観察・認識、そして「分る」ということ-2

2010-08-27 11:41:29 | 論評


ことしは収穫がかなり早まりそうです。今朝の田んぼ。
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[文言変更 27日 15.26][リンク先記入 15.43]
2000年の建築法令の変更に前後して、「住宅の品質確保の促進等に関する法律」というのが、これも立法府で内容の詳細な検討が為された形跡もないまま成立しています。
ここに「性能表示事項」が示されていて、それは更に「住宅性能表示制度」、そして「日本住宅性能表示基準」なるものの制定へと連なります。
「日本住宅性能・・・」とありますから、普通の人がこれを読んで、「住宅の質」に基準に設けられたのだ、と思っても不思議ではありません。

   註 さらにこの延長上に「長期優良住宅制度」があります。

「建築基準法」を要に置いて、「品確法」そして「住宅性能表示制度」で絞ってゆく、このプロットをつくった人たちは、かなりの「脚本家」です。
「『住宅の質』をよくするために国が努力している」という「プラスイメージ」を、人びとが持ってしまうからです。さすがコマーシャルの時代だなあ、と思ってしまいます。

この「プロット」に疑問を呈す、などということは大変難しい。
なぜなら、言葉の上では「できている」からです。正確に言うと、概念を明確にしないまま、語を情緒的な語のイメージで語っているため、どのようにも言い逃れができる、「逃げ」がとってあるからです。
したがって、これらの制度を「理解する」には、こういうプロットをつくった人びとのホンネを知る必要があります。
しかし、いつも巧妙にホンネを隠す、それが上手な人たち。

しかし、ときおりホンネが漏れてしまいます。
「品確法」は2000年4月に施行されましたが(1999年に公布)、その一般向けの「品確法のポイント」という解説が建設省(当時)から出されていますが、そこに、ホンネを書いてしまったのです。
そこには
「良質な住宅を安心して取得できる住宅市場の条件整備と活性化のために」
「21世紀に向けて安心して良質な住宅を取得するために、いま、住宅制度のあり方が大きく変ろうとしています」
とあります。

   註 言葉尻を捕まえるようで気が引けますが、
      「大きく変ろうとしています」とあたかも自然現象の様態を客観的に描写するかのような書き方ですが、
      「(私たち:行政は)住宅制度のあり方を、大きく変えようとしています」と言うべきでしょう。
      実は、こういう「表現」を、この人たちはよく使います。
      つまり、「日本語は主語なしでも文がつくれる」ということを「活用」するのです。
      建築系の学術論文でも見かける「手法」です。

これはどういうことを意味するか。

普通の日本語では、大工さんに住宅をつくってもらうことを、住宅を取得する、という言い方はしません。「大工さんの手許にあるもの」を、取得したわけではないからです。車を買うのとはわけが違います。

したがって、この「解説」の裏側には、「人が住まいを構える」とは、すべからく住宅メーカーにまかせることだ、自動車を買うように住宅メーカーの「提供する」物件を購入することだ、その方向に持ってゆくことだ、という「設定」「思考」が根底にある、ということ。
そうであるならば「取得」という語もおかしくはありません。
これはつまり、「アメリカ型の住宅生産」のイメージ。
その「きわめつけ」は、「この法律は、すべての住宅について適用されます」という文言。

これは、地域の「職方」:「実業者」が、地域に暮す人に「委ねられて」建物をつくる、というわが国の従来の住まいのつくりかたを、いわば全否定する方向の考え方と言えるでしょう。
それはすなわち、「職方」:実業者の否定以外の何ものでもありません。
  [意味が若干異なりますので、「頼まれて」だった文言を「委ねられて」に変更しました。27日 15.26]

第一、「住まいをつくる人」にとって、「住宅市場の活性化」などは無関係のはずです。
それとも、「住まいをつくる」ということは、「住宅市場を活性化する」、つまり、「住宅メーカーの業績を高めること」が目的なのでしょうか。

地域に密着して仕事をしている職方はたまったものではありません。ここに職方否定の考えが如実に示されているのです。

   註 この「論理」は、林業振興のために、国産材を使った住居をつくる、というのにそっくりです。
      住居をつくるのは、林業のためではありません。
      きわめて短絡的な「論理」です。
      こういう「論理」で木造住宅をつくるから、おかしくなるのです。
      林業の振興は、「美味しんぼ」がいみじくも書いてくれたように、外材の関税を一考すれば、解決する話。
     
そして「品確法」は、「せっかく手に入れたマイホームも、性能に著しく問題があったり、・・・重大な欠陥があったりしてはたいへんです。そうした・・・トラブルを未然に防ぎ、万一のトラブルの際も消費者保護の立場から紛争を速やかに処理できるよう・・・制定された法律」であるという説明もあります。

これもきわめて不可解、おかしい。
性能基準なるものを制定し、その基準をクリアしさえすればそれでよし、とすることを認めているに等しいからです。
このおかしさ、問題点は、環境問題で使われる「許容規定」を例にして話すと分りやすい。なぜなら同類の発想だからです。

たとえば、工場排水。その汚れ具合を、「この程度なら許す」、というのが「許容規定」。
しかし、本来、排水は汚れていてはいけない。それが当たり前。
しかし、そうすると「生産」に差し障りが出る。
ゆえに「この程度」を「科学的に」決める。そうして示されるのが「許容値」。
けれども、この「許容値」は、いつのまにかいわば「目標値」にすり替わる。
簡単に言えば、汚れを0にする「努力」をやめる。
そして、いつの間にか「推奨値」になる。
建材のホルムアルデヒドなどについての規制、基準は、まさにこれと同じです。最近ではアスベストも・・・。

   註 以前に「小坂鉱山」の鉱毒除去施設が、精錬の稼動前に完成していたことを紹介しました(下記)。
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ac345dec3d5e5966fe29cb97fa6702cf
      「足尾銅山」の田中正造の直訴事件と同じ1901年の話です。
      同じ年に、片や直訴、片や除去施設の完成。
      「小坂」には、人に言われるのを待つのではなく、自らすすんで、汚れを0にしようとする「努力」があった。
      今、このような「努力する気」が「行政」「業界人」にあるか?

逆に言えば、
「品確法」「日本住宅性能基準」なるものの存在が、
人びとそれぞれが、それぞれの暮しの中で、それぞれが独自の感覚で感じ観察し、状況を認識し、そして「こと」を知る、分る、という過程そのものを破壊してしまう働きをしてしまう、私はそう思います。
つまり、それ以外の判断はするな、という「判断」の押し付け


どうして人びとの「観察と認識」の「自由」と「機会」を保障し見守るのではなく、
人びとから「観察と認識」の機会を奪い、人びとが自らのやりかたで「分る」ことを認めないのでしょう。

やはり、その根として、偉い人たちの頭の中に「大政翼賛会」的思想が蠢いているからだ、としか私には思えないのです。
そしてこの場合、市場原理主義のモデル、アメリカ化が目標の翼賛会。アメリカ式住宅生産化です。

   註 アメリカでサブプライムローン問題が起きなかったら、
      日本にもこの「制度」が移入されるはずだったようです。
      100年住宅、200年住宅というのは、それを念頭においていたのです。
      因みに、「品確法」の担当は、建設省(当時)住宅局 「住宅生産」課
      「住宅をつくる」ことを、何ゆえに「生産」と言わなければならないのか?
      そこに「深い意図」を疑わずにはいられません。
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「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」
まさにその通りの様子です。コシヒカリは倒れやすいのだそうです。
自然には駆け引きなどない。ありのまま、なのです。
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だからこそ、私たちは「裸の王様」になってはならないのです。
純心なこどもたちに「裸の王様」と言われないように、
「裸の王様」に対して、
「あなたは裸だ」と、まわりの目を気にせず、畏れずに、言えるようにならなければならない、と私は思っています


   註 そんなことを考えているときに入ってきたニュース、それが「美味しんぼ事件」でした。


では、そもそも、ここで言われている「性能表示」の中味は何か?
これについて次回考えてみようと思います。

   註 今朝のケンプラッツのニュースによると(下記)、
      昨年の秋の実験で
      想定外の倒壊をしてしまった長期優良住宅実物実験の報告が出されたそうです。
      映像では、強度の弱い方の試験体は倒れていなかった、と私には見えましたが、
      実験主体の見解では、あのときの試験体は、「2棟とも倒壊」、ということにしたようです。
      その理由(言い訳)を2000頁におよぶ報告書で書いてあるとのこと。
      実際の震災の際にも、倒壊か否かの判断に迷って、時間がかかるのでしょうね。
      http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20100826/543027/
      

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住宅性能表示制度は不要な制度ですが (Koji Matsuo)
2010-08-29 10:45:45
マンションの建設で住宅性能表示制度の申請を行いましたが、建築確認申請の検査項目等と重複している部分も多く不要な申請です。ですが、お金を融資する側が旧住宅金融公庫などがメインであり、無借金で家を持てるほど貯蓄ある人は稀なので、公庫の建物評価基準にあわせたものに融資するルールがある以上必要な制度という位置づけです。購入者は融資が限定的な物件より間口が広い方を選ぶので、当然のごとく施主は公庫基準に適合するようにつとめるわけです。そこにおいて営利を目的とし、顧客の意向に合わせる一般企業が「そんな制度はいりません」と言ったところで仕事がもらえないだけの話です。仕事がなくても理念を通すという態度で全てに望む人は稀と思います。力を蓄えないと善悪とは別に負けてしまうのが現実です。

このようなことはここに来る方々には説明不要のことだったと思いますが、様々な知識の積み上げが必要な経緯の部分をはしょって、問題の表面を突然見せられても、多くの人がその問題の深刻さを理解できません。真実を知るための窓口がどこにあるのか、皆が知る必要があると思います。それは同じ業界の人が交流するだけでは実現しないものと思います。
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「仕事」と理念 (筆者)
2010-08-30 01:20:11
私は、「武士は食わねど高楊枝」の奨めを書いているわけではありません。
食うためには、諸規定に従わざるを得ない、だから従っているんだ、という言い訳を「専門家」がなさるのは、まったく言い訳に過ぎない、と言いたいのです。

「おかしい」ということが分っている以上、その「おかしさ」に従いつつも、おかしいんだよ、ということは言いつづけるべきだ、と思っています。
「専門家」同士はそれをしない、そんなことしていたら、商売上がったり・・・だから冷たく、聞く耳を持たない。だから、話せない。話さない。

私には、そういう「専門家」は今更どうでもいいのです。どうぞご自由にそういう商売をお続けください。

私は、被害をまともに蒙ることになる「非専門家」:一般の人びとに「本当のこと」を知ってもらえるように努めよう、と言っているのです。
専門家は、そういう務めを努めてきましたか。専門家であることに胡坐をかいていませんか。
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