芒(すすき)より一足早く、荻(おぎ)の穂が風になびいています。8月の10日頃からというもの、猛暑に参って草刈をしなかったため、伸び放題、荒れ放題。
当地に「荻平(おぎだいら)」という地名があります。終戦後開拓された土地のようです。多分、かつては草原様の場所だったのでしょう。東京の「荻窪」も、そういうところだったらしい。
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[転載文の脱落部補完 17日 23.51][註記追加 18日 10.56]
先回、宮澤賢治の「春と修羅」の序を転載いたしました。
あの中で、私が最初に惹かれたのは、
・・・・
(すべてがわたくしのなかのみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
・・・・
そして
・・・・
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通にかんずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
・・・・
のところでした。
彼が、万物に万物と同じ地平で接している、接することができる、一方向では決して見ない、そのことが、この一節でよく分ります。
ふと考えました。
かつて、人びとは、当たり前のこととして、この「心境」でものごとに接していたのではないか、と。
当たり前ゆえに人びとは何も言わないけれども、彼は、あえて、それを顕在化させて言ったのだ、と。
多分、彼の生きた「時代」がそうさせたのかもしれません。「科学」「科学的(思考)」が脚光を浴び始めた、そういう時代。
以前にも紹介しましたが、「月天子」という詩では、次のように語っています。
私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
後そこが大へんつめたいこと
空気のないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
--ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運転が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない
[一部が脱落していました 補完しました 17日 23.51]
太陽が地球のまわりをまわっているのか、その逆か、と問えば、今では、小学生、ことによると幼児さえも、地球が太陽のまわりをまわっている、と訳知り顔に言うでしょう。
私は不思議に思う。それを平然として、あるいはむしろ当然のこととして黙ってみている大人たちを。
なぜなら、その子どもたちの「知識」は、自らが自らの「観察」から得た「認識」によるものではないからです。
私たちの時代、このように、自らの「観察」を「省略」して、誰かのつくった「知識」を「集める」ことが、「学ぶ」ということと同義になってしまっている・・・。
大人だってそうだ・・・。
「日の出」「日の入」「日没」・・・という語を使い、日常の「感覚」と「知識」との「落差」を問題にせずに、「適当に」済ませている。だから、耐震と言い、断熱と言い、はたまた立っていても倒壊と言い、・・・それに慣れっこになってしまう・・・。
宮澤賢治は、そういう時代の始まりを感じとっていたのではないか、と思っています。
註 「春と修羅」には、宮澤賢治自らの推敲による別の版があります。
それでは、上に転載した箇所は、次のようになっています。
・・・・
けだしわれわれがわれわれの感官を感じ
やがては風景や人物を信じるやうに
そしてただ共通に信じるだけであるやうに
記録や歴史あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料といつしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれが信じているのにすぎません
・・・・
普通はこちらの版が紹介されているかもしれません。[註記追加 18日 10.56]