はじめてものの本で、胎息という言葉に出会った時には、その呼吸について具体的なことは書かれてはいませんでしたので。よく分かりませんでした。 ネットで検索すると、特別な呼吸法である旨のことのように、取り上げられていました。
私は我流で、子供の頃に行なっていた深呼吸で、大きく吸ってゆっくり吐く呼吸を思い出し、ただひたすら出来るだけ長く息を吐いていました。 吐く時に出来るだけ長く吐こうとすると、自然と体の中へ吐いていたのかもしれません。
また極真空手の創始者の大山倍達の映画「空手バカ一」を思い出し、演武で吐く息を息音をたてながら吐いていました。 そんなことも絡めて、出来るだけ息を長く吐き、吐く息を体の中へ吐き、吐く息を追うようにしてそのことだけに意識を集中して、ひたすら普通の胡座を組んでいました。
私の呼吸法が、逆腹式呼吸の亜流であることは、後で分かったことでした。
大きく息を吸う時には、胸は拡がり下腹は凹みます。 息を吐く時には胸も下腹も、元の大きさに戻ります。 息を吐く時には、下腹に向けて息を吐いて来ました。
はじめは自分自身で体の中へ息が入って行くのを実感するために、息音がよく聞こえるように、出来るだけ長く吐いていました。 ある時期から今度は一転して、出来るだけ静かに、殆ど息音が聴こえないように吐いていました。
出来るだけ静かに吐いていますと、息をしているかどうか自分でも分からなくなってきます。 そんな時に「胎息」という言葉に出会ったのです。 しばらくは、どんな呼吸の仕方かわからなかったのですが、ひょっとして肺呼吸を止める気の呼吸法ではないかと、考えたのです。
生物は、酸素が存在していなかった時代には、宇宙に無尽蔵にある宇宙エネルギーである気を吸いながら、静かに生きていたのではないかとも感じたのです。 現実に、猫や犬や、植物までもが、気の通る道の経絡があることが、知られています。
私は生まれて初めて静功(座禅)を行なって1ヶ月半で、下腹にある臍下丹田という気の心臓が、活性化し鼓動をはじめていましたので、思い切って息を止めてみたのです。
長い間、息を止めることができましたが、胎息を止め肺呼吸を行おうとした時に、息苦しさを感じたのでした。 私は、その息苦しさの感覚こそ、私たちがお母さんのお腹から生まれでた時に発する「オギャー」という泣き声ではないかとも感じたのです。
私自身は、ある意味ではスムーズに、又は試行錯誤しながら、私たちに誰もが、お母さんのお腹の中にいた時に行なっていたであろう胎息にたどり着いたのです。 このことから私は、息を吸う時には下腹の丹田は気を吐き、息を吐く時には丹田は気を吸うのではないか、その呼吸の行い方が、自然ではないかと思ったのです。
私たちは、胎内にいた時には胎息を行いながら生長し、生まれでた瞬間から下腹を凸凹させる腹式呼吸を通して、最終的には肺呼吸に至っているのです。 私は、結果的にその逆を行なって、胎息にたどり着きました。
たまたま私が行なってきた我流の逆腹式呼吸は、自然の流れ、動きに基づいた呼吸の仕方ではなかったのかと思っています。
残念ながら巷では、順腹式呼吸や丹田呼吸が、下腹の臍下丹田を肺や心臓と同じような感覚で考えてしまっているのです。 肺の呼吸と丹田の呼吸は、表と裏の関係であるということを忘れてしまっているので、なかなか胎息にはたどり着けないのです。 そのために胎息を神秘的なもの、特別なものと捉えてしまっていると、思えてならないのです。
呼吸の仕方さえ間違えなければ、誰でもが胎息にたどり着けるはずです。 私は胎息を行うことによって、「無心」「無欲」に還るとも思っています。