「鹿苑寺」:通称金閣寺は「金閣」があるための呼称。
「鹿苑寺」は足利義満の菩提寺として、1420年(応永27年)ごろ、義満の「北山殿」の屋敷、建物の一部を引継ぎ、創立された臨済宗の禅寺である。
「金閣」は、義満の「北山殿」の一部、「北御所」(義満自身の居所)の舎利殿として、1398年(応永5年)に完工。
つまり、「鹿苑寺」創立前からあった建物。もちろん今の建物は昭和の再建。
第一層は寝殿造形式で住宅様、第二層は和様の仏堂風、そして第三層は禅宗様の仏堂風。言ってみれば、各層が当時の建物様式を紹介する展示場。
第一層と第二層は5.5間×4間の同形。ただし、1間は7尺2分(約2.1m)。
側の柱を通し柱とし、各層とも大梁で床を支え、第三層は第二層の南北の大梁の上に直交する桁を土台として別途組まれている(図参照)。
柱は4寸5分角(約135mm)。大梁の高さは約1尺5寸(約45cm)。柱も梁も、寸面はそんなに大きくない(今の《在来工法》だったら、柱は5寸以上、梁は2尺・・になるだろう。第一、こんな建物、「確認」が下りない!)。
一・二層では、南面の広縁部で、柱を抜いて約17.5尺(≒5.3m)とばしているが、これは古代以来の一間ごとに柱を立てる方法から脱した最古の例という。
通し柱に梁を差して総二階をつくる、柱を抜く・・などをする一方、古代にならった方法で第三層を載せる、等々、この建物では、その当時までに得られていた、あるいは到達していた技術が、総動員されていると見ることができるのではないだろうか。
この建物は、当時の中心、京都にある。国の中心の卓抜した工人たちの仕事であることはたしかである。
しかし、それは都だけの話ではない。
そのころ各地で寺院が再興、修復されていることでも分かるように、東大寺が再建されて約200年、建物づくりの技術は、各地の工人たちの間でも、静かに、着実に、確実な進展を見せていたのである。
そしてそれは、明らかに、次の発展を予感させる。さらにたくましく、そしてさらに繊細に・・・。
上掲の図は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」より転載、編集。
解説も同書を参考にした。
ここまで見てきたように、古代、中世・・と、人びと:工人たちのたゆみなき工夫の数々が技術を発展させてきた。そしてそれは、これから触れる近世でもまったく変わらない。
そうであるのに、近代以降、突然進展が停まる。むしろ退化している。人びとの自由奔放な工夫も萎えている。というより、工夫しなくなった。いや、できなくなった。むろん今は・・。
それは何故だ?
近代以降、たしかに「封建時代」ではなくなった。
しかし、「封建主義」が、「封建時代」よりも、むしろ強化されたからではないか、と私には思える。
註 封建主義:支配的立場にある人が下の者を、文句を言わずに
服従させるやりかた。
封建時代:君主が土地を諸侯に分け与えて領地を治めさせる代りに、
国家有事の際に忠誠を誓わせたこと。
「新明解国語辞典」による
現存する姫路城の天守はその中でも、建物の中心を貫く2本の芯柱など、特徴的な構造を持っている事でも有名ですね。
ところで下山さんは既にご存知と思いますが、私は最近知った事ですが、惜しくも戦災で焼失した名古屋城天守は、姫路城の場合に使用された芯柱はおろか、本当なのかは分かりませんが通し柱も殆ど無かったとの事。各階の柱や貫で組まれた木組みの上に梁を組み、その上に上階を組むような、「積み木」のような構造だったそうです。現在の建築基準法では通し柱が一本も無ければ違反になると思いますが、この構造でも濃尾地震ではびくともしなかったとの事。
対して姫路城天守は芯柱の他にも多くの通し柱が使用されているらしく、更には1、2階の隅には斜材「筋違い柱」も使用されているようです。(筋違いは、昭和の大修理での資料(http://www.city.himeji.hyogo.jp/jyokakuken/repair/index.html)の写真を見ますと、在来工法の筋交いとは違い、貫でしっかり固定されているようです)
建てられた時期はほぼ同時期であるこの二つの高層木造建築物ですが、構造の違いが何故生じたのか、単に地域が違う為、当時の大工の技術系統や考え方の違いが現れただけなのか、とても興味があります。
出来ましたら、その辺りの解説もお願いできませんでしょうか。
お察しの通り、次は城郭をとりあげます。
姫路城の筋かいの件、それは昭和の修理にあたり、《心配性の方々》が入れさせたものだと思います。
名古屋城の件は、調べてみます。分かるかどうかは不明ですが・・。
ただ言えることは、昔の人びと:工人は、一律の考え方で事を処理していない、ということです。いろんな考え方で実行したこと、何がダメで何がいい、などとはじめから決め付けることはしない、目の前の問題に対して自分の頭で考えた、ということは確かです。もちろん、古今のいろんな考え方も参考にして、です。柔軟なんですね、頭が・・。
現代人に欠けている事かも知れませんね。変に知識に邪魔されてみたり、妙な先入観をもって物事をみてしまうのは、現代人の悪い癖かもしれません・・・。
姫路城の1、2階の隅には斜材は、上記に紹介しました昭和の修理の資料を見ますと、解体時には既にあったようです。
但し文献によりますと天守台上の礎石の不動沈下による天守の傾きを抑える為に江戸期から明治にかけて長年補修が続けられており、(上記サイトの解体前の天守内部の写真を見ると、筋交い補強や支柱だらけで見るも無惨な姿になっています)現在も残る筋違い柱はこの補修によるものかもしれません。http://www.himeji-castle.gr.jp/JAPANESE/sakuin1.html
さて、名古屋城の件についてですが、学研社発行の「よみがえる名古屋城」に記載がありますので、一部転記します。
「通柱はなく、とくに二階と三階の間では柱筋もそろわず、初期の層塔型天守の特色を示している。」
「通柱は強そうに思えるが、天守のような巨大な木造建築に使うと、かえって危険である。通柱の途中に太い梁が突き刺さり、その接合部(仕口)では、通柱を大きく切り欠くことになって、そこで折れやすくなる。
したがって、名古屋城天守では、通柱とはせず、各階ごとに柱を止め、柱の上に巨大な梁を組み合わせ、その梁に上階の柱を立てる事を繰り返して、五階建てとしている。要するに積木のような構造であるが、特別に太い柱と梁を使う天守では、この方が合理的なのである。」
通柱を使用すると、梁が突き刺さる事によって通柱が大きく切り欠かれる事は、何も建物の大小に限った事では無いのではないか?それの解決の為に姫路城天守では芯柱が使用されたのでは?と多少疑問に思う記述ではありますが・・・
特に4方差しの場合など、周りの僅かな材しか残らないので不安です。腰が少ないと尚更です。シャチで組む場合でもボルトよりは数段マシだと思いますが、欠損はかなりの部分に及びます。
管柱に梁桁の天までホゾを抜けば、その方が力の掛かり方も合理的だと思うのですが、どうでしょうか?
何故、建築基準法で通し柱が要求されるのか教えていただけませんか?
通し柱の差口の件、多くの方々が、穴の彫られた柱を見ると、不安を感じるようです。
端的に言えば、危ない仕口ならば、とうの昔に使わなくなっていたと思いますが、実際はそうではありません。現場では、その効能が高く評価されていたのだと思われます。
ご意見の点も含め、このあたりのことについては、近く、近世の技術を書くときに触れようと思っています。
皆さんが、「工法」ではなく「構法」と記すこと。
私は「構法」を使いません。
なぜか。
「構」法では、きわめて狭く「技術」を考えてしまうからです。なぜ「工」法ではいけないのか、考えてください。
「工」の原義を考えたら、「構法」は、とても使えたものではありません。「大工」道具を「大構」道具と言うようなものです。
建築業を営む方で、屋号を「○○建築工業」と名付ける方がおります。この方たちは、「工」の語義を多分知っている方なのです。