観察、認識、そして「分る」ということ-4(了)

2010-09-13 12:26:30 | 論評
東京・上野での講習会、昨日で終わらせていただきました。約半年、随分早く過ぎたように思います。

生物多様性・・ではありませんが、いろいろな考えの方がたがおられます。それは当たり前です。
ただ、ことを「多数決」で決める、つまり、ある考え方の「派閥」の人数を増やせば勝ち、などと思うようになったら間違い、だと私は思っています。
私が書いているのも、そんなことは目的ではありません。
世の中ではこのように言われているけど、(本当は)こういうことがあったんだ、
一般にこういう考えが《当たり前》《常識》になっているけれども、こういう点でおかしいのでは・・・、ということを書き連ねているだけです。

もちろん、いやそうではない、人びとは「指導」しなければ何をするか分らない、と思う人もいてもおかしくはありません。自分が《神》になりたい方がたです。まさに「多様性」です。
ただ、その「意向」を、数をたのみに人に押し付けよう、などと考え、あるいは行動するのは、もってのほかです。


簡単に言ってしまえば、私たちそれぞれが自ら考え、自らものごとに接する、そのことに対して、制約になる、妨害になる、あるいは禁止する・・・そのようなことは何人もしてはならない、誰もそんなことをする「権利」など持っていない、ということです。

それでは、「まとまるものもまとまらない」、と思う方も居られるでしょう。
どうしてそんなに「気が急く」のでしょうか。
皆が、自ら考え、自らものごとに接する・・・つまり、「観察、認識」を繰返す。そしてそれぞれがそれぞれなりに「分る」、これが「日常化」したとき、自ずと「結」は見えてくるはずです。
「理想」に過ぎますか?


折しも、9月21日は、宮澤賢治の命日だそうです。



上の図版は、「校本 宮澤賢治全集 第二巻」(筑摩書房)に載っている「春と修羅」初版本の函と表紙。

宮澤賢治は、この「春と修羅」の「序」で、次のように書いています(そのとき、宮澤賢治28歳)。
はじめてこの「序」に接したときの新鮮な衝撃は忘れられません。私の硬い脳、思考形式を揺さぶったのです。

その全文を、同書から、以下に転載します(原文は縦書きです)。


       序

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

  これらは二十二箇月の
  過去とかんずる方角から
  紙と硬質インクをつらね
  (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
  ここまでたもちつゞけられた
  かげとひかりのひとくさりづつ
  そのとほりの心象スケッチです

  これらについて人や銀河や修羅や海胆は
  宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
  それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
  たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
  記録されたそのとほりのこのけしきで
  それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
  ある程度まではみんなに共通いたします
  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)

  けれどもこれら新世代沖積世の
  巨大に明るい時間の集積のなかで
  正しくうつされた筈のこれらのことばが
  わづかその一点にも均しい明暗のうちに
    (あるひは修羅の十億年)
  すでにはやくもその組立や質を変じ
  しかもわたくしも印刷者も
  それを変らないこととして感ずることは
  傾向としてはあり得ます
  けだしわれわれがわれわれの感官や
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通にかんずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料といつしよに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません
  おそらくこれから二千年もたつたころは
  それ相当のちがつた地質学が流用され
  相当した証拠もまた次次過去から現出し
  みんなは二千年ぐらゐ前には
  青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
  新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
  きらびやかな氷窒素のあたりから
  すてきな化石を発掘したり
  あるひは白堊紀砂岩の層面に
  透明な人類の巨大な足跡を
  発見するかもしれません

  すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます

     大正十三年一月廿日  宮 澤 賢 治


       註 「論料」には「データ」とルビがふってあります

  ******************************************************************************************

    東京・上野での講習会「伝統を語るまえに」のためにつくった資料、大半はすでにブログで触れたことですが、
    ご希望があれば、CDにしてお送りさせていただきます。
    言ってみれば、私家版日本建築技術史みたいなものです。A4版両面にして120枚ほどになります。
    コメントに送付先・連絡先をお寄せください(コメントは公開しません)。
    ただ、正誤を確認中ですので、しばらく時間をいただきます。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 観察、認識、そして「分る」... | トップ | 観察、認識、そして「分る」... »
最新の画像もっと見る

論評」カテゴリの最新記事