「Ⅱ-3 二重屋根の発生と新しい架構法」 日本の木造建築工法の展開

2019-04-17 13:18:00 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「Ⅱ-3 二重屋根の発生と新しい架構法」 A4版6頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅱ-3 二重屋根の発生と新しい架構法・・・・斗拱(ときょう)に代る桔木(はねぎ)による小屋組

 日本は雨が多く、しかも風をともなう吹き降りの雨が多いのが特徴です。そのため、日本の建物では、屋根は勾配を急にして、降った雨を早く外に流し去る水はけをよくする)必要があり、また、できるかぎり雨が壁に吹き付けないようにするために軒の出を深くすることも必要でした。

 しかし、雨の少ない中国から伝来した緩い勾配の屋根は、日本の気候に適さないこと、そして、軒を深くするには中国風の斗拱(ときょう)では限界があることが少しずつ分ってきます。 そこで、当初中国風の緩い勾配の屋根で建てた建物は、急な勾配の屋根に改造されてゆきます。

 現在、中国風の緩い勾配の屋根の建物は、新薬師寺本堂などしか残っていませんが、唐招提寺金堂も当初は同様の緩い勾配で、後世に急な勾配に改造されています(53頁の写真は改造後の現在の姿です)。 

 しかし、屋根の勾配が急になると、屋根の下にできる室内空間の高さが不必要に高くなります。そうかといって、それを避けるために軒先を低くすると室内が暗くなります。

 そこで、軒の高さはそのままにして屋根を急な勾配に変え、室内には天井を設けて室内空間の高さを調節する方法が考えだされます。当初の中国風な椅子式の生活が座式中心の生活に変ってゆき、そのために室内の高さの調節が必要になった、とも言われています。

 小屋組の下に天井を張ると、小屋組の架構は人の目に触れなくなり、天井小屋組の間に小屋裏・天井裏が生まれます。(以上は、日本の美術245:浅野清 日本建築の構造を参考にしています。) 

 この天井裏を利用して、斗拱(ときょう)に代り軒の出を深くするため考案された方法が桔木(はねぎ)です。 桔木(はねぎ)を使った建物は、すでに奈良時代末に現われ、その好例が秋篠寺です(下図、右頁図・写真参照)。

 

 

秋篠寺 復元断面図 左が南 当初、南1間は吹き放しだった       西側側面 いずれも日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ より

 

 図のように、母屋:上屋部分の組入天井(くみいれてんじょう)堂内の高さ調節のための天井、庇:下屋の化粧垂木の部分は、従来の垂木の見える小屋裏を装った天井で、垂木の太さも細身になっています。斗拱(ときょう)や虹梁もありますが、この役割は化粧が主で、天井裏に別に設けた小屋組が屋根をつくります。天井裏の隠れた部分を野屋根(のやね)、そのうちの軒を支える部材を桔木(はねぎ)呼び、これは梃子(てこ)の原理の応用です。

 桔木(はねぎ)の上に束立てで母屋桁を組み、実際に屋根を受ける垂木:野垂木(のだるき)を架けます。桔木(はねぎは、軒を確実につくる手法でしたが、後に、軸組と小屋組を立体的に組む上でも有効なことが発見されます。 

 なお、新薬師寺本堂(56頁断面図)化粧屋根野屋根からなっていますが、化粧屋根を、従来の小屋組同様の太目の材料でつくっているため、一見したところ、化粧屋根には見えません。 

 平安時代になると、寺院建築では、桔木(はねぎ)を使う野屋根化粧屋根による二重屋根が一般的になり、斗拱が構造上は不要になります。しかし、斗拱は寺院建築の象徴になっていたため、野屋根・桔木を使った上に、構造的な役割を失った形式的な斗拱を取付ける方法が普通になります(平安時代には長押も一般化していたので、この二重屋根架構と長押を使う建て方への変化を一般に国風化と言い、そういうつくりの建物を和様と呼んでいます)。そしてこの傾向は、上層階級の建物では、後世まで引継がれます。

 

秋篠寺(あきしのでら) 8世紀末~9世紀初頭 所在:奈良市 秋篠町  日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ より

 復元断面図  当初、南面庇部は、唐招提寺金堂のように、吹き放しだった。 

  現状平面図

    

 現状堂内 南面庇部も囲われている        現状堂内 身舎部          現状堂内 西面庇部

現状断面図

 

 法隆寺の回廊北側に位置する大講堂の解体修理によって、平安時代の野屋根による小屋組架構法が明らかになりました。ここでは、室内から見える地垂木上に束立てで野垂木を架けて二重の架構にしていますが、地垂木が束柱を介して野垂木上の屋根の重さを支えることになるため、地垂木野垂木は同寸の太めの材料が使われています。これは、新薬師寺の二重の垂木に似た架構法です(56頁)。

 桔木(はねぎ)野垂木を受ける形を採るようになると、地垂木は屋根の重さを受ける必要がないため、断面の小さな細身の材でよく、化粧垂木になってきます(60、61頁の諸例参照)。 その意味では、秋篠寺は、先駆的な架構法を採っていたことになります。  

  

                                            △ 茅負と野垂木の取合い

部材の名称 繋虹梁(つなぎこうりょう):構造材兼化粧材  地垂木(ぢだるき):構造材兼化粧材  飛檐(ひえん)垂木:同左  大梁:構造材  二重梁:同左  野垂木:同左  茅負(かやおい):野垂木の受け材  組入(くみいれ)天井:化粧 

 

平安時代の桔木(はねぎ)を用いた建物    日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)からの図版を編集 

浄瑠璃寺(じょうるりじ)  1107年 所在:京都府 木津川市 加茂                                                        

 梁行断面図

 平面図 方位:下が南

 全景

九間四面の建物。屋根は入母屋ではなく、寄棟。   下:堂内  下右:化粧天上見上げ

  

 

 

室生寺 金堂(むろうじこんどう)  平安初期、江戸時代礼堂増補にともない改造  所在:奈良県 宇陀市 室生区 室生

  現状梁行断面図

 身舎(もや) 庇(ひさし) 孫庇(まごひさし)

現状平面図・天上見上げ図   断面図共に 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)より

 現在の外観 寺社建築の鑑賞基礎知識(至文堂)より

 

  

 写真左:内部 左手「身舎(母屋)」右手「庇」 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)より  写真右:内部 礼堂 孫庇 1672年の増補、虹梁の意匠が異なる 古建築入門(岩波書店)より

  寛文12年(1672年)、南面に礼堂(らいどう)を増補して、屋根を葺き下した。 当初の屋根は入母屋で、小屋組は又首組で天井はなかったと考えられている。 平面が整形ではない。  本堂部分の床は、地盤に据えた礎石に直接大引を転がし、根太を掛け床板を張る方法を採っている。それゆえ、大引は、側面では地覆を兼ねることになる。 

 

(「Ⅱ-3 参考」へ続きます。)

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