってくるのだと思いますが、私としてはやはりせっかくがんばったのだから、私立にいれてあげたいなと思います。というより、合格するという経験はさせてあげたいと思います。ただ、これはご家庭の判断で、希望の学校でなければ、地元の公立にいった方が良いという考え方もあるでしょう。この問題は子どもを交えて、一度、話をしておいた方が良いと思います。

2)どの程度を下限とするのか?

私立中学もいろいろですし、現在は少子化ですから、定員がうまらない学校もあります。しかし、そこに合格してもあまりうれしくないかもしれません。上を見てもきりがないし、下を見てもきりがないのです。ですから、下限だけは決めておいた方が良いかもしれません。

 ここで、高校受験と中学受験の偏差値の違いについて、ちょっとご説明しておこうと思います。たとえば中学と高校で募集をする学校を考えた場合、中学受験では偏差値50とすると高校では55から60くらいに偏差値があがります。そこで、高校は難しいからやはり中学でという考えをもたれるかもしれませんが、それは違います。だいたいレベルとしては同じだと考えていただいて、かまわないのです。ではこの偏差値の違いはいったいどこから生じるのでしょうか?

基本的に高校受験はほぼ全員の子どもたちが受験します。したがって母集団は全体ですが、中学受験はある一部分の子どもたちが母集団になりますので、その違いがだいたい5くらいあるのです。中学受験の平均、すなわち偏差値50が高校では55ぐらいにくると考えてよいでしょう。

行きたい学校があって、その学校が高校でも募集をしているのであれば、あえて中学で決めなくてもよい場合もあります。ここはぜひ、高校のことも多少調べておかれると良いのではないかと思います。

特に大学付属校の場合、高校でも募集をする学校は多いので、付属校は大学受験がない分、高校で受験してもいいと考えても良いのではないでしょうか?

さて以上のような前提をまず、固めた上で受験校を決めていきます。公立には行かないという選択であれば、やはり滑り止めを考えなくてはなりません。これは最初に受験をしてから3校目までには必ずひとついれておきましょう。やはり3つ続けて落ちるということは、子どもにとっては大変な苦痛です。入試は非常に短い期間に集中して受験しますので、精神的に崩れてしまうと、立て直す暇がない場合があります。ですから、3校受ける間に必ず、滑り止めを入れます。そして、この滑り止めについては、やはりよく吟味する必要があります。ただ合格すればよいというのではなく、通う可能性があるのだから、その中身を第一志望の学校と同じくらいに考えておきましょう。

息子の時は、日程上どうしても4日目に滑り止めがきてしまいました。ただ最初に受けた学校も2番目に受けた学校も発表が遅かったのが救いと思っていました。連続して落ちないようにする工夫が日程上、どうしても必要なことです。つまり、同じレベルを並べないということはとても大切です。

模擬試験では合格確実校、実力相応校、挑戦校と区分けがしてある場合がありますが、最初から3日目までにその中から1つずつ受験するというのが良いのではないかと思います。教育的に言えば、3日とも合格するよりは、1校くらい落ちて、なかなか手の届かないところもあるのだと知っておくのも大事なことです。

教えたものの本音としては、たとえ公立にいくとしても、滑り止めはあった方が良いと思っています。せっかくがんばったのに、1校も合格しなかったというのは、ちょっとかわいそうな気がするのです。合格しても、行かないという選択はもちろんありますから、ごほうびと思って滑り止めは用意してあげてほしいと思います。

さて、どの学校を選ぶかということに関しては、なるべく一貫性を持たせる工夫があった方がよいでしょう。自由な校風の学校と、割とガシガシ勉強をやらせる学校があわせて受験校に並んでいるのは、どうも腑に落ちないところです。

さて以上のような内容を検討されたら、進学塾の先生とぜひご相談ください。はっきり言って、ここの指導力が進学塾の大きな価値でもあります。これを利用しない手はありません。ただそのときまでに、ご家庭の考え方を決めて行かれるといいと思います。進学塾の先生に

「それは難しいですよ」

といわれてしまうと、なんとなく弱気になってしまったりするものです。そうならないためにも、本人を交えてよくお話し合いをされるべきだと思います。

ある年、受験指導をしていて、女の子に滑り止めを決めました。お母さんも納得されてその子に学校の話をしたところ、次の塾の日に、本人が抗議にきました。

「どうして、私があそこの学校をうけなきゃいけないの?」

「なに、ご不満ですか」

「大いに」

「あの日、他に受けたい学校あったの?」

「それはないけど、あそこまで下げなきゃいけないんですか」

「ははーん、そこが大いにご不満ね」

「うん」

「それは、君の実力から考えて、もっと上でも合格するでしょう。でもね・・・」

私は日程表を取り出しました。横軸に日程、縦軸に合格偏差値がついたおなじみの表です。

「君の第一志望のランクがここだ。だからここから5ポイント下にすると、実力相応ライン。この前の試験の偏差がだいたい、ここだったね」

「うん」

「で、ここから5ポイントさげると基本的に安全ライン。だからここだ」

「そうでしょ。それはわかります」

「で、この学校は・・・」といって私は上から順に説明をしていきました。通学距離、校風、受験と付属の別、どれも彼女がもっている希望とは違います。

「だと、この学校になる。でだ、この学校は大変評判が良い」

おや、本人の表情がすこしゆるみました。

「英語教育にも力がはいっている。留学もできる。そして・・・・」

といって私が次に出したのは、受験案内。

「この制服をどう思われますか?」

彼女はセーラーが着たかったのです。もちろんその学校はセーラー服。

「かわいいじゃない」

「でしょうが。ちゃんと考えてあげてんだから。何か、文句ある?」

「ありません。でも、やっぱ第一志望に入ろう」

「それはそうでしょ」

彼女は元気に帰っていきました。彼女が納得した理由は何でしょうか?制服が一番の決め手だったように思われるでしょうが、それは違います。

「この学校はいい学校だ」

ということです。子どもは偏差値を見ると、上から順に良い学校だと思いがちです。いや、大人もそう思っておられる方が多いのではないでしょうか。しかし、学校にはいろいろな要素があります。子どもにあう学校がその子にとって一番いい学校なのです。偏差値が良いとか、大学受験の実績がよいとかいうのは、あまり関係ありません。ただ子どもに合うということは、子どもにはよくわかりません。したがって大人がいう価値観が子どもにとっても良い学校になってしまうことはあるのです。だから、子どもの前でいうことばに私はずいぶん気を使っていました。

あるとき、成績の悪い子どもが、自分の志望校を友だちに聞かれました。本人は自分の成績が悪いということを知っていますから、受ける予定の学校をなかなか言い出せません。

それでもしつこく聞かれて、彼はボソっと答えました。友だちはその学校のことをあまり知らなかったので、

「先生、その学校、どんな学校?」

と私に聞いてきました。

「この学校はね、なかなかいい学校なんだよ。クラブ活動もしっかりしてるしね、環境もいい。彼にはぴったしなんだ。何せ、僕が教えてあげたんだからね」

そのとき、彼の顔は確かに明るくなりました。多分ご両親はあまり、良い話をしていなかったのではないかと思います。でも、そういう気持ちで受験したり、入学したりするのは決してよくありません。大人が持っているそういう価値観が、いかに子どもの可能性を奪うものなのか、私はもっと多くの人に知っておいていただきたいと思います。

さて、納得して選んだ学校ですが、入学後、問題がなくなるわけではありません。こんなこともありました。

ある大学付属校に進んでいた高校3年生から相談があると電話がかかってきました。

「大学受験をしたいんです」

「ほう、どこに行きたいの?」

「東大法学部」

「なるほど、いいんじゃない?君がやりたいなら」

「そうだよね。先生はそう言ってくれると思った」

「お母さんは反対なの?」

「当然」

「そうか、そうだろうね。せっかく付属に入ったんだもんね。でも、今の学校の法学部ではだめなのかい?」

「官僚になりたいんだ」

「なるほど。そこまではっきりしているなら、やれば」

「うん、もう一度、説得してみる」



夜にお母さんから電話がかかってきました。

「先生、何かうちの子に言いました?」

と言っているお母さんの声が笑っています。このお母さんは、とてもしっかりされた方なのです。子どものやりたいようにやらせてあげたいと一方で思いつつ、何もそこまで無理することはないと考えておられるのでしょう。

「え、東大受けたいって言うから、やればって言いましたよ」

「まったく、私の気も知らないで」

「すいません」

「いいえ。でもやる気でしょうね。あの子」

「そうでしょう」

「別に官僚になってもらわなくても、いいのですけど」

「いいじゃないですか。やりたいっていうものは」

「でもね、先生。私はうちの子どもの力がわかります。あの子はそこまでやれる子じゃないです。だから付属に入れたのですから」

「わからないじゃないですか。でもたとえ失敗しても、後悔はしないでしょう。あそこまで言うんだから」

「そうでしょうね。でも、きっと落ちますよ。でも、それであの子がしっかりすればいいのでしょうね。先生はそう考えているのでしょう?」

「はい」

「仕方ありませんね。でも、どうしてあんなこと、思ったのかしら?」



私も彼がどうして官僚になりたいのかは聞きませんでした。しかし、彼の性格から考えると、わからないこともないのです。彼は、正義感の強い人間でした。だから自分の将来をなるたけ、人のためになるようにしたいと考えたのだろうと思います。その結果として出てきたのが官僚になること。そして東大法学部だったのではないかと思います。

結論だけ言えば、彼は失敗し、元の付属校の法学部に入り直しました。お母さんの言うとおりになりましたし、そういう意味ではやはりお母さんはあの子のことをよく知っておられたのだろうと思います。しかし本人にとって貴重な体験であったことは間違いありません。

子どもは成長するにつれて、いろいろなことを考え、そして挑戦し始めるものです。親がよかれと思って選んでも、それがあだとなる場合もあります。だからといって、親が選ぶことに不安を感じる必要もないのです。子どもが道を変えたいのであれば、そのとき相談して、いっしょに考えたあげればよいのです。私立に入ったあと、もう一度高校受験をしたいと言い出した子どもたちを私はたくさん知っていますし、実際に彼らは自分の気持ちを現実のものとしていきました。それでいいのだと思います。それが子どもの成長なのですから。

コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合格点をとる勉強法

入試に満点は必要ありません。合格点をとればよいのです。最近の試験データ-を見ますと、だいたい合否ラインは5割から6割の間でしょう。意外に低いと思われるかもしれませんが、子どもが思うほど、実際の入試ではできていないものです。しかも模擬試験と違い、答案は返却されません。どのような採点になっているのか、受ける側は知る由もないのですが、学校側のお話を伺うとだいたいその辺に落ち着いてきますから、模擬試験よりはやや辛い採点がなされていると思われたほうが無難でしょう。

 さて、合格点をとるということは、どういうことなのでしょうか。私がよく申し上げていたのは、人のできた問題を間違えないということです。入試は人のできない問題ができたから受かるという感覚のものではありません。むしろ、人のできたところは間違えないということが重要なのです。

 例えば70点という点数があったとします。すべての問題を解いて、3割間違えた70点と7割の問題に手をつけてとった70点があります。点数としては同じ70点ですが、実際の入試を見てみると、後者の子どもの方が合格しやすい傾向にあります。どうしてでしょうか。

 前者の子どもは、つねに3割の間違いがあるのです。したがって8割の問題に手をつけた場合、5割強の得点にしかならなくなってしまうのです。こういうタイプは成績の上下動が激しくなってしまうので、実際の入試では下にぶれてしまう可能性が高くなり、合格しにくいのです。

 合格しやすいのは、やはりていねいで確実なタイプ。絶対に合格するだろうなと思うのは、決して派手にできる子どもではなく、地道に解くタイプなのです。では、そのような力を養うのにはどうすればよいでしょうか?

 基本的なことですが、やはり字を丁寧に書く、問題を丁寧に読むということが重要です。そのくせを日頃からつけていないと、やはりうまくありません。ところが、量多く勉強させたり、時間を気にさせながら勉強させたりすると、その過程を飛ばしてしまう傾向があります。これは、決して良いことではないのです。一つ一つの問題を丁寧に解き上げるくせをいかにつけるかが、大事だと思います。

 以前に、典型的に雑な子どもがいました。決して頭は悪くないのですが、とにかく雑。問題を読むのも字を書くのもいいかげん。さらに言えば、机の周りもすぐきたなくなります。だいたい、出したものをしまうということができない。出したらだしっぱなし。したがって、本人も何がどこにあるのかわからず、そのたびごとにごそごそ荷物をかき回しています。

「一度出したら、一回しまえば?」

というと

「面倒なんだもん。大丈夫、見つかるから」

本人は平気です。ところが、いざ模擬試験が始まったら、もう大変な点数でした。さすがに本人も困ったらしく、

「どうして、こんなに間違うんだろう」

と相談にきました。

「要するに慌てないってことなんだけどさ。君ってなんでも、急いでやるよね」

「うん」

「それは性格なのかな」

「そうだと思う」

「じゃ、性格はなかなか直らないので、それはおいておいて、勉強のことだけ、ちょっと変えてみようか」

「どうするの?」

「問題の条件があるじゃない」

「うん」

「それをひとつずつ、下線をつけてさ、まず数を数えるのね」

「いくつあるか?」

「そうそう。それでね。問題を解き始めたら、使った条件を消すんだよ」

「なるほど」

「それで、使ってない条件があったら、それはおかしいと思って、もう一度考えるようにする」

「わかった」

「それと、」

「え、まだあるの?」

「ほら、また慌ててる」

「あ、そうか、そうか」

「答えが出た!と思ったら、もう一度、問題を読み直す」

「そんな、めんどくさい」

「だめ、それだけはやって。そうしないと、おこっちゃうぞ」

「それは困る」

「だから、それだけ守る」

「2つやればいいのね」

「3つめもあるけど、まあ、いいや」

それでも、彼のミスは若干少なくなる程度でした。やはり性格はなかなか直りません。ところがここに救世主が現れました。彼の仲の良い友だちが突然、成績を急上昇させはじめたのです。彼は、おとなしい目だたないタイプでしたが、確実な子でした。先ほどの類別でいえば、後者にあたるタイプです。その子の成績が急上昇したのを目の当たりにした彼は、まったくその友だちの真似を始めたのです。ノートも同じようにとる、プリントも同じようにやる、何から何まで彼を真似ています。最後は、口ぐせまで同じようになってきました。すると、驚いたことに、あんなに雑だった子の答案がだんだんきれいになってきたのです。

「あら、きれいじゃない」

「そうでしょ。やればできるんだよ、僕だって」

それはその通り。元からそんな能力は誰にでもあるものです。ただ、やらないだけ。それが友だちをきっかけとして、やれるようになりました。

 結果は二人とも第一志望の学校に合格しました。彼の場合、私の力よりも、友だちの力で合格したようなものです。でも、何かをきっかけとして、子どもの雑な部分がなくなってくれば、これはしめたもの。口うるさくするよりは、むしろきっかけを与えられるように工夫してみてください。

 そのことがあってから、私はよく6年生に、良い答案やノートをコピーして見せることにしました。私たちがやらせることよりも、友だちがやっていることの方が、説得力はあるものなのです。

コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

模擬試験

 6年生の夏休み以降はいろいろな塾で多くの模擬試験が行われます。この模擬試験も、最近ではコンピューター処理をされて、大変カラフルな成績表がでてくるようになりましたが、どうもこの合格可能性という数字に惑わされてしまったり、また具体的なイメージがわかない方が多いのではないかと思います。仕組みを簡単にご説明しましょう。

 テストを運営する塾では毎年、追跡調査を行います。そして模擬試験の結果と入学試験の結果の相関を出すのです。その結果として、ある学校についてある偏差値以上の子どもの80%が合格している偏差値をモデル化して80%ラインとして決めます。それ以上の偏差値をとれば、合格可能性は80%以上ということになります。同様に20%くらいが合格している偏差値を下限でとって、80%から20%までの間を正規分布でとらえて、合格可能性を算出します。この途中にはそれぞれの塾の考え方や計算の仕方があって、いろいろですが、大雑把にいうとそんな感じです。ですから、合格可能性で90%を出す塾はあまりありません。だいたい80%でお茶を濁すのですが、子どものすることですから、そのくらいが妥当ではないかと私も思います。

 で、この偏差値にどのくらいの信憑性(しんぴょうせい)があるのか?という問題になりますが、まず、ここでお断りしておかなければならないのは、この模擬試験には前提にまったく無理があるということです。それは、各学校の入試傾向をまったく反映していないということです。

 最近の入試問題は本当にバラエティー豊富です。記述式の問題もあれば、選択式の問題もありますし、それこそそれぞれの学校の先生が工夫をこらして問題を作られています。それを1つの形式の試験で合格判定をすること自体に無理があるのです。ですから、その前提をまず考えてください。模擬試験の内容と入試問題がある程度似ているのであれば、その合格可能性には多少信頼性が増えるでしょうが、まったく違う形式の試験であれば、ひとつの参考にするにとどめてください。

 例えば私が教えていたクラスでは、ある大手の模擬試験で合格可能性が50%未満の子供たちがたくさん合格していました。それは、その試験に問題があるのではなくて、模擬試験の内容と入試の内容がまったく違うからです。ですから、私はその学校の出題傾向にあわせた問題を独自に子どもたちにやらせながら、合格可能性を量っていました。

 さて入試問題が多少似ているということを前提にどこまでの偏差値なら受けていいのか?という問題が出てくるでしょう。私は50%がひとつの目安ではないかと考えていました。50%を切ると、これはやはりしんどくなるかなという感じです。ただ、これはぜひ認識していただきたいとのですが、模擬試験の日は入試の日ではないということです。子どもたちは先にもお話した通り、入試が近づくにつれて力をつけていきます。秋も早い段階では、まだまだエンジンがかかっていないことのほうが多いものです。ですから、これから伸びる部分も当然考慮にいれて、合格可能性を判断しなければならないのです。

 また順位を気にされる方がいらっしゃいます。例えば、ある学校の希望者だけで順位をつけてくれるテストがあります。大変有効なデータ-に見えますが、これもあまりあてにはなりません。(そんなことをいうと、怒られてしまいそうですが。)例えば1番の子と300番の子ではずいぶん差があるように感じられるだろうと思います。しかし、実際に教えてみると、そんなに大した差はないのです。むしろその間に300人の子どもたちがいるから、そう見えているだけの話ではないでしょうか。実際に、子どもたちの成績は上下します。偏差値など、10くらいすぐ変わってしまいます。むしろ親が判断しなければならないのは、そういう可能性の議論よりも、出題された問題なのです。

 模擬試験は、非常に良い勉強材料です。なぜならば、子どもたちが真剣に解いているからです。この問題はぜひ、復習してください。そして大事なことはなぜ間違えたのかということをしっかりつかむことです。間違えるにはいくつか原因があります。まったく、見当がつかなかったのか、ミスをしたのか、ミスもどういう原因から起きたのか。例えば、問題の読み違いだったのか、それとも計算間違いだったのか。

 例えば算数でよくあるのは、最後まで問題を読まずにおこるミスです。子どもたちは夢中で問題を解いていますが、えてして「できた!」と思ったときにミスがおこります。あともうひとつ過程を踏まなければならないのを忘れてしまったりするからです。

 そのミスの原因をつきとめたら、次は対策です。例えば、条件に下線をつけるようにするとか、答えが出たと思ったら、もう一度問題を読み直すくせをつけるとか、それぞれ子どもたちのミスの原因によって対策を立てていきます。それでもミスはなくなりません。でも10%程度の発生率にしておくことは可能です。

 また、塾はこれまでの入試問題を分析しながら、出そうな問題をチョイスしていますから、それを勉強するというのは、非常に良い勉強なのです。

 模擬試験をどのくらいの頻度で受けたらよいかという質問も良く受けました。調べてみると6年生の秋には毎週受けようと思えば受けられるくらいの頻度で模擬試験が行われています。しかし、それではあまりにも大変で、復習や過去問の勉強が追いつきません。月に1回くらいのペースでよいのではないかと思います。11月くらいは月2回くらい受けても良いかもしれませんが、そのくらいにしておいてください。

 試験を受けて、成績が悪かったら本人が自信をなくしてしまうのではないかと思われるお母さんもいらっしゃいますが、それは過保護。あくまで模擬試験なのですから、悪かったら、

「本番でなくてよかったね」

くらい、言ってあげればよいのではないでしょうか。成績に一喜一憂するよりも、できなかった問題をいかに復習していくかということに力をいれて、模擬試験を活用してください。くれぐれも、成績で悲観しないように、気をつけてください。これは特にお母さんに多い症状です。

田中貴の動画教材
コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏休みの勉強法


 6年生の夏休みは、天下分け目の決戦などといっています。でもそれは塾側の営業文句に過ぎません。子どもたちの力は夏に伸びるという感覚はありません。むしろ入試3ヶ月前からという感じがします。なぜでしょうか?

子どもたちにとって半年も先のことは、まだ実感がわきません。まだ、大丈夫。そんな感覚があります。ところが親の側はそうではありません。受験前の最後の夏休みです。これだけ時間がとれるのは、最後ですから、あれもやらせてみたい、これもやらせてみたいという気になってきます。

ところが40日もあったはずなのに、意外に少ないのです。塾に通っていれば、当然夏期講習があります。これが、最近は非常に長くなりました。3週間、4週間、朝から夕方まで講習に追われる生活になってしまうのです。ここのところ、塾の講習が長くなってきたのには、いくつか原因があります。

親の側としては、塾に行っていれば、勉強の面倒を見なくてもすむという気持ちがあります。特に最近の家庭は子どもの数が少ないので、お母さんと子どもが一対一になりやすく、したがって、毎日勉強しなさいと言い続けるのはいやだから、それなら塾に行ってくれたほうがましだという感覚でしょう。その気持ちにこたえて、何でも塾で抱え込んでしまおうというのが最近の傾向のようです。

ただ、ずっと塾に行っていて、復習の時間や自分で入試問題を解く時間を作れないのは、ちょっともったいない気がします。もちろん、塾では入試問題を解く時間を授業の中に作っているようですが、自分のペースでできないというところに問題が出てきます。夏休みに過去の入試問題を解くという勉強は非常に大事なのですが、この時期はまだ実力がともなっていないので、簡単に解けませんし、また時間がかかります。しかし、その過程は省略するわけにはいきません。じっくり時間をかけ、わからない問題は解答を読みながら、理解していく過程がどうしても必要なのです。それが自分のペースでできていないと、せっかく時間をかけているようで、実は効果がでていない可能性がでてきます。

また、最近では宿題を出す塾も多いので、それに追われてしまって、なかなか子どもを個々に必要な勉強ができなくなってしまう傾向があります。

子どもはいろいろな課題を抱えています。したがって、その課題を個別に解決していかなければならないのですが、あまり塾に生活を占められてしまうと、その対応ができなくなります。したがって夏休みが始まるまでに、いったい何を勉強するのか、具体的に絞り込んでおく必要があるわけです。

私のいた塾は講習が単科制になっていましたので、それぞれ必要なものを組み合わせてとることになります。6年生の場合、基本は学校別の特訓ですが、それ以外は自分の得手不得手にしたがって講習をとることになります。だいたい、この講習の設定をするのは、私たちとお母さんの間でやるのですが、本人の意識のために、本人たちと相談することも少なくありません。その結果として、本人自身で夏休みの勉強の計画を立てるのですが、これは夏休みの勉強としてとても大切なことです。まず、本人の成績があり、そこから何を夏休みに勉強すればいいのかを絞り込み、その具体的な方法を挙げて、そこから計画を立てる、その一連の流れは単に勉強するということだけでなく、後からいろいろなことに役に立ちます。例えば英検をとろうとか、あるいは何か夏休みの作品を作ろうとか、いろいろな場面でそういう流れを創り出すことは非常に大事です。ですから、夏休みの計画についてもなるべく子どもにやらせて、相談して決めていくこと良いのではないかと思います。

とてもユニークな子どもがいました。私が担当していた学校別特訓の番長格の子どもで、とにかくいろいろな武勇伝があるのですが、それはさておき、6年生の夏期講習前に相談に来ました。講習で何をとるべきか聞いてくる子はいるのですが、たいていはお母さんに、聞いてらっしゃい、と促されてくる場合がほとんどです。ところが、彼の言い方はなかなかふるっていました。

「算数は速さがまだだめ。それで『比と速さ』はとる。理科実験は出そうだからとるでしょ。

記述は出ないから、『国語読解』の方にして、あとは学校別全部。これで大丈夫かな?」

「いいんじゃない」

私としては、それしか言いようがありません。私が作るメニューもだいたいこなした上で、

「でも『場合の数』は苦手なんだ。何をやればいい?」

という積極性を身につけていました。

この子は合格したい学校が最初から慶應普通部と決まっていましたから、目標に向かって最短距離で進んでいたと思います。ですから、勉強するのも非常に集中していたし、2学期に向けて成績は確実に上がっていきました。入試前に早くも私は大丈夫だろうと安心していたものです。



彼が慶應を卒業してから、いっしょに飲む機会があって、昔話をしていたとき、私はふと疑問があって、彼に聞いてみました。

「なんで、あんなに普通部に行こうと思ってたの?」

「慶應は、もう最初からです。家で話していて、付属校に行くなら慶應にしてほしいというのは家族の希望でもあったし。僕は受験はもうやらないという気持ちでしたから。じゃあ、慶應にしようと。で、当時は女の子、嫌いだったんですよ。だから普通部じゃなきゃ、だめだって。中等部は共学でしょ。今は湘南も共学ですけど、僕はとにかく男子校」

何が原因になるのか、わからないものですが、とにかくそのエネルギーが非常に前向きに出ていたのではないかと思います。だからとても自立していたし、自分でいろいろなことができる子どもでした。今の子どもたちにそこまで要求するのは難しそうですが、それでもなるべく自分で計画を立て、自分で勉強するというスタイルを身につけさせてあげるとよいと思います。



さて、計画ですが、何をやるかまでは、塾の先生とも相談して決めてください。ただ、あれもこれもと手を広げずに、この問題集の問題は全部できる!というような自信がつくように工夫すると良いでしょう。計画を立てていく中で、いくつか注意事項があります。



予備日

計画を立てさせると、だいたい見事な計画ができてしまいますが、たいていは実行不可能なものになりそうです。ですから、5日に1日は予備日を作ってその日は何も勉強しないようにしておきます。もし、それまでの勉強が無事進んでいたら、その日はお休みにして、どこかに遊びに行くのがよいでしょう。終わっていなければ、その予備日を使って勉強するようにします。これはごほうびの意味もありますから、無事予定が終わっているのに、その日に勉強させてはいけません。(そういうルールはきちんと守りましょう。)



講習の復習や宿題

問題集や参考書ばかりに気をとられてしまいがちですが、まず大事なのは講習の復習と宿題です。せっかく時間をかけて講習を聞いているのですから、その復習がまず一番有せんされなければなりません。講習の復習や宿題をする時間を計画に入れるのを忘れないように。



入試問題

第一志望の学校の入試問題は、夏休みから手をつけていかないと間に合わなくなります。

ただこのときは、時間を計ってやっても、あまり意味がありません。むしろじっくり時間をかける時期ですから、たくさんの学校をやろうと思わず、第一志望の1年分をていねいに解きあかすようにしたらよいでしょう。

日程表は、なるべく大きく書き出し、家族みんなが見えるところに貼っておきましょう。そして、消化したものはどんどん消していくのです。こうすれば勉強のことが見られないお父さんでも、「がんばってるな」とほめてあげることができるでしょう。
コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良い学校の選び方

まず何をもってよい学校というのでしょうか?

 学歴優先主義の中、東大を頂点とするひとつのピラミッドのなるべく上の方に子供をいれることが、子供の幸せにつながるという考え方ならば、やはり東大にいれてくれる学校が一番いい学校だということになるでしょう。

 これはそういう風潮がありましたし、今でもそういう考えをもたれている方もいらっしゃると思います。しかし、終身雇用が崩壊し、労働人口の国際化と流動化がうながされてきているのだから、どうもこれはあてはまらなくなりつつあります。それよりも私は、子供のいろいろな可能性を引き出してくれる学校が良い学校だと考えています。別に学校が引き出してくれなくても、学校での生活を通じて、その子供が自分の井戸を掘って、いろいろな可能性を試せる学校であるならば、非常に良い学校だと思うのです。

 ですから、私はよく説明会などで

偏差値が高くて、悪い学校があります。偏差値が低くて、良い学校があります。」という言い方をしてきました。

 東京や神奈川の私立中学の偏差値というのは、だいたいその前の年の東大の合格者数にリンクしています。その年、その学校から東大に行った生徒の数が多ければ、なんとなく人気があがっていました。これは、本当をいうと、あまり意味がないのですね。受験校に関して言えば、ある年、東大に入らなければ浪人しますから、次の年はちゃんと多くなったりするものです。

 ところが、どの学校でもやはり気になるのでしょう。大学受験の結果を、学校案内の中で多くのページをさいて示しています。

 でも、名門校というのは、能力のある子供たちを入試で集めているわけですから、合格者が多くて、当然だし、それに子供たちは予備校やら塾にいってそれなりにがんばるわけですから、大学受験の成果が学校の評価にそんなに直接つながるのだろうかと私はいつも思っていました。

 塾には、いろいろな学校から働きかけがあります。だいたい名門校はそんなことはしませんが、それでも最近はずいぶん増えてきました。学校からはぜひ塾の生徒に本校を薦めてもらいたいというお願いが届きます。

 だいたいはパンフレットを見ながら、ご説明を伺うのですが、どこの学校のパンフレットの構成も同じですし、指導の特徴を伺えば、

「英数の能力別クラス編成」

だとか

「英語の外国人指導」

だとか

「中1から高2までですべてのカリキュラムを終了して、高3は完全に大学受験に向ける授業編成」

だとかいうお話で、これも、別に特別、違いはありません。

 ところがある日、ある校長先生がアポなしでいらっしゃいました。

「調べてみると、先生のところからは本校への入学者がほとんどないので、ぜひお願いしたいと思ってあがりました。」

といわれる先生は、大きな声でお話をなさいます。応対した私は少なからずびっくりしましたが、応接へお通しして、お話を伺うことにしました。

 それから1時間ほどお話を伺いましたが、大学受験の話はほとんどなし。話の中心は人間観でした。先生の学校は仏教が設立母体の学校で、私も学校は存じ上げていましたが、当時、私の塾では、あまり人気のない学校でした。先生は仏教から始まる人間観について述べられた上で、その建学の精神にのっとってみると、自分の学園の子供たちには、いろいろな可能性を追求してもらわなければならないとおっしゃいました。その上で、ひとりひとりの違いを見つめて、今をひたすらに生きてもらうことを、どうできるようにすればいいのかを考えられたそうです。それがひとつは学力の向上であり、ひとつはクラブ活動において自分を鍛え上げることであり、また海外において自分の可能性を見つめることであり、いろいろなカリキュラムや行事の中で、子供たちが自分を見つめることを大切にしたいといわれました。

 私は仏教には関係ありませんが、先生の考える人間観はとても大きく、あたたかく人間を迎えてくださるような気がしましたので、一度、学校に伺わせていただきたいとお約束をさせていただきました。

 それから一月ほどして、学校に伺ってみると、実に近代的な設備がならんでいます。土地は決して広くはありませんから、きわめて効率的に作られています。その狭い中で多くのクラブが活発に活動をしています。またカリキュラムや授業の教材にもいろいろな工夫がされていました。ただ、それが明らかに校長先生の強い指導力によってなされていることは、察しがつきました。その指導力はどこからくるのだろうか、私は先生のお話を伺いながら考えていました。

 先生は常に学園を良くしたい、子供たちを良くしたいと考えておられるわけです。その元は建学の精神である人間観に支えられています。当然それは仏教からくるものですが、宗教的というよりも、きわめて常識的な考え方であり、だれもが受け入れることのできる内容でした。そして、それをもとにして、真一文字に突き進む力は、並大抵ではありません。しかし、そのエネルギーは、非常に子供たちにとってありがたいものではないかと考えました。

 私はその学園が気に入り、その年から少しずつ受験者を紹介しました。といって、親御さんにはすべてお話しました。入学式には仏様がでてくること、アメリカやカナダに修学旅行に行かなければならないこと、グランドがせまいこと、でも最後にご両親が校長先生の説明を聞かれると、納得して学校を受けさせられたようです。

 この学校に私の塾から、ある生徒が行きました。本当は行かない予定でしたが、彼は第一志望どころか、第二志望も落ちてしまったので、あわてて出願できたこの学校の入試に合格し、通うことになったのです。

 本人の挫折感は相当なものだったようです。優秀な子供だったと思いますが、中学の間はあまり勉強に力も入らず、クラスの成績もそれほど良くはなかったようです。彼はテニスに打ち込みました。毎日テニスの練習に明け暮れる毎日だったそうです。勉強は、ほとんどチョコチョコと間に合わせる程度。でも非常に充実していたと本人は言います。

 彼は高校の時、ついにインターハイの選手として選ばれました。そしてその大会が終わったとき、ふと、彼は自分のつまらないコンプレックスが消えていることに気がついたのです。テニスでここまでがんばれるのなら、また勉強でもがんばれる、それから彼は自分の将来を真剣に考え、大学受験の準備をはじめました。

 彼は現役で東大に合格しました。そして自分はこの学校に来たので、合格できたのだろうといいます。第一志望の学校に合格していたら、本当にここまでこれたかはわからない、だから本当に自分にとって良い学校に入れたと言っていました。

 学校選びはとても難しいものです。特に子供が小学生の時は、ほとんど親がその決定にかかわるといっても過言ではないでしょう。でも、私はその決定を親がしてよいと思っています。親がいろいろ調べて、校長先生の話もよく聞いて、我が子によかれと思って決めれば、それでよいのです。

 もし、それが本人の成長にともなって、合わない学校であるならば、そこから修正すればよいのです。高校で受験しなおしてもよいし、道はいくらでもあるといってよいでしょう。それよりも、本当に子供に合う学校を選ぶことに注力されるべきだと思います。私は、学校のよしあしはトップで決まると思っています。校長先生が真剣に子供たちのために、学校のために、一生懸命努力されている学校には、やはり光るものがあるのです。

 大学の合格実績よりも、校長先生の日々の努力に目をむけてください。きっと、偏差値が高くても悪い学校があり、偏差値が低くても良い学校があるという意味がおわかりいただけるだろうと思います。

 先の校長先生はその学校の20世紀の歴史を自ら閉じられるかのように、2000年12月になくなられました。私にとって忘れることのできない恩師、世田谷学園の山本慧彊(えきょう)先生です。

コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お手伝い

お手伝いをさせていますか?特に受験期になると、お手伝いをさせないケースがありますが、これはよくありません。私は家族として暮らす以上、それぞれが家族のためにする仕事をもつべきだという考えの持ち主なので、子供たちには小さいときから、その年齢ごとにできることをまかせてきました。例えばお風呂は息子の仕事です。お風呂洗いから、お風呂にお湯をはることまで、すべて彼の責任において行われます。忘れていたら、頼みます。
「あの、お風呂よろしく。」
反抗期の間も、ずっとこれは続きました。本人は時々ぶつぶついっていましたが、でも最後は必ずやってくれました。
 子供はサービスを受けるお客様ではありません。家族としてみんなでいっしょに生活しているのだから、自分ができる仕事は家族のなかで分担すべきでしょう。そしてこれが大切なことですが、これを実行することで、子供のことを認めるきっかけにもなるのです。
 娘は、よく家内の手伝いをしています。夕食の前の準備は彼女の仕事ですし、片付けも手伝います。この前は、クッキーを焼いていました。たまたま休みで、私はパソコンに向かっていたのですが、いいにおいがしてきます。
 振り返ると、娘が電気オーブンから焼きたてのクッキーを出しています。
「すごいね。もうクッキー作れるんだ!」
と感心しながら、1枚もらいました。なかなかいい味です。
「おいしいじゃない。たいしたもんだな。」
「今度はね、チョコレートをいれるのよ。」
と本人は得意そうです。

 家内はあまりまめなほうではありません。これは本人が子供のためにしているわけではなさそうですが、そのために、子供たちは自分のことは自分でしなければならないように仕向けられます。自分で準備をしておかないと、母親が先回りをして何かやってくれると思えないからでしょう。だから、修学旅行の準備となると先に先に用意が始まります。
「ママ、これ買っといてね。」
と頼まれて、ちゃんと買ってあげていればよいのですが、
「また、忘れたの!」
と非難ゴウゴウになるときも少なくありません。ですが、これは子供の教育のためにはよかったと思っています。(私自信が不便だと思うときは多々ありますが。)

「言わなければしてくれない」という状況は、早く子供たちを自立させるのにプラスに働きます。そして、お手伝いをするということは、また自分でいろいろなことができる自信を培うことにもなります。ですから子供たちにおおいに手伝ってもらいましょう。子供たちはもう、いろいろなことができるはずです。

でもこのとき、親としてぜったい守らなければいけないことがあります。
「ありがとう」
という言葉です。やってくれたら、感謝する、他人にはあたりまえにできることでも、身内にできていないことが多いものです。
新聞とってもらったら、「ありがとう」、何かものを持っていってもらったら「ありがとう」、これがあたりまえに家族の中で行われたら、とても素敵なことだと思います。
コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ともだち

子供が聞かれていやな質問の中に
「ともだち、いる?」
というのがあります。もちろん、たくさんの友達がいる子供はそうでも、ないのでしょうが、案外、聞かれて困る質問のひとつのようです。
「誰と、誰がともだち?」
というのも、答えにくい質問。でも、お父さん、お母さんとしては聞いておきたい質問ですが、本当のことを言えば、あまり答えたくない質問でしょう。

 私は、息子の友達の名前は知っています。家や外に遊びに行ったり、電話がかかってきたりしますから、何々君が友だちらしいということはわかりますし、息子の話を聞いていると、誰がどうしたということが、時折でてきますから、それが友だちだろうと思います。娘も同様に、そういう話から多分、友だちはだれだれだと推測はできますが、面と向かって、
「誰が友だち?」
ということを聞いたことはありません。

「親友は誰?」
この質問も子供たちにとって答えにくいようです。友だちと親友はどこが違うのか。もっと突っ込んで言えば、友だちというのはいったいどういう定義なのか?子供たちにとって友だちは、いっしょに遊ぶ仲間が全部友だちといえますし、いつもいっしょに遊べば親友になるのかもしれませんが、そんな意識は毛頭なく、したがって友だちを分類するということは、あまり気持ちのいいものではないようです。

 ところが親の立場で言えば、事情はだいぶ違ってきます。誰とつきあっているのかは、気になるところです。悪い遊びを覚えないかとか、図に乗って何か悪いことをしやしないか、心配すればきりはありません。その結果として
「何々ちゃんと遊んじゃだめよ。」
というようなことを言われるお母さんもいらっしゃるのではないでしょうか。

 これは、子供たちにとっては心外な話です。自分の友だちに何てことを言うんだという気になるかもしれません。親に対する不信感が出てくる場合もあるでしょう。また、反面、親の言うことを良く聞く子であれば、対人関係が消極的になってくるかもしれません。

 友だちは大いにこしたことはないし、誰とでもつきあっていけるような陽気さは、人間的な魅力の源でもあります。もちろん、遊んでいるうちに、悪いことをやる場合もあるかもしれませんが、それはそれで勉強。悪いことは悪いと、きちんと教えることの方が大事ではないかと思います。それに、悪いことをきちんと教えていけば、子供自身にも防衛する力が出てきますから、そういうことに関わらなくなってきます。

 親は子供を保護する立場から、いろいろな心配をします。心配は、決してなくなりませんから、心配すればするほどそれは不安につながっていきます。したがって余計なお世話が始まる可能性があるのです。

 子供にはいろいろな経験が必要です。友だちづきあいはその最たるものであって、その中で子供たちはいろいろな勉強をしていきます。しかし、子供のころにそういう経験がなければ、社会に出て困ることも多くなるでしょう。

 最近、ひきこもりという現象が話題になっています。子供たちはテレビもあれば、パソコンも、テレビゲームもあるので、一人、自分の部屋の中で多くの時間を過ごすことができます。それで十分に満足できる楽しみが用意されている以上、あえて面倒な人間関係にまきこまれなくてもいいと考えることも可能なのです。

 これは今までの歴史の中では、なかったことですから、親としては気をつけなければならないでしょう。だから、今はより一層、子供たちが積極的に友だちと遊ぶことを大事にしなければならないと思うのです。

 友だちがだれか?ということを詮索するよりも、まず大いに友だちと遊んでもらうということを心がけてください。その中で子供たちはいろいろな経験をするでしょう。失敗もするでしょうが、その失敗からまた多くを学べばよいのです。

 でも、消極的な子供もいます。なかなか子供たちの輪に入っていけない子もいるのです。
以前、夏合宿にでかけたときのことです。自由時間に昆虫採集をしてよいということになって、私はそのグループの監視役でいっしょにでかけました。夏のスキー場は、以外に多くの蝶やバッタがいます。大きく見渡すことのできるゲレンデに出たので、私は子供たちに自由に昆虫採集をはじめていいよと言い、自分は岩の上にこしかけて、子供たちの様子をみていました。子供たちはみな、思い思いにグループになって、昆虫を追いかけ始めたのです。しばらくして、ふとひとりの男の子が目にとまりました。A君は5年生ですが、クラスでも目立たないタイプの子です。積極的に子供たちの輪にはいっていけるタイプではありません。彼は網をもったまま、じっとしているのです。私は岩をおりて、彼のところに行きました。
「どうした?昆虫採集はしないのかい?」
「ううん、やるんだけど。」
と言いながらも、彼は動こうとはしません。おかしいなと思いました。彼が昆虫採集をしたことがないはずがありません。むしろ生物は好きな方です。ふと、思い当たるふしがありました。彼の班は6人なのですが、どうも、彼はその中に友だちがいないようで、部屋の中にいても、一人でマンガを読んでいたりしたのです。
「そうか、じゃ、いっしょにやろう。」
私は彼の網を貸してもらい、彼に虫かごを持たせ、歩き始めました。
「何がほしい?」
「バッタがいい。」
「そうか、バッタだな。」
夏のゲレンデにはバッタはたくさんいます。それほどの時間もかからず、彼の虫かごには7匹から8匹のバッタが入りました。ところが、私が彼といっしょに、虫取りをやっているのを見たほかの子供たちが、回りに集まり始めたのです。
「先生、何とってんの?」
「バッタ。」
「へえ、見せてよ。」
何人かの子供たちがA君のまわりに集まりました。
「すげえ、いっぱいいる。」
「これ、どうすんだ?東京に帰る前に死んじゃうぜ。」
とA君は、
「ううん、飼うんだよ。えさをやれば、大丈夫じゃないかな。」
と話始めたのです。私の思ったとおり、彼は虫が好きだったのです。だから、いろいろな知識を持っていたので、バッタの飼い方をその場でほかの子供たちに説明していました。
「そうか、なるほどね。よし、俺もバッタとろう。」
「なあ、な、いっしょにとろうぜ。教えてよ、バッタのえさは何?」
その間も私はバッタをおいかけていたのですが、気がつけば、彼の周りには5~6人の子供たちがいて、その中には彼の班の子供もいました。
「ほい、今度は君の番だよ。」
私はA君に網を渡しました。その顔はさっきまでとは大違いです。
「先生、キュウリ、どこかにある?」
とA君。
「あるんじゃない?ホテルの食堂の人に頼んでみたら?」
「やった!じゃ、どんどん、とろうぜ。よし、行こうぜ」
と回りに集まった子供たちにひっぱられて、彼はバッタ取りにでかけていきました。

 その晩、彼の部屋に見回りに行くと、彼の虫かごにはていねいに、えさや土が入れられて、その回りでその班の子供たちが、バッタの様子を見ています。
 子供たちが、バッタのことを聞くたびに、A君はにこにこしながら、答えていました。
もう大丈夫でしょう。彼にとって、この合宿はとても楽しいものになるに違いありません。

 たいしたきっかけではなくとも、子供たちが積極的な気持ちになれば、友だちはたくさんできていきます。そういう意味で、親が気をつけなければいけないことは、子供が友だち付き合いに消極的にならないようにすることなのです。今の子供たちはテレビゲームでもマンガでも、ひとりで遊べるものをたくさん持っている分、友だち付き合いに対して消極的であっても、あまり困らないのです。ですから、
「何々ちゃんと遊んではいけない」
のような、話はしないで、むしろ元気よく友だちと遊びにいけるような雰囲気を作っていただきたいと思います。
コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お泊まり

 子供を人の家に泊まらせることは、これも非常に大切なことです。最初はおじいちゃんやおばあちゃんの家に泊まることから始まるのでしょうが、最近は核家族化が進んでいますから、普段とは違った環境で生活させることはとても大切です。だんだん大きくなってきたら、親は泊まらずに子供だけで泊まらせるようにすると良いでしょう。そしてできれば、おじさんやおばさんの家に泊まらせてもらうともっと良い経験になると思います。おじいちゃん、おばあちゃんはどうしても孫のいうことを聞いてしまいがちです。ですから、もう少し厳しくしてくれる、おじさんやおばさんの家に泊まらせてもらえれば、子供たちはいろいろなことを経験できます。

 かわいい子には旅をさせよと昔の人はよく言いましたが、子供には社会にでるまでの間に、いろいろな苦労をさせた方がよいのです。当然、社会に出てからも苦労はするでしょうが、自分の思うとおりにならないのが、世の中の常ですから、それに対応できる力はつけておかなければなりません。

 この前テレビを見ていたら、子供がキレル原因のかなりの部分は幼少期にきちんとしたがまんをする練習をしていないことによると専門家の方がいっておられました。最近の子供たちは少子化に伴って、どんどんわがままになってきています。ほしいものは簡単に手に入ります。お誕生日もあるし、クリスマスもお正月もありますから、ほしいものを手にいれるチャンスは多いのです。ところが社会に出て行くと、そう簡単に自分のほしいものは手にはいりません。そのギャップに耐えられないと、本人はとても苦しくなります。

 子供にがまんを教えること、これは幼少期の教育の中で、とても大切なことです。私は塾で、受験学年になるとまず子供たちにがまんすることを説きました。遊びにも行きたいだろう、テレビゲームもやりたいだろう、しかし受験の準備もしなければならない。与えられた時間は決まっているのだから、優先順位を決めなければならない。その順番を考えることから始めます。

 当然受験学年ですから、受験準備を優先します。ここでがんばるしかないからです。子供たちにとって、あまり楽しくない話かもしれません。しかし、ここで消極的な気持ちにさせてしまうと、どうしてもつらくなります。つらいと感じる自分は、弱くなります。自分が消極的な態度でがまんしていると、多少つらいなと感じるときに、どうしても自分がかわいそうになってきます。そして、その原因を他人に求めてしまいがちです。

「お母さんがやれといったから、やったんだ。僕はかわいそうだ。」

こういう気持ちになっている子供は、なかなか努力できません。ですから、最初に子供に自覚させる必要があるのです。



「受験勉強をすれば、遊びもテレビゲームも我慢しなければいけない。しかしもし合格できたら、少なくとも6年間は受験がないだろう。その間に自分の好きな道をみつけることができる。でもここで受験しなければ、今は遊べるけれど、高校受験をすることになるので、3年おきに受験があることになる。それはどちらでもかまわないが、中学だけ募集して、高校は募集していない学校も多い。さて、どうする?」



 中学受験が最善の道ではありません。実際に精神年齢があまりにも幼ければ、受験を高校にまわす場合があります。本人がある程度、きちんとがまんできて、自分のやらなければならないことをこなすことができないからです。

せっかく塾にはいってもらったけれど、それができなくてやめてもらった子供もすくなくありません。



 子供が小学校の3年生か4年生になったら、どんどん外に出してあげるとよいでしょう。田舎のおじさんの家に泊めてもらうのもよいし、あるいは友達の家に泊めてもらうのもよいかもしれません。ボーイスカウトやスポーツクラブの合宿という手もあるでしょう。とにかく親がついていない状態で子供たちに生活させるのです。家と同じわけにいきませんから、当然子供たちにもストレスがあります。が,一方でそれを我慢することで、もう一回り大きく成長するのです。



 他人の家に預けてしまうのは、ある意味大変いい経験です。私は父が病気をしたので、高校1年の時、2ヶ月あまり、知り合いの家に預けられました。これは大変、自分の中の成長には役立ったと思います。下宿しているわけですから、預かってくださる家に迷惑はかけられません。でも大変心やさしい一家でしたから、いろいろと気を使ってくださいます。ですから、逆にこちらも気を使わなければいけなくなるわけで、そういう経験がひとつ、またひとつ状況に対応できる力がついてくるわけです。



 父は幸い、退院できましたが、あの生活が続くと私の考え方もまた幅が広がったのかもしれません。そこまで長い生活が無理でも、1泊や2泊のおとまりはどんどんさせてあげるといいでしょう。

 もちろん事情が許す限り、ほかの子供を預かってあげてください。これはこれで親は大変勉強になります。いかに自分の子供に親が甘えているのかということが、おわかりになると思います。


  
コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本を読む

「先生、うちの子、本当に本を読まないんです。」
とよく、お母さんに言われました。
「お母さんは読んでらっしゃいますか?」
とたずねると、この話はだいたいここでおしまいになります。

 さて、本を読むという習慣は今の子どもたちには難しくなってきました。テレビもコンピューターもある時代に、本から情報を集めるということは果たして有効なのだろうかという気がしなくもありませんが、しかし、国語力という意味では読書は大事な要素です。やはり本を読んでくれるにこしたことはありません。

 受験的にいうと、国語力には3つの力があります。1つ目は読む力、2つ目は考える力、3つ目は書く力です。この3つが伴って成長しないと国語力は身につきません。だから本をよく読む子どもが国語ができるとは限らないのです。ただ読むだけではだめなのです。でも小さいころから本を読む習慣をつけておくことは大切です。これは小学校の高学年になるとなかなか変わりません。(でも、中学生や高校生になって目覚める子どももいますから、あきらめることでもありませんが。)こればかりは小さいうちに親が努力すると、ほとんどといっていいほど子供は本を読むようになります。

 読書は習慣です。ですから、そういう環境に置けばよいのです。私がお勧めしていたのは、とにかく図書館に通うことでした。最近の図書館は子どもの本にずいぶん力をいれてくれています。家の近くの図書館も子どもの本がたくさんおいてあります。週に1度はそこに子どもをつれていって、しばらく置いておきます。すると本を選ぶしかありませんから、いろいろ本を探します。

 このとき、「これはいけない。」「あれにしなさい。」ということは一切口にしてはいけません。やがて子どもたちは何冊か選ぶでしょう。親も何冊か自分の好きな本を選んで帰ってきます。そしてあとは、食堂で好き勝手に読むのです。そして感想文なんて面倒なので、「どうだった?」とたずねて、子どもの話を聞いてあげてください。お母さんも自分の読んだ本の話をしてあげてほしいのです。

 こういう努力をされたお母さんは、意外に多いのですが、でも失敗されたケースも少なくありません。どうしてうまくいかなかったのかというと、読む本に注文をつけたからです。

 たとえば、子供たちが最初に好きになるのは推理小説でしょう。私の子供のころも少年探偵団に始まって、金田一やホームズがヒーローでした。だからよく推理小説を読んでいましたが、だいたいこういうのを母親は好みません。
「推理小説はだめよ。夏目漱石にしなさい。試験にでるから。」
トトト・・・・。
これでは子供は読書が習慣になりません。推理小説は決して悪くないのです。良く力は確実につきますし、夢中になって読みますから、あっという間に終わります。そうやっていくうちに、違うものも薦めてみればよいのです。

 基本的に、私は子供たちが読みたいものを読めばよいと思っていました。私は子供のころから本が好きでしたが、何かを読めといわれると、あまり読みたくなかった記憶があります。ところが本を買うという話になると、たくさん本を買わなければいけないので、親の方に余裕がなくなります。勢い、
「それは買わない!」
ということになって、子供たちは読みたい本を読めなくなるわけです。読みたい本を読めなければ本を読むことがおもしろくはなくなりますから、読書の習慣もまたつかなくなります。

 経済的なことを考えずに、好きな本を読ませるのには図書館を利用するのが一番なのです。私も時々、子供たちをいっしょに図書館に行きますが、入り口まではいっしょ、後は完全に別行動です。私は私で好きな本を選び、子供たちは子供たちで好きな本を選ぶ、2~30分たったら集合で、あとはいっしょに帰ってきて、何を借りたかを話すくらいなのですが、子供たちが借りてきたものに、文句をつけたことは一度もありません。だって自分が選んだ本にいちいち文句いわれたら、腹がたつに決まってます。言われていやなことは、子供にはいいません。

 ただ、図書館に行こうと誘うことはよくあります。私の努力はそれだけです。(努力とはいえませんね。私も私でただ図書館に行きたいというだけですから。)でも早くからこういう習慣をつけていると、中学年くらいから、もう勝手に図書館に行ってくれるようになります。

くどいようですが、でも本を読むだけで国語の力はつきません。わが息子はこのように小さいときからずいぶん本を読んでいましたが、国語の点数はぼろぼろでした。本を読むのは好きでも、それだけで国語の点数が良くはなりません。

コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前ページ