☆生没年 926~967
☆在位期間 946~967
☆両親
父・醍醐天皇 母・藤原穏子(藤原基経女)
☆略歴
名は成明。醍醐天皇の第十四皇子として延長四年(926)六月二日、内裏桂芳坊において誕生。同年十一月親王宣下されます。
天慶三年(940)二月、綾綺殿において元服。即日三品に叙され、上野太守、大宰帥を経て、同七年、朱雀天皇の皇太弟となり同九年即位。即位当初、藤原忠平が前代に引き続き関白を務めましたが、天暦三年(949)忠平薨去後は関白を置かず、天皇親政を行いました。同年三月には、延喜十二年(912)以来行われなかった南殿(紫宸殿)における擬階奏を復活させています。親政が行われた醍醐天皇の治世とともに後世、「延喜天暦の治」とたたえられました。
村上天皇は和漢の才に秀で、日記『村上天皇御記』、儀式書『清涼記』、家集『天暦御集』、詩集『天暦御製詩草』等を遺しました。政治面・文化面において優れた才能を持った天皇だったと言えそうですね。在位期間中には、有名な「天徳内裏歌合わせ」も行われています。
康保四年(967)五月二十五日、清涼殿において崩御。享年42歳。なお崩御直前に出家し、法名を覚貞といったそうです。山城国葛野郡田邑郷に葬られ、陵は村上陵で、現在京都市右京区鳴滝に所在しています。
☆父方の親族
祖父・宇多天皇 祖母・藤原胤子(藤原高藤女)
主なおじ
敦慶親王 敦実親王 斉世親王 行明親王
主なおば
均子内親王 柔子内親王(斎宮)
主ないとこ
中務(父は敦慶親王)
源 雅信 源 重信(父は敦実親王)
源 庶明(父は斉世親王)
☆母方の親族
祖父・藤原基経 祖母・操子女王(人康親王女)
主なおじ
藤原時平 藤原仲平 藤原忠平
主なおば
藤原温子(宇多天皇中宮)
主ないとこ
藤原保忠 藤原顕忠 藤原敦忠 藤原褒子(宇多上皇妃・京極御息所) 藤原仁善子(保明親王妃) 女子(克明親王妃) 女子(敦実親王妃) 女子(藤原実頼室)(以上、父は藤原時平)
藤原暁子(有明親王妃)(父は藤原仲平)
藤原実頼 藤原師輔 藤原師尹 藤原師氏 藤原寛子(重明親王妃・徽子女王の母)(以上、父は藤原忠平)
均子内親王(母は藤原温子)
☆兄弟姉妹とおい・めい
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
*克明親王 ○保明親王 *重明親王 *有明親王 ○朱雀天皇 *代明親王 *章明親王 *盛明親王 *源 高明 *兼明親王(源 兼明)
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
*勤子内親王 *雅子内親王 ○康子内親王 *勧子内親王 *英子内親王
主なおい・めい
源 博雅(父は克明親王)
慶頼王 熙子女王(父は保明親王)
昌子内親王(冷泉天皇皇后)(父は朱雀天皇)
徽子女王(斎宮・村上天皇女御)(父は重明親王)
源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王(村上天皇女御)・厳子女王(藤原頼忠室)・恵子女王(藤原伊尹室)(父は代明親王)
源 忠清・源 泰清・女子(藤原公季室)(父は有明親王)
源 伊陟(父は兼明親王)
源 俊賢・源 経房・女子(為平親王室)・源 明子(藤原道長室)(父は源 高明)
藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(藤原師輔室)(母は雅子内親王)
深覚・藤原公季(母は康子内親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
藤原安子(藤原師輔女) → 憲平親王(冷泉天皇) 守平親王(円融天皇) 為平親王 輔子内親王 資子内親王 選子内親王
藤原述子(藤原実頼女)
徽子女王(重明親王女) → 規子内親王(斎宮)
荘子女王(代明親王女) → 具平親王 楽子内親王(斎宮)
藤原芳子(藤原師尹女) → 昌平親王 永平親王
源 計子(源 庶明女) → 盛子内親王(藤原顕光室)
藤原祐姫(藤原元方女) → 広平親王
藤原正妃(藤原在衡女) → 昭平親王
藤原登子(藤原師輔女) *最初、重明親王の妃となり、親王の没後に入内し、「貞観殿尚侍と呼ばれた。
☆末裔たち
・その後の皇位継承について
村上天皇崩御後、皇位は憲平親王(冷泉天皇)、さらに守平親王(円融天皇)へ受け継がれ、その後は冷泉・円融天皇の皇子たちが交互に天皇となりましたが(花山天皇・一条天皇・三条天皇)、最終的には円融系の一条天皇の子孫たちが皇位を継承することとなります。
・為平親王の子孫
守平親王の兄でありながら、為平親王は天皇になることができませんでした。しかも舅であった源高明が安和二年(969)に安和の変で失脚し、親王も昇殿を止められ、再び昇殿が許されたのは安和の変の17年後でした。
それでも彼は、高明女との間に頼定・憲定・顕定(いずれも源姓を賜って臣籍に降下)、婉子女王(花山天皇女御・後に藤原実資室)・恭子女王(斉宮)・女子(具平親王室)といった子女をもうけました。ただ、源氏に降下した息子たちの子孫はあまり繁栄しなかったようですが…。
なお、憲定には、藤原頼通の室となって通房を生んだ女がいます。
・具平親王の子孫
為平親王の子孫とは対照的に子孫が大きく繁栄したのは具平親王の系統です。
具平親王には、前述の為平親王女との間に師房(源姓を賜って臣籍に降下)・隆姫女王(藤原頼通室)・女子(敦康親王妃)・(女専)子女王(斎宮)といった子女をもうけます。
師房は藤原尊子(藤原道長女)との間に俊房・顕房をもうけ、このうち顕房の子孫がいくつもの系統に分かれ、多数の大臣や大納言・中納言を輩出して後世まで繁栄しました。
なお、師房には、身分の低い雑仕女との間に頼成という息子がおり、彼は紫式部のいとこに当たる藤原伊祐の養子となりました。その頼成の女には、藤原頼通の室となって師実や後冷泉天皇中宮の寛子を生んだ祇子がいます。つまり、頼通の3人の室、隆姫女王・源憲定女・藤原祇子は3人とも、村上天皇の血を引く女性だったわけです。
・その他の子孫たち
藤原正妃の生んだ昭平親王の系統は藤原公任一家につながっています(「藤原高光とその子孫たち」参照)。
源計子の生んだ盛子内親王は藤原顕光の室となり、重家・元子(一条天皇女御)・延子(敦明親王妃)をもうけました。
このように、村上天皇の子孫は色々なところとつながっていて興味が尽きないです。
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☆在位期間 946~967
☆両親
父・醍醐天皇 母・藤原穏子(藤原基経女)
☆略歴
名は成明。醍醐天皇の第十四皇子として延長四年(926)六月二日、内裏桂芳坊において誕生。同年十一月親王宣下されます。
天慶三年(940)二月、綾綺殿において元服。即日三品に叙され、上野太守、大宰帥を経て、同七年、朱雀天皇の皇太弟となり同九年即位。即位当初、藤原忠平が前代に引き続き関白を務めましたが、天暦三年(949)忠平薨去後は関白を置かず、天皇親政を行いました。同年三月には、延喜十二年(912)以来行われなかった南殿(紫宸殿)における擬階奏を復活させています。親政が行われた醍醐天皇の治世とともに後世、「延喜天暦の治」とたたえられました。
村上天皇は和漢の才に秀で、日記『村上天皇御記』、儀式書『清涼記』、家集『天暦御集』、詩集『天暦御製詩草』等を遺しました。政治面・文化面において優れた才能を持った天皇だったと言えそうですね。在位期間中には、有名な「天徳内裏歌合わせ」も行われています。
康保四年(967)五月二十五日、清涼殿において崩御。享年42歳。なお崩御直前に出家し、法名を覚貞といったそうです。山城国葛野郡田邑郷に葬られ、陵は村上陵で、現在京都市右京区鳴滝に所在しています。
☆父方の親族
祖父・宇多天皇 祖母・藤原胤子(藤原高藤女)
主なおじ
敦慶親王 敦実親王 斉世親王 行明親王
主なおば
均子内親王 柔子内親王(斎宮)
主ないとこ
中務(父は敦慶親王)
源 雅信 源 重信(父は敦実親王)
源 庶明(父は斉世親王)
☆母方の親族
祖父・藤原基経 祖母・操子女王(人康親王女)
主なおじ
藤原時平 藤原仲平 藤原忠平
主なおば
藤原温子(宇多天皇中宮)
主ないとこ
藤原保忠 藤原顕忠 藤原敦忠 藤原褒子(宇多上皇妃・京極御息所) 藤原仁善子(保明親王妃) 女子(克明親王妃) 女子(敦実親王妃) 女子(藤原実頼室)(以上、父は藤原時平)
藤原暁子(有明親王妃)(父は藤原仲平)
藤原実頼 藤原師輔 藤原師尹 藤原師氏 藤原寛子(重明親王妃・徽子女王の母)(以上、父は藤原忠平)
均子内親王(母は藤原温子)
☆兄弟姉妹とおい・めい
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
*克明親王 ○保明親王 *重明親王 *有明親王 ○朱雀天皇 *代明親王 *章明親王 *盛明親王 *源 高明 *兼明親王(源 兼明)
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
*勤子内親王 *雅子内親王 ○康子内親王 *勧子内親王 *英子内親王
主なおい・めい
源 博雅(父は克明親王)
慶頼王 熙子女王(父は保明親王)
昌子内親王(冷泉天皇皇后)(父は朱雀天皇)
徽子女王(斎宮・村上天皇女御)(父は重明親王)
源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王(村上天皇女御)・厳子女王(藤原頼忠室)・恵子女王(藤原伊尹室)(父は代明親王)
源 忠清・源 泰清・女子(藤原公季室)(父は有明親王)
源 伊陟(父は兼明親王)
源 俊賢・源 経房・女子(為平親王室)・源 明子(藤原道長室)(父は源 高明)
藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(藤原師輔室)(母は雅子内親王)
深覚・藤原公季(母は康子内親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
藤原安子(藤原師輔女) → 憲平親王(冷泉天皇) 守平親王(円融天皇) 為平親王 輔子内親王 資子内親王 選子内親王
藤原述子(藤原実頼女)
徽子女王(重明親王女) → 規子内親王(斎宮)
荘子女王(代明親王女) → 具平親王 楽子内親王(斎宮)
藤原芳子(藤原師尹女) → 昌平親王 永平親王
源 計子(源 庶明女) → 盛子内親王(藤原顕光室)
藤原祐姫(藤原元方女) → 広平親王
藤原正妃(藤原在衡女) → 昭平親王
藤原登子(藤原師輔女) *最初、重明親王の妃となり、親王の没後に入内し、「貞観殿尚侍と呼ばれた。
☆末裔たち
・その後の皇位継承について
村上天皇崩御後、皇位は憲平親王(冷泉天皇)、さらに守平親王(円融天皇)へ受け継がれ、その後は冷泉・円融天皇の皇子たちが交互に天皇となりましたが(花山天皇・一条天皇・三条天皇)、最終的には円融系の一条天皇の子孫たちが皇位を継承することとなります。
・為平親王の子孫
守平親王の兄でありながら、為平親王は天皇になることができませんでした。しかも舅であった源高明が安和二年(969)に安和の変で失脚し、親王も昇殿を止められ、再び昇殿が許されたのは安和の変の17年後でした。
それでも彼は、高明女との間に頼定・憲定・顕定(いずれも源姓を賜って臣籍に降下)、婉子女王(花山天皇女御・後に藤原実資室)・恭子女王(斉宮)・女子(具平親王室)といった子女をもうけました。ただ、源氏に降下した息子たちの子孫はあまり繁栄しなかったようですが…。
なお、憲定には、藤原頼通の室となって通房を生んだ女がいます。
・具平親王の子孫
為平親王の子孫とは対照的に子孫が大きく繁栄したのは具平親王の系統です。
具平親王には、前述の為平親王女との間に師房(源姓を賜って臣籍に降下)・隆姫女王(藤原頼通室)・女子(敦康親王妃)・(女専)子女王(斎宮)といった子女をもうけます。
師房は藤原尊子(藤原道長女)との間に俊房・顕房をもうけ、このうち顕房の子孫がいくつもの系統に分かれ、多数の大臣や大納言・中納言を輩出して後世まで繁栄しました。
なお、師房には、身分の低い雑仕女との間に頼成という息子がおり、彼は紫式部のいとこに当たる藤原伊祐の養子となりました。その頼成の女には、藤原頼通の室となって師実や後冷泉天皇中宮の寛子を生んだ祇子がいます。つまり、頼通の3人の室、隆姫女王・源憲定女・藤原祇子は3人とも、村上天皇の血を引く女性だったわけです。
・その他の子孫たち
藤原正妃の生んだ昭平親王の系統は藤原公任一家につながっています(「藤原高光とその子孫たち」参照)。
源計子の生んだ盛子内親王は藤原顕光の室となり、重家・元子(一条天皇女御)・延子(敦明親王妃)をもうけました。
このように、村上天皇の子孫は色々なところとつながっていて興味が尽きないです。
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