ようやく、書くゆとりができました。どこまで書いたか忘れてしまいそうでした・・・。
今日は久しぶりの雨。朝降り始めた頃の「遊水地」?屋根から雨落溝に落ちた雨水は、初めのうちは溝内で浸みこみますが、それを越えた分の雨水は一旦この小さな池に。そこから浸透管で地下浸透。ここ一月雨がなかったので、池の水も緑色になっていた。ヒメスイレンの葉も少し傷んでしまった。しかし、主の蛙クンは元気。二匹います。一匹だけ顔をだしていました。
******************************************************************************************
[註記追加 9日 08.38][註記追加 9日 08.51][文言変更 9日 13.26]
さて、「品質確保法」では、「住宅の品質の確保」のため、「住宅の性能」を次の九つの事項にまとめています。
①構造の安定に関すること、②火災時の安全に関すること、③劣化の軽減に関すること、④維持管理への配慮に関すること、⑤温熱環境に関すること、⑥空気環境に関すること、⑦光・視環境に関すること、⑧音環境に関すること、⑨高齢者等への配慮に関すること。
ここで気をつけなければならないのは、「住宅の『品質』」「住宅の『性能』」という言葉です。
『品質』とは、「(良・不良が問題になる)品物の性質」(新明解国語辞典)のこと。したがって、「住宅の品質」とは、簡単に言えば、その住宅が良品か不良品か、ということになり、一応納得のゆく文言です。
問題は「住宅の性能」の方。
『性能』とはどういうことを言うのでしょうか。
法令の施行にあたって、この点について、明確な説明、解説があったようには、私は記憶しておりません。
建築関係の用語には、「断熱」「耐震」など、最近のCMでも使われないような「誤まったイメージを与える」語がきわめて多く見られますが、「住宅の性能」もその系譜に入るのではないか、と私は思っています。
註 「断熱」の語の字義は、「熱を断つ」ということ。
したがって、「断熱材」とは「熱を断つ(ことのできる)材料」
建築関係者には、そういう材料があると思っている人がかなり多い。
「耐震」の語の字義は、「地震に耐える」ということ。
一般の人が、「耐震建築」とは「いかなる地震にも耐える建物」と理解して当たり前。
建築関係者は、「この程度の地震には耐える(はずだ)」という意味に使う。
そこで齟齬を来たす。
「科学的である」ことを標榜する割には、建築関係者は「科学的ではない」語、文言を平気でよく使う。
最近のCMのように、「これは、使用者の(個人的)用語です」という「ことわり」が必要なのかもしれない。
本当のことを言えば、これら九つの「性能項目」は、何のことはない、現在の「建築にかかわる研究者」の「主たる研究分野」に過ぎない、それを列記しただけだ、と思っています(ないのは「歴史」分野だけ・・・。まことに象徴的です)。
私は、私が理解している「性能」という語の意味から見て、これらの項目を「住宅の性能」と呼ぶことに多大な疑義を感じます。
もっとも、法令案を審議する国会で、そういう疑義・異議は、まったくなかったように思いますが・・・。
いったい、「性能」とはどういう意味か。
「広辞苑」の最新版から引用すると次のようになります。
① 本来的に備わっている精神的・身体的な能力。
② 機械などの性質と能力。
一版前の「広辞苑」では
① 精神的および身体的な行為をする能力。
② 機械などの性質と能力。
「新明解国語辞典」では
(機械などの)使用目的に合うように発揮される能力。
当然ながら、建築法令のいう「性能」は「広辞苑」の示す①ではないことは明らかです。「広辞苑」の解釈をとれば「機械などの性質と能力」、「新明解国語辞典」の解釈ならば「使用目的に合うように発揮される能力」ということになります。
問題は、「(機械などの)「性質と能力」あるいは「(機械などの)使用目的」を、「日本住宅性能表示基準」ではどのように見ているか、どのように定義しているか、つまり、どのようなものとして考えているか、にかかってきます。
しかし、この点についても、明確な解説は示されていない。何となく「性能」で片づけている、としか思えません。
あえて言えば、「性能」という「聞こえのいい」言葉を使った、「断熱」などと同列の、建築系の人びとに多い用語法の「典型」の一つに過ぎない。
本当は、「性能」の中味、何をもって「性能」と言っているのか、開示する必要があるのです。しかし、ない。
ところで、自動車のカタログに、「自動車の性能」という言葉が出てくるでしょうか。
自動車の場合、「性能」は、「エンジンの性能」、「ブレーキの性能(制動距離で表示)」「燃費性能」・・・などと「分けて」使われています。
すなわちこれは、辞典が言う「性能」が、その通りに使われていることになります。「自動車の性能」という言い方はされていないのです。
ましてや、自動車業界に「日本自動車性能基準」なんてものはない。そんなことを言ったら、完全にコケにされるでしょう。
註 コケ:虚仮
①事実の裏付けが無く、空虚であること。②ものの見方・考え方などに、大事な点で
何かが一本抜けていること(人)。[新明解国語辞典]
当たり前です。
「品質確保法」が唱える九つの項目の「住宅性能評価」が「すべて高い」ものは品質がよい、との「論」になぞらえて、これらの「エンジンの性能」・・・の「すべてがよい」車は「よい車」だ、と自動車の世界では言うでしょうか?
そんなことはありません。
「エンジン性能」がずば抜けてよいからと言って、自動車レースに出る人はそれを重視するかもしれませんが、その人でさえ、それを搭載した自動車が「普遍的に」「絶対的に」最も優れている、とは言わないでしょう。当たり前です。
どういう「エンジン性能」の車を選ぶかは、車を選ぶ人の「解釈」あるいは「意志」に委ねられているのです。
つまりそれぞれの項目の「性能」の評価は、人により異なる、それで当たり前、「絶対」は、ない。
では、「日本住宅性能基準」が挙げている上記の項目は、自動車のカタログに載っている諸種の「性能」と同じレベルの「概念」でしょうか?
これを知るには、この「日本住宅性能基準」をつくった人たちが、「住宅とは何か」、この点についてどのように考えているかを知らなければ分りません。
どこかに、そもそも「住宅とは何か」、解説してあるか。
まったく、どこにもありません。そこに、突如として、先の9項目が「日本住宅性能基準」として出てくるのです。
「住宅とは何か」なんて、そんなこと当たり前のことではないか、と思ってでもいるのかもしれません。
しかし、その9項目を見ると、本当に「住宅とは何か」考えているのか、疑いたくなります。
簡単に言えば、「当たり前」と考えているにしては、イイカゲンです。
もっと端的に言いましょう。
仮にこれら9個の項目の性能が最高の成績だったならば、その住宅は、住宅として最高の品質の住宅である、と一般の人びとを思わせてしまってもおかしくありません。
もちろん、そんなわけが、あるはずがありません。しかし、そう考えているらしい。
9個の項目の性能が最高だったならば、その住宅は最高の住宅なのか、そうでないのか、その「答」を、こういう基準の策定者は、少なくとも「例示」しなければなりません。
それは、この「性能表示制度」を、その真意を、広く知らしめるための最低の「義務」です。
しかし、まったくされていない。
むしろ、9項目を充たすことが、よい住宅の条件である、かのような「イメージ」を広めてしまっている。言うなれば、「誤解」、誤った理解を世に広めている。私はそのように思っています。
別の言い方をすれば、これは「思考統制」です。
註 たとえば、学校の教科すべての試験が満点ならば、その人は「最高の品質の」人間か?
世の中にはそう思うような人が増えているのは確か。
「住宅性能・・・」などというのを編み出す「頭脳」の持ち主は、
多分、そういう考えに慣れ親しんだ人に違いない。[註記追加 9日 08.38]
次の問題、この「制度」のおかしな点は、それぞれの項目ごとに、「数値化」した評点を与え、ランク付けすることです。
何度も書いてきたことですが、そして当たり前すぎるほど当たり前なことですが、
数値化というのは、数値化できるもの、数値化できるように「操作された」もの、しか数値化できません。
数値化されないもの、できないものは捨象されてしまうのです。
簡単に言えば、「存在する」が数値化できないから「存在しない」と見なす、ということです。
註 建築関係の研究は、その多くが、「数値化できるもの」に限られている、
あるいは、「数値化できないもの」は見捨てている、と言ってよいでしょう。
たとえば、①の「構造の安定に関すること」で言えば、その「判断基準」は、建築基準法の構造規定値をどの程度充たしているか、というもの。
この前提は、「法令の規定を充たす⇒構造が安定する」という「信念」に基づいている。
規定の何倍かを充たせば、性能評価がレベルアップ。
もっとも、そうやって、法令規定よりも大きな力をかけたら、十分耐えるべく「計算され」施工された「壊れることがない」はずの、つまり「品質が高い」はずの「長期優良住宅」が、「品質が低い」はずの建物より先に倒壊してしまった、というのが例の倒壊実験の結末。
さすがに責任を施工に押し付けることは出来ず、この現象に対して2000頁を超える一大報告書が出た。そしてここでも、お得意の「用語法」が使われる。両方「倒壊していた」という日本語の常識を疑うような結論が出た。
これもまた「これは、使用者の(個人的)用語です」という「ことわり」書きを付けなければならないような「倒壊」という語の使い方。
註 「倒壊」とは、「建造物が倒れてつぶれること」(新明解国語辞典)。
立っているかぎり、「倒壊」とは普通は言わない。
あの実験では、弱いはずの建物は、ずっと立っていた。
こういう例を見ると、「明解建築用語辞典」でも編みたくなります・・・。
この「事件」は何を意味しているか。
きわめて簡単です。
これが町場の仕事だったならば、設計・施工に問題があったという「結論」が出たにちがいありません。
しかし、これは、「斯界の偉い方がた」が「監修」して設計・施工された建物。
だから、この「現象」は、たとえ「斯界最高の人が計算し設計した」場合でも、「計算はあてにならない」ことがある、という「事実」を示しているのです。
一方、わが国に厳然として数百年存在し続けている建物は、いずれも建築基準法違反の建物。
そのため、「数百年安定している」にもかかわらず、無視されます。
「数百年安定している」建物が多数あるにもかかわらず、その「歴史的事実」をまったく説明できない「理論」に基づく「建築基準法」とは何ものなのか。
今、「説明できる」理論構築を、懸命になってやっているところだ・・・、という強弁が聞こえてきます。最近の「伝統的木造構法の実物大実験」がそれです。
しかし、それを言ったらオシマイよ・・・。
それは、現状の「理論」が、そして「建築基準法」は、「歴史的事実」さえも説明できないイイカゲンなものだったということの立派な「証」であり、そしてまた、あなた方が、貴重な「歴史的事実」を見てこなかったことの「証」なのだから(あなた方はいったい、どこの国に暮しているのだろう?)。
それをして、「理論」と言うのがおこがましい。
「わが国に厳然として数百年存在し続けている建物」が、この「日本住宅性能基準」に照らし合わせるならば、先ず「構造の安定」で「最低」の評点をもらう、それは、限りなくおかしい、と思うのが当たり前。
普通は、そのとき、「理論」そのものを疑うもの、しかしそうではない・・・!。
このような「評価項目」を並べて、それぞれに「評点・評価点」を与え、ランク付けをする・・・、こういう「発想」は、そういう「評価をする人」自身が、そういう人生を送ってきた、
そしてその結果、
(ようやっと)「人びとを見下すことのできる地位」に就いた、そこで、今度は人びとすべてをその「ランク付け」の世界に浸してやろう、と考えているのではないか?
と私などは思いたくなります。
つまり、先回書いた「偏差値」「ランク付け」に染まってしまい脱け出せない「エリート」の方がた。もちろん、私の世代にも、その「先がけ」の人たちはいますが・・・。
いちばん困ってしまうのは、数値化できる=分った、と思い込むことです。
逆に言うと、数値化できない=いいかげんで、存在してはならないもの、という理解になってしまうことです。
大事なのは、世の中には数値化できないものがある、
しかも、そういう事象・現象の方が、数値化できるものよりもはるかに多い、という事実を認識することです。
こういう点では、物理学者の方が数等分っている。
分っていない典型が建築関係の研究者。あいかわらず数値化こそすべて、という考え。それは、「数値化教」とでも言うべき信仰に近い。
かつての人びと、いろいろな「学問」「学」が存在しなかった頃に生きた人びとは、
自らの日常のいろいろな事象の観察を通して、いろいろな「事実」を認識し、それに基づき行動をしていた、と考えてよいでしょう。
建物づくりにおいても、同じです。
自然界を観て、そしてまたいろいろな試行を繰り返すなかから、「どうすればよいか」を見つけ出し、建物づくりがうまくなった。
誰かに教えられてそういう「知見」を得たのではありません。
もちろん、そういうこともあったでしょうが、その際でも、教えられる側に「意志」がなければ定着しません。
つまり、人びとは皆、日常的に「観察」と「認識」を積み重ね、ものごとが「分る」ようになっていったのです。
そして、実は、いわゆる「学」も、そこから始まった、という歴史的事実をも私たちは知らねばならないと思います。
なぜなら、現在に暮す私たちは、得てして、先ず「学」ありき、になってしまい、自らの「観察」~「認識」そして「分る」という過程を省略しがちになっているように思えるからです。
ですから、「住宅性能表示」「住宅性能評価」などの設定は、ますます、私たち自らの「観察」、「認識」そして「分る」という営みを、法律の名の下で、認めない・否定することに連なるきわめて怖ろしいことなのです。
なぜこうまでして人びと自らの思考を消したがるのでしょう。
註 それとも、「法律」がすべての尺度であって、日常の暮しでは、
その尺度に合っているかどうかを「観察」し、その尺度との差を「認識」し、
自分がいかに「法律」に適合するか、しないかが「分る」、それでいいのだ、
というのが法治国家である、とでも言うのでしょうか。[文言変更 9日 13.26]
たしかに私たちの中にも、「学」や「法」を先ず「観察」し、
「学」や「法」を「認識」することをもって、「分った」とする方がたも居られます。
その人たちには、目の前の事象は見えない。見たくないのです、きっと・・・。[註記追加 9日 08.51]
私はこのように思いますが、皆様はどのようにお考えですか。
今日は久しぶりの雨。朝降り始めた頃の「遊水地」?屋根から雨落溝に落ちた雨水は、初めのうちは溝内で浸みこみますが、それを越えた分の雨水は一旦この小さな池に。そこから浸透管で地下浸透。ここ一月雨がなかったので、池の水も緑色になっていた。ヒメスイレンの葉も少し傷んでしまった。しかし、主の蛙クンは元気。二匹います。一匹だけ顔をだしていました。
******************************************************************************************
[註記追加 9日 08.38][註記追加 9日 08.51][文言変更 9日 13.26]
さて、「品質確保法」では、「住宅の品質の確保」のため、「住宅の性能」を次の九つの事項にまとめています。
①構造の安定に関すること、②火災時の安全に関すること、③劣化の軽減に関すること、④維持管理への配慮に関すること、⑤温熱環境に関すること、⑥空気環境に関すること、⑦光・視環境に関すること、⑧音環境に関すること、⑨高齢者等への配慮に関すること。
ここで気をつけなければならないのは、「住宅の『品質』」「住宅の『性能』」という言葉です。
『品質』とは、「(良・不良が問題になる)品物の性質」(新明解国語辞典)のこと。したがって、「住宅の品質」とは、簡単に言えば、その住宅が良品か不良品か、ということになり、一応納得のゆく文言です。
問題は「住宅の性能」の方。
『性能』とはどういうことを言うのでしょうか。
法令の施行にあたって、この点について、明確な説明、解説があったようには、私は記憶しておりません。
建築関係の用語には、「断熱」「耐震」など、最近のCMでも使われないような「誤まったイメージを与える」語がきわめて多く見られますが、「住宅の性能」もその系譜に入るのではないか、と私は思っています。
註 「断熱」の語の字義は、「熱を断つ」ということ。
したがって、「断熱材」とは「熱を断つ(ことのできる)材料」
建築関係者には、そういう材料があると思っている人がかなり多い。
「耐震」の語の字義は、「地震に耐える」ということ。
一般の人が、「耐震建築」とは「いかなる地震にも耐える建物」と理解して当たり前。
建築関係者は、「この程度の地震には耐える(はずだ)」という意味に使う。
そこで齟齬を来たす。
「科学的である」ことを標榜する割には、建築関係者は「科学的ではない」語、文言を平気でよく使う。
最近のCMのように、「これは、使用者の(個人的)用語です」という「ことわり」が必要なのかもしれない。
本当のことを言えば、これら九つの「性能項目」は、何のことはない、現在の「建築にかかわる研究者」の「主たる研究分野」に過ぎない、それを列記しただけだ、と思っています(ないのは「歴史」分野だけ・・・。まことに象徴的です)。
私は、私が理解している「性能」という語の意味から見て、これらの項目を「住宅の性能」と呼ぶことに多大な疑義を感じます。
もっとも、法令案を審議する国会で、そういう疑義・異議は、まったくなかったように思いますが・・・。
いったい、「性能」とはどういう意味か。
「広辞苑」の最新版から引用すると次のようになります。
① 本来的に備わっている精神的・身体的な能力。
② 機械などの性質と能力。
一版前の「広辞苑」では
① 精神的および身体的な行為をする能力。
② 機械などの性質と能力。
「新明解国語辞典」では
(機械などの)使用目的に合うように発揮される能力。
当然ながら、建築法令のいう「性能」は「広辞苑」の示す①ではないことは明らかです。「広辞苑」の解釈をとれば「機械などの性質と能力」、「新明解国語辞典」の解釈ならば「使用目的に合うように発揮される能力」ということになります。
問題は、「(機械などの)「性質と能力」あるいは「(機械などの)使用目的」を、「日本住宅性能表示基準」ではどのように見ているか、どのように定義しているか、つまり、どのようなものとして考えているか、にかかってきます。
しかし、この点についても、明確な解説は示されていない。何となく「性能」で片づけている、としか思えません。
あえて言えば、「性能」という「聞こえのいい」言葉を使った、「断熱」などと同列の、建築系の人びとに多い用語法の「典型」の一つに過ぎない。
本当は、「性能」の中味、何をもって「性能」と言っているのか、開示する必要があるのです。しかし、ない。
ところで、自動車のカタログに、「自動車の性能」という言葉が出てくるでしょうか。
自動車の場合、「性能」は、「エンジンの性能」、「ブレーキの性能(制動距離で表示)」「燃費性能」・・・などと「分けて」使われています。
すなわちこれは、辞典が言う「性能」が、その通りに使われていることになります。「自動車の性能」という言い方はされていないのです。
ましてや、自動車業界に「日本自動車性能基準」なんてものはない。そんなことを言ったら、完全にコケにされるでしょう。
註 コケ:虚仮
①事実の裏付けが無く、空虚であること。②ものの見方・考え方などに、大事な点で
何かが一本抜けていること(人)。[新明解国語辞典]
当たり前です。
「品質確保法」が唱える九つの項目の「住宅性能評価」が「すべて高い」ものは品質がよい、との「論」になぞらえて、これらの「エンジンの性能」・・・の「すべてがよい」車は「よい車」だ、と自動車の世界では言うでしょうか?
そんなことはありません。
「エンジン性能」がずば抜けてよいからと言って、自動車レースに出る人はそれを重視するかもしれませんが、その人でさえ、それを搭載した自動車が「普遍的に」「絶対的に」最も優れている、とは言わないでしょう。当たり前です。
どういう「エンジン性能」の車を選ぶかは、車を選ぶ人の「解釈」あるいは「意志」に委ねられているのです。
つまりそれぞれの項目の「性能」の評価は、人により異なる、それで当たり前、「絶対」は、ない。
では、「日本住宅性能基準」が挙げている上記の項目は、自動車のカタログに載っている諸種の「性能」と同じレベルの「概念」でしょうか?
これを知るには、この「日本住宅性能基準」をつくった人たちが、「住宅とは何か」、この点についてどのように考えているかを知らなければ分りません。
どこかに、そもそも「住宅とは何か」、解説してあるか。
まったく、どこにもありません。そこに、突如として、先の9項目が「日本住宅性能基準」として出てくるのです。
「住宅とは何か」なんて、そんなこと当たり前のことではないか、と思ってでもいるのかもしれません。
しかし、その9項目を見ると、本当に「住宅とは何か」考えているのか、疑いたくなります。
簡単に言えば、「当たり前」と考えているにしては、イイカゲンです。
もっと端的に言いましょう。
仮にこれら9個の項目の性能が最高の成績だったならば、その住宅は、住宅として最高の品質の住宅である、と一般の人びとを思わせてしまってもおかしくありません。
もちろん、そんなわけが、あるはずがありません。しかし、そう考えているらしい。
9個の項目の性能が最高だったならば、その住宅は最高の住宅なのか、そうでないのか、その「答」を、こういう基準の策定者は、少なくとも「例示」しなければなりません。
それは、この「性能表示制度」を、その真意を、広く知らしめるための最低の「義務」です。
しかし、まったくされていない。
むしろ、9項目を充たすことが、よい住宅の条件である、かのような「イメージ」を広めてしまっている。言うなれば、「誤解」、誤った理解を世に広めている。私はそのように思っています。
別の言い方をすれば、これは「思考統制」です。
註 たとえば、学校の教科すべての試験が満点ならば、その人は「最高の品質の」人間か?
世の中にはそう思うような人が増えているのは確か。
「住宅性能・・・」などというのを編み出す「頭脳」の持ち主は、
多分、そういう考えに慣れ親しんだ人に違いない。[註記追加 9日 08.38]
次の問題、この「制度」のおかしな点は、それぞれの項目ごとに、「数値化」した評点を与え、ランク付けすることです。
何度も書いてきたことですが、そして当たり前すぎるほど当たり前なことですが、
数値化というのは、数値化できるもの、数値化できるように「操作された」もの、しか数値化できません。
数値化されないもの、できないものは捨象されてしまうのです。
簡単に言えば、「存在する」が数値化できないから「存在しない」と見なす、ということです。
註 建築関係の研究は、その多くが、「数値化できるもの」に限られている、
あるいは、「数値化できないもの」は見捨てている、と言ってよいでしょう。
たとえば、①の「構造の安定に関すること」で言えば、その「判断基準」は、建築基準法の構造規定値をどの程度充たしているか、というもの。
この前提は、「法令の規定を充たす⇒構造が安定する」という「信念」に基づいている。
規定の何倍かを充たせば、性能評価がレベルアップ。
もっとも、そうやって、法令規定よりも大きな力をかけたら、十分耐えるべく「計算され」施工された「壊れることがない」はずの、つまり「品質が高い」はずの「長期優良住宅」が、「品質が低い」はずの建物より先に倒壊してしまった、というのが例の倒壊実験の結末。
さすがに責任を施工に押し付けることは出来ず、この現象に対して2000頁を超える一大報告書が出た。そしてここでも、お得意の「用語法」が使われる。両方「倒壊していた」という日本語の常識を疑うような結論が出た。
これもまた「これは、使用者の(個人的)用語です」という「ことわり」書きを付けなければならないような「倒壊」という語の使い方。
註 「倒壊」とは、「建造物が倒れてつぶれること」(新明解国語辞典)。
立っているかぎり、「倒壊」とは普通は言わない。
あの実験では、弱いはずの建物は、ずっと立っていた。
こういう例を見ると、「明解建築用語辞典」でも編みたくなります・・・。
この「事件」は何を意味しているか。
きわめて簡単です。
これが町場の仕事だったならば、設計・施工に問題があったという「結論」が出たにちがいありません。
しかし、これは、「斯界の偉い方がた」が「監修」して設計・施工された建物。
だから、この「現象」は、たとえ「斯界最高の人が計算し設計した」場合でも、「計算はあてにならない」ことがある、という「事実」を示しているのです。
一方、わが国に厳然として数百年存在し続けている建物は、いずれも建築基準法違反の建物。
そのため、「数百年安定している」にもかかわらず、無視されます。
「数百年安定している」建物が多数あるにもかかわらず、その「歴史的事実」をまったく説明できない「理論」に基づく「建築基準法」とは何ものなのか。
今、「説明できる」理論構築を、懸命になってやっているところだ・・・、という強弁が聞こえてきます。最近の「伝統的木造構法の実物大実験」がそれです。
しかし、それを言ったらオシマイよ・・・。
それは、現状の「理論」が、そして「建築基準法」は、「歴史的事実」さえも説明できないイイカゲンなものだったということの立派な「証」であり、そしてまた、あなた方が、貴重な「歴史的事実」を見てこなかったことの「証」なのだから(あなた方はいったい、どこの国に暮しているのだろう?)。
それをして、「理論」と言うのがおこがましい。
「わが国に厳然として数百年存在し続けている建物」が、この「日本住宅性能基準」に照らし合わせるならば、先ず「構造の安定」で「最低」の評点をもらう、それは、限りなくおかしい、と思うのが当たり前。
普通は、そのとき、「理論」そのものを疑うもの、しかしそうではない・・・!。
このような「評価項目」を並べて、それぞれに「評点・評価点」を与え、ランク付けをする・・・、こういう「発想」は、そういう「評価をする人」自身が、そういう人生を送ってきた、
そしてその結果、
(ようやっと)「人びとを見下すことのできる地位」に就いた、そこで、今度は人びとすべてをその「ランク付け」の世界に浸してやろう、と考えているのではないか?
と私などは思いたくなります。
つまり、先回書いた「偏差値」「ランク付け」に染まってしまい脱け出せない「エリート」の方がた。もちろん、私の世代にも、その「先がけ」の人たちはいますが・・・。
いちばん困ってしまうのは、数値化できる=分った、と思い込むことです。
逆に言うと、数値化できない=いいかげんで、存在してはならないもの、という理解になってしまうことです。
大事なのは、世の中には数値化できないものがある、
しかも、そういう事象・現象の方が、数値化できるものよりもはるかに多い、という事実を認識することです。
こういう点では、物理学者の方が数等分っている。
分っていない典型が建築関係の研究者。あいかわらず数値化こそすべて、という考え。それは、「数値化教」とでも言うべき信仰に近い。
かつての人びと、いろいろな「学問」「学」が存在しなかった頃に生きた人びとは、
自らの日常のいろいろな事象の観察を通して、いろいろな「事実」を認識し、それに基づき行動をしていた、と考えてよいでしょう。
建物づくりにおいても、同じです。
自然界を観て、そしてまたいろいろな試行を繰り返すなかから、「どうすればよいか」を見つけ出し、建物づくりがうまくなった。
誰かに教えられてそういう「知見」を得たのではありません。
もちろん、そういうこともあったでしょうが、その際でも、教えられる側に「意志」がなければ定着しません。
つまり、人びとは皆、日常的に「観察」と「認識」を積み重ね、ものごとが「分る」ようになっていったのです。
そして、実は、いわゆる「学」も、そこから始まった、という歴史的事実をも私たちは知らねばならないと思います。
なぜなら、現在に暮す私たちは、得てして、先ず「学」ありき、になってしまい、自らの「観察」~「認識」そして「分る」という過程を省略しがちになっているように思えるからです。
ですから、「住宅性能表示」「住宅性能評価」などの設定は、ますます、私たち自らの「観察」、「認識」そして「分る」という営みを、法律の名の下で、認めない・否定することに連なるきわめて怖ろしいことなのです。
なぜこうまでして人びと自らの思考を消したがるのでしょう。
註 それとも、「法律」がすべての尺度であって、日常の暮しでは、
その尺度に合っているかどうかを「観察」し、その尺度との差を「認識」し、
自分がいかに「法律」に適合するか、しないかが「分る」、それでいいのだ、
というのが法治国家である、とでも言うのでしょうか。[文言変更 9日 13.26]
たしかに私たちの中にも、「学」や「法」を先ず「観察」し、
「学」や「法」を「認識」することをもって、「分った」とする方がたも居られます。
その人たちには、目の前の事象は見えない。見たくないのです、きっと・・・。[註記追加 9日 08.51]
私はこのように思いますが、皆様はどのようにお考えですか。
腰をすえて考えるトレーニングを行うことは、もはや国民的課題といえると思います。
自分もブログを書いていてネタに困ると、考える体力の不足を感じますが、Yes or No のorとその両側のスペースに立ち止まる空間が、日本家屋の縁側に存在していたと思います。
観察」、「認識」そして「分る」という営み
は本来とても楽しいはずなんです。見えるはずの事象を見えなくする目の鱗にカンナ(CADではなく)をかけねばなりません。
建築の世界では(でも?)、CADが全盛です。
しかし、どう考えても、建築界での現行のCADは、字義どおりではありません。
つまり -aided ではなく -guided 、CGD。
こう思うのは、年寄りのせいでしょうか。
建築の場合、図面を描く、というのは、線を引きながら、「考える」ことだ、と私は思っているのですが、どうも最近はそうではないらしい・・・。線が早く引ければいい、図面描きの合理化だ・・・?!
http://books.livedoor.com/item/802248
この本の帯に、次の文章があります。
人は自然との関係を想い、考え、行動するとき、ある意図を持つ。この意図をデザインという。意図は結果を生み、複雑な因果関係を演出する。人はデザインの大切さを知る。
この「意図」をとこまで持っているか、、
事務的なwriteになっていまいか、、、
CADにはオペレーターという資格もあるとおり、使いこなせれば便利なツールであることに間違いはないのですが、CADのDは、まさしくDesignなのです
ここのDesignに意図されていることを感じるには、カンナがけのようなアナログな経験が必要ですよね。
その語になびくのか、という論議があったということを聞いたことがあります。
entwurf には、哲学用語では「投企」という意味があります。
たしかにそれに比べると design は軽い・・・。
そこに加えて、さらに軽い日本語のデザイン・・・。
だから、デザインはいいが、ちょっと使いにくいよね、などというわけのわからない「表現」が生まれてしまうのです。
これはもう design の本義をとっくの昔に離れてしまっている。
同様なのが art、アート。これと「芸術」という語が三つ、日本語にはあり、それを「適宜に」使い分けている!器用と言えば器用です!
しかし、怖ろしい。