観察、認識、そして「分る」ということ:余録・・・・すべてがわたくしのなかのみんなであるやうに・・・・

2010-09-17 16:00:16 | 論評


芒(すすき)より一足早く、荻(おぎ)の穂が風になびいています。8月の10日頃からというもの、猛暑に参って草刈をしなかったため、伸び放題、荒れ放題。
当地に「荻平(おぎだいら)」という地名があります。終戦後開拓された土地のようです。多分、かつては草原様の場所だったのでしょう。東京の「荻窪」も、そういうところだったらしい。

  ******************************************************************************************

[転載文の脱落部補完 17日 23.51][註記追加 18日 10.56] 

先回、宮澤賢治の「春と修羅」の序を転載いたしました。

あの中で、私が最初に惹かれたのは、
  ・・・・
  (すべてがわたくしのなかのみんなであるやうに 
  みんなのおのおののなかのすべてですから)
  ・・・・
そして
  ・・・・
  けだしわれわれがわれわれの感官や
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通にかんずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料といつしよに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません
  ・・・・
のところでした。

彼が、万物に万物と同じ地平で接している、接することができる、一方向では決して見ない、そのことが、この一節でよく分ります。

ふと考えました。
かつて、人びとは、当たり前のこととして、この「心境」でものごとに接していたのではないか、と。
当たり前ゆえに人びとは何も言わないけれども、彼は、あえて、それを顕在化させて言ったのだ、と。

多分、彼の生きた「時代」がそうさせたのかもしれません。「科学」「科学的(思考)」が脚光を浴び始めた、そういう時代。

以前にも紹介しましたが、「月天子」という詩では、次のように語っています。

  私はこどものときから
  いろいろな雑誌や新聞で
  幾つもの月の写真を見た
  その表面はでこぼこの火口で覆はれ
  またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
  後そこが大へんつめたいこと
  空気のないことなども習った
  また私は三度かそれの蝕を見た
  地球の影がそこに映って
  滑り去るのをはっきり見た
  次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
  最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
  盛岡測候所の私の友だちは
  --ミリ径の小さな望遠鏡で
  その天体を見せてくれた
  亦その軌道や運転が
  簡単な公式に従ふことを教へてくれた
  しかもおゝ
  わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
  遂に何等の障りもない
  もしそれ人とは人のからだのことであると
  さういふならば誤りであるやうに
  さりとて人は
  からだと心であるといふならば
  これも誤りであるやうに
  さりとて人は心であるといふならば
  また誤りであるやうに
  しかればわたくしが月を月天子と称するとも
  これは単なる擬人でない

       [一部が脱落していました 補完しました 17日 23.51]

太陽が地球のまわりをまわっているのか、その逆か、と問えば、今では、小学生、ことによると幼児さえも、地球が太陽のまわりをまわっている、と訳知り顔に言うでしょう。

私は不思議に思う。それを平然として、あるいはむしろ当然のこととして黙ってみている大人たちを。
なぜなら、その子どもたちの「知識」は、自らが自らの「観察」から得た「認識」によるものではないからです。

私たちの時代、このように、自らの「観察」を「省略」して、誰かのつくった「知識」を「集める」ことが、「学ぶ」ということと同義になってしまっている・・・
大人だってそうだ・・・。

「日の出」「日の入」「日没」・・・という語を使い、日常の「感覚」と「知識」との「落差」を問題にせずに、「適当に」済ませている。だから、耐震と言い、断熱と言い、はたまた立っていても倒壊と言い、・・・それに慣れっこになってしまう・・・。


宮澤賢治は、そういう時代の始まりを感じとっていたのではないか、と思っています。


   註 「春と修羅」には、宮澤賢治自らの推敲による別の版があります。

      それでは、上に転載した箇所は、次のようになっています。
       ・・・・
        けだしわれわれがわれわれの感官を感じ
        やがては風景や人物を信じるやうに
        そしてただ共通に信じるだけであるやうに
        記録や歴史あるいは地史といふものも
        それのいろいろの論料といつしょに
        (因果の時空的制約のもとに)
        われわれが信じているのにすぎません
        ・・・・

      普通はこちらの版が紹介されているかもしれません。[註記追加 18日 10.56]     

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 観察、認識、そして「分る」... | トップ | 事務的なお知らせ・・・・C... »
最新の画像もっと見る

論評」カテゴリの最新記事