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平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
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班子女王 ~宇多天皇の母

2006-07-29 16:53:50 | 小説風歴史人物伝
 私は宇多天皇(867~931 在位887~897)という天皇が大好きです。一度臣籍に下って源姓を賜ったものの、思いがけず帝位につき、天皇時代は時の権力者藤原基経と対決し、菅原道真などの反藤原勢力を重く用いました。しかし突然退位して上皇となり、やがて出家……。晩年は政治とは無関係の風流人生を送ったと伝えられています。天皇時代は政治に熱中し、退位してからは遊興三昧…。そのギャップがすごい。そのあたりのことはいずれ、こちらの歴史人物伝で詳しく書いてみたいなと思っています。

 さて今回の人物伝では、その宇多天皇の母、班子女王を取り上げてみることにしました。そして、いつもとは試行を変え、班子女王ご自身にご自分の人生について語っていただく…というスタイルで書いてみました。

*当ブログの歴史記事全体に言えることなのですが、特にこの項に関しましては学術的な根拠や正確性については保証できません。「推論や妄想が入りまくりでも許せる。」という方だけお読み下さい。


宇多天皇の母、班子女王が語る「我が人生」

 私が時康親王さまと巡り会ったのは、十七、八くらいの時だったわ。時の帝、文徳邸の弟君だと聞いていたけれど、第一印象は「何かさえない方」という感じだったの。それはそうでしょう。文徳帝の母君は権力者藤原冬嗣さまの姫君の順子さま…。それに比べると時康親王さまの母君は藤原総継さまという、うだつの上がらない貴族の娘…。同じ兄弟でも月とすっぽんですものね。

 でも、親王さまは私のことが気に入ったらしく、しきりに文を下さるので、私も結婚を決意したわけなのよね。

 そして私たち、結構馬が合って、可愛い子供達が次々と産まれたわ。男4人、女4人の合計8人…。何よりもわが夫は優しくて誠実で、私のことを大切にして下さったのよね。

 夫や子供達と一緒に過ごす時間はもちろん幸せだったけれど、私が一番好きなのはやっぱり買い物と物詣で。七条の東の市や西の市で買い物をしていると時間を忘れたわ。だって市には、目を見張るほど珍しい物がたくさんあるのですもの。その珍しい物が自分の物になる瞬間って、たまらないのよね。
 清水寺にもしょっちゅう出かけていたの。ああ、あの頃は楽しかったわ~。私もまだ若かったし。

 そんな生活が一変したのは元慶8年のあの日…。その時の帝、陽成帝が内裏で殺人事変をおこし、関白藤原基経どのによって退位させられてしまったのよね。
 陽成帝はまだ若くて子供もなく、皇太子も定まっていなかったので、次の帝を誰にするか、公卿たちが会議で議論した結果、何と、何と、わが夫、時康親王さまが次の帝に決まったの。帝位なんて絶対回ってこないと思っていた55歳のわが夫が帝ですって!?最初この知らせを聞いたときは何が何だかわからなくてぼーっとしてしまったわ。

 でも冷静になって考えてみると、このことは基経どのが敷くんだ大芝居……ということがわかってきたの。
 実は我が夫と基経どのはいとこ同士…。お二人の母は、あのうだつの上がらなかった藤原総継様の娘で姉妹なのよね。
 そのようなわけで基経どのとわが夫は昔から仲が良かったの。基経どのはしょっちゅう、我が家に出入りしていたし…。
 でも私、どうも基経どののことが好きになれなかったのよね。理由はよくわからないけれど、何か虫が好かないというか…。それに、何を考えているかよくわからない、得体の知れないところがあるのよね。もしかすると基経どのは、おとなしいわが夫が帝なら、自分の思い通りに政治を動かせるかもしれない。そしてわが夫が邪魔になったらさっさと譲位させる気でいるのかも…。

 夫が踐祚することが決まったとき、私はこう言ってやったの。
「これは基経どのが仕掛けたわなかもしれないわ。あなたのお友達のことを悪く言って申し訳ないけれど、基経どのには気をつけて。」
 するとわが夫は、
「なーに、基経とはいとこ同士。それに昔なじみで気心の知れている仲。何とかなるさ。」
 夫にこう言われると、「それもそうだわ~」と思って安心してしまうのよね。このあたりが、私の脳天気な所なんだけど…。

 でもわが夫も用心深いところがあったのよね。自分の皇子をすべて、臣籍に降下させてしまったの。実はわが夫は、私以外にも何人かの奥さんがいたのよね。その一人が基経どのの娘だったのだけど、彼女にはまだ子供がいなかったの。そこで、基経どのの血を引いていない皇子を皇太子に立てることを避けるために、皇子をすべて臣籍に降下させたのだけど、私は「そこまでしなくても良いのに」と思ったわ。

 さて、夫の踐祚に伴い、私は従三位に叙され、「女御」と呼ばれることになったんだけど、宮中の暮らしは退屈でへきへきしたわ。買い物にも物詣でにも自由に行けないし…。そこで私、買い物のリストを作って気を紛らわせていたの。

 そうこうしているうちに、わが夫が、「御室に寺を建てる」と言い出したのよね。そこで、私は夫に連れられて寺が建つという候補地を見に御室に出かけたの。自然が豊かで静かなところだったわ。「ここにお寺が建ったら素敵!」と思った。それに、御室行きは、宮中暮らしに退屈さを感じていた私のいい気分転換だったわ。このお寺がのちに「仁和寺」と呼ばれることになるのよね。

 ところが夫は、踐祚してわずか3年、仁和寺の完成を見ずにあっけなく亡くなってしまったの…。そして、夫の皇太子は定まっていなかった。
 そこで基経どのがかつぎ出したのが、私が夫との間にもうけたわが子、定省だったのよね。

 実は定省は、基経どのの姉妹で子供のいない藤原淑子どのの猶子になっていたの。そこで基経どのは、「定省どのなら自分の思い通りに動かせる。」とでも思ったのでしょうね。

 でも、一度臣籍に下った者が皇太子になって踐祚するなんて前代未聞。なので基経どののこのやり方にはかなり異論があったみたい。「源定省が帝だなんて絶対に認めない。」という声もあったようね。
 おまけに「阿衡事件」というのも起こって…。女の私には、男君の書く難しい漢文のことはよくわからないけれど(私はやっぱり草子や和歌の方が好き!)定省から基経どのに出された詔の文書の中に「阿衡」という言葉があり、それが基経どのを怒らせる原因になったみたいなのよね。「阿衡」というのは高貴だけど実権は何もないという意味らしいわ。

 そんなこともあって定省はすっかり気落ちしてしまい、私の所に来て「帝をやめたい」と言ってきたの。「出家したい。」とも言ったわ。やはりこういう相談をするのは養母の淑子どのより実母の私の方が良かったのでしょうね。
 元々定省は頭が良くて利発な子なのだけれど、少々気が弱いところがあって…。それでいてなかなか自由奔放、熱しやすくて冷めやすい、そして脳天気でおっちょこちょいなところもある(これは私に似たのかも)という、複雑な性格なのよね。
 私、定省にこう言ってやったわ。
「しっかりしなさい!あなたは高貴な生まれなのよ。基経どのなんてただの臣下じゃないの。皇族の血なんて一滴も受けていやしない。それに比べるとあなたは父方も母方も皇族…。(私だって桓武の帝のれっきとした孫なのだから)基経どのが何を言おうと、気にすることなんてないわ。それから、30歳になるまで出家はしないでちょうだい。」
 それを聞いたとたん定省は、
「それもそうだな。もうしばらくは帝をやめないよ。」と言って納得してしまうあたり、やっぱり脳天気なのよね…。結局その時は、定省は位を降りなかったわ。

 そして間もなく、基経どのは亡くなったの。頭の上の重石が取れた定省は突然元気になり、政治に夢中になり出したわ。後世この時期のことを「寛平の治」と言っているみたいね。
 とにかく藤原氏の力がこれ以上強大にならないよう、菅原道真どののような反藤原勢力を重く用いていたみたいね。

 ところが、定省は踐祚してから10年経ったある日、「位を皇太子敦仁に譲る。」と私に言ってきたの。敦仁は定省と藤原胤子どのの間に産まれた皇子で、私の孫に当たるわけなのよね。
「敦仁も一人前になってきたから、そろそろ位を譲っても大丈夫だ。私は上皇となり、陰から敦仁を助けようかと思う。」
 確かに…、敦仁は定省に比べて気性が強く、帝王に向いているような気がしたわ。定省も早くからそれを見抜いていたのね、きっと。この頃はもう、阿衡事件の頃とは状況が違っていたのよね。なので私もその時は反対しなかったの。

上皇になった定省だけど、反藤原政策は続けていたみたい。故基経どのの息子達は、自分たちの姉妹の穏子どのを敦仁の妃にしようと画策していたようだけど、「そうはさせじ」と、定省は同母姉妹(つまり私の子)の為子を敦仁の妃に送り込んだこともその一つね。もっとも、為子に「敦仁と結婚するように」と説得したのは私なんだけど…。

 そう言えば私はその頃、親戚の子のために一肌脱いだのよね。私の甥の息子、平貞文…、後世の人は「平中」とか言っているみたいだけど、色好みとか、遊び好きとか言われているけれど、できの悪い子は私にとっては可愛いのよね。その貞文、一時官位を剥奪されてしまったの。理由は色々あるようだけど、どうやら基経どのの長男時平どのと恋敵になってしまったことが大きな理由だったみたいね。それで私、貞文の復官を定省と敦仁に懇願したの。二人とも私の願いを受けざるを得なかったみたい。私は今生の祖母、上皇の母ですもの。そのくらいの力はあります。

 聞くところによると敦仁は最近、その時平どのを重く用いているとか…。敦仁にとっては、年を取って説教くさい道真どのより、若くてきびきびした時平どのの方が気が合うみたい。やっぱり藤原氏の力は侮れないかも…。私は時平どのよりも弟君の忠平どのの方が明るくて誠実そうで好きなのだけど。忠平どのが大臣・関白になればこの国の政治ももっと良くなるような気がするのよね。それに比べると時平どのは何を考えているかわからない。自分の権力欲のためなら何でもやってしまいそうな気がする。うーん、これからの敦仁のことはちょっと心配。

 でもこれだけは言えそう。藤原氏は何があっても臣下。皇族の誰を帝にするかを決めたり、その帝を退位させたりすることはできても、絶対にこの国の帝そのものにはなることができないのよ。
 帝位などとうてい望めなかったわが夫、時康親王さまが踐祚したことは思いがけない出来事だったけれど、私の役目は親王さまの子を生み、皇族を反映させることだったのかもしれないわ。そしてこれからの歴代の帝には私と親王さまの血が脈々と受け継がれていく。千年後もずっと…。それだけは確かなことだわ。

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☆班子女王プロフィール
 生没年 833?~900 光孝天皇の女御 後に皇太后
 父・仲野親王(桓武天皇の皇子) 母・当麻氏
 若い頃に仁明天皇第三皇子時康親王に嫁し、四男四女をもうける。
 元慶八年(884)、時康親王が踐祚して光孝天皇となったことに伴い女御となる。
 仁和三年(887) 光孝天皇崩御。臣籍に下って源姓を賜っていた息子定省が皇族に復帰して踐祚。つまり宇多天皇である。宇多天皇踐祚に伴い皇太后となる。
 寛平九年(897) 宇多天皇退位。皇子敦仁が醍醐天皇として踐祚。
 班子女王は天皇の母・祖母として特別待遇を受け、平穏な晩年を送ったものと思われる。


☆付記
 私の中での班子女王は、「明るくて社交的でユーモラスな性格の人物」です。それで、彼女のそんな明るいキャラクターを表に出したくて、あえてこのような形にさせていただきました。
 なのでこの項は私の推察や妄想がかなり入っています。
 そこで、自分が感じている班子女王のイメージと違う」と思われた方もたくさんいらっしゃるかもしれません。辛口な反応も来そうでちょっと怖いです(ドキドキ)。
 そのようなわけでこの項は、小説を読むような軽い気持ちで読んで頂けましたら幸いです。

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