お買い物のあとは、なぎさん、ろすまりんさんと一緒に、京都文化博物館の周りの平安時代・源氏物語関連の邸宅巡りに出かけました。と言っても遺跡はほとんど残っておらず、案内板や石碑のみがその痕跡を伝えているだけなのですが、色々妄想できて楽しかったです。
ではまず、現在、京都文化博物館が建っているあたりにはどんな邸宅が建っていたのかを紹介しますね。
京都文化博物館の建っている場所は平安京の住所でいうと、北側を姉小路(現在の姉小路通)、西を東洞院大路(現在の東洞院通)、南を三条大路(現在の三条通)、東を高倉小路(現在の高倉通)に面した左京三条四坊四町になります。
このあたりは、「源氏物語」では、紫の上の祖父、按察使大納言の邸宅(紫の上が光源氏の二条院に引き取られるまでを過ごした邸宅)があった場所だそうです。「若紫」の巻に、光源氏が、紫の上の祖母を見舞う場面や、その祖母を失ったばかりの紫の上を訪ね、強引に彼女の御帳台に入って添い寝をするという場面がありますが、ここが舞台だったのですよね。
また、薫が浮舟を引き取るために用意させていた三条の邸宅がここだったという説もあるそうです。
史実では、平安末期に以仁王の御所、高倉宮があった場所として知られています。その高倉宮に関してはのちに述べるとして、まず京都文化博物館のあった所から姉小路(現在の姉小路通)を挟んだ北隣にあったとされる在原業平の邸宅に行ってみました。
在原業平(825~880)
平安時代の歌人、六歌仙の一人。平城天皇の皇子、阿保親王の五男として生まれ、2歳で在原の姓を賜って臣籍に降下しました。言わずと知れた「伊勢物語」の主人公に擬せられている人物で、二条の后藤原高子や、斎宮恬子内親王との恋で有名です。最終官職は従四位上右近衛権中将美濃守。
そんな在原業平の邸宅は、西に東洞院大路(現在の東洞院通)、北に三条坊門小路(現在の御池通)、東に高倉小路(現在の高倉通)に囲まれた左京三条四坊三町にありました。邸宅の場所を示す案内板は御池通沿いに建っています。
在原業平は大好きな人物なので、彼の邸宅に来ることができて幸せでした。(^^)
なお、ここから南にまっすぐ1キロあまり行った所にあったのが、当時、藤原高子がおばの藤原順子と住んでいた東五条第で、業平と高子のロマンスの舞台になった邸です。
さて、在原業平の邸宅から御池通を挟んだ北側、東を高倉小路(現在の高倉通)、北を押小路(現在の押小路通)、西を東洞院大路(現在の東洞院通)に囲まれた左京三条四坊二町は、「源氏物語」の女三の宮の三条宮があった場所とされています。女三の宮は光源氏の死後にここに移り、仏道三昧の日々を送ったとされています。そして、女三の宮の息子の薫も、ここに住んでいたということです。
史実では、一条天皇の中宮(のちに皇后)の定子が、敦康親王と(女美)子内親王を生んだ竹三条宮があった場所です。ここは定子中宮の中宮大進、平生昌の邸宅で、「枕草子」に、定子中宮の行啓の際、中宮の入る東門は立派な四足門にしてあったのに、女房の入る北門は狭すぎて車が入らず、女房たちは仕方なく車から降り、歩いて邸の中に入らなければならなかった話が記述されています。
さて、このあたりでまた、京都文化博物館の方に戻ってみましょう。博物館のそばには、以仁王の高倉宮があった場所を示す石碑が建っています。
この高倉宮は、後白河天皇の第三皇子、以仁王の御所でした。ここは元々、権大納言藤原季成(藤原公実の子)の邸宅で、後白河天皇の寵愛を受けた娘の成子の里第でした。成子は後白河天皇との間に以仁王を初めとする6人の子をもうけました。しかし、皇子の一人は仁和寺へ入り、皇女たちは斎宮や斎院に僕定めされ、以仁王も一時園城寺に入っていましたが還俗したため、この邸に残ったのは結局、以仁王だけでした。そのため、以仁王の御所となったわけです。
以仁王は治承四年(1180)五月、源頼政とともに平家打倒の兵を挙げました。当然、高倉宮にて挙兵計画が立てられたと考えられます。この挙兵は失敗に終わるのですが、以仁王の「平家を打て」という令旨は、諸国の源氏を立ち上がらせるきっかけとなりました。つまり、壇ノ浦合戦へと続く源平合戦はここから始まったとも言えそうです。そう考えると、高倉宮址は歴史を変えた重要な場所なのですよね。
さて、高倉宮址から東洞院大路(現在の東洞院通)を渡った西側、北を姉小路(現在の姉小路通)、西を烏丸小路(現在の烏丸通)、南を三条大路(現在の三条通)に囲まれた左京三条三坊十三町は、白河法皇の御所、三条東殿があった場所です。
ここは元々、播磨守藤原家保の邸宅で、彼が白河法皇の命で造進したものです。これは、家保の祖母が法皇の乳母、藤原親子であったことが関係しているようです。
三条東殿はその後、法皇の養女で鳥羽天皇の中宮であった待賢門院璋子に伝領され、さらに彼女処生の統子内親王(のちの上西門院)に受け継がれました。たびたび火災にもあいましたが、平治の乱の斎、源義朝の襲撃を受けたことは、「平治物語絵巻」にも描かれて有名です。
そして更に西に向かい、烏丸小路(現在の烏丸通)を渡った所、平安京の住所で言うと、北を姉小路(現在の姉小路通)、西を室町小路(現在の室町通)、南を三条大路(現在の三条通)に囲まれた左京三条三坊十二町にあったのがやはり白河法皇の御所、三条西殿です。烏丸通りを渡って地下鉄烏丸御池駅を少し南に下がったところに石碑も建っていました。
三条西殿は元々、白河法皇近臣の藤原基隆から法皇に進上されたものです。その後は待賢門院璋子の行啓も多く、彼女の里第のような形になっていました。璋子が顕仁親王(のちの崇徳天皇)を出産したのもこの御所です。
璋子は先にも書いたように白河法皇の養女となり、鳥羽天皇の中宮となった女性ですが、白河法皇ともただならぬ関係だと噂されました。そのため、顕仁親王は法皇の子だという説もあります。それでも法皇の生存中は鳥羽天皇との仲もうまく行っていたらしく、璋子はこの御所の寝殿に、白河法皇は西の対に、崇徳天皇に譲位して上皇となった鳥羽上皇は東の対に住んでいたこともあったようです。
法皇の崩御後は東殿と同様に璋子や統子内親王に伝領されますが、長承元年(1132)に消失、康治2年(1143)に再建されますが2ヶ月後に再び消失してしまいます。その後30年近く再建されなかったのですが、承安二年(1172)に藤原成親の功によって再建、後白河上皇と建春門院滋子の御所となりました。このように三条西殿は、院政期の三代の上皇と、女院たちが住んだ重要な邸宅だったのですよね。
こうして平安邸宅巡りを終え、地下鉄の烏丸御池駅より地下鉄にて京都駅に向かった私たちです。短い間でしたが、平安邸宅巡りができて嬉しかったです。今度こちらに来ることがあったらまた色々妄想できそうです。案内して下さったなぎさん、改めましてどうもありがとうございました。
参考文献
「平安時代史事典 CD-ROM版」 古代学協会 古代学研究所・編 角田文衞監修 角川学芸出版
「京都源氏物語地図」 社団法人紫式部顕彰会・編纂 角田文衞・監修 加納重文・編集責任 思文閣出版
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ではまず、現在、京都文化博物館が建っているあたりにはどんな邸宅が建っていたのかを紹介しますね。
京都文化博物館の建っている場所は平安京の住所でいうと、北側を姉小路(現在の姉小路通)、西を東洞院大路(現在の東洞院通)、南を三条大路(現在の三条通)、東を高倉小路(現在の高倉通)に面した左京三条四坊四町になります。
このあたりは、「源氏物語」では、紫の上の祖父、按察使大納言の邸宅(紫の上が光源氏の二条院に引き取られるまでを過ごした邸宅)があった場所だそうです。「若紫」の巻に、光源氏が、紫の上の祖母を見舞う場面や、その祖母を失ったばかりの紫の上を訪ね、強引に彼女の御帳台に入って添い寝をするという場面がありますが、ここが舞台だったのですよね。
また、薫が浮舟を引き取るために用意させていた三条の邸宅がここだったという説もあるそうです。
史実では、平安末期に以仁王の御所、高倉宮があった場所として知られています。その高倉宮に関してはのちに述べるとして、まず京都文化博物館のあった所から姉小路(現在の姉小路通)を挟んだ北隣にあったとされる在原業平の邸宅に行ってみました。
在原業平(825~880)
平安時代の歌人、六歌仙の一人。平城天皇の皇子、阿保親王の五男として生まれ、2歳で在原の姓を賜って臣籍に降下しました。言わずと知れた「伊勢物語」の主人公に擬せられている人物で、二条の后藤原高子や、斎宮恬子内親王との恋で有名です。最終官職は従四位上右近衛権中将美濃守。
そんな在原業平の邸宅は、西に東洞院大路(現在の東洞院通)、北に三条坊門小路(現在の御池通)、東に高倉小路(現在の高倉通)に囲まれた左京三条四坊三町にありました。邸宅の場所を示す案内板は御池通沿いに建っています。
在原業平は大好きな人物なので、彼の邸宅に来ることができて幸せでした。(^^)
なお、ここから南にまっすぐ1キロあまり行った所にあったのが、当時、藤原高子がおばの藤原順子と住んでいた東五条第で、業平と高子のロマンスの舞台になった邸です。
さて、在原業平の邸宅から御池通を挟んだ北側、東を高倉小路(現在の高倉通)、北を押小路(現在の押小路通)、西を東洞院大路(現在の東洞院通)に囲まれた左京三条四坊二町は、「源氏物語」の女三の宮の三条宮があった場所とされています。女三の宮は光源氏の死後にここに移り、仏道三昧の日々を送ったとされています。そして、女三の宮の息子の薫も、ここに住んでいたということです。
史実では、一条天皇の中宮(のちに皇后)の定子が、敦康親王と(女美)子内親王を生んだ竹三条宮があった場所です。ここは定子中宮の中宮大進、平生昌の邸宅で、「枕草子」に、定子中宮の行啓の際、中宮の入る東門は立派な四足門にしてあったのに、女房の入る北門は狭すぎて車が入らず、女房たちは仕方なく車から降り、歩いて邸の中に入らなければならなかった話が記述されています。
さて、このあたりでまた、京都文化博物館の方に戻ってみましょう。博物館のそばには、以仁王の高倉宮があった場所を示す石碑が建っています。
この高倉宮は、後白河天皇の第三皇子、以仁王の御所でした。ここは元々、権大納言藤原季成(藤原公実の子)の邸宅で、後白河天皇の寵愛を受けた娘の成子の里第でした。成子は後白河天皇との間に以仁王を初めとする6人の子をもうけました。しかし、皇子の一人は仁和寺へ入り、皇女たちは斎宮や斎院に僕定めされ、以仁王も一時園城寺に入っていましたが還俗したため、この邸に残ったのは結局、以仁王だけでした。そのため、以仁王の御所となったわけです。
以仁王は治承四年(1180)五月、源頼政とともに平家打倒の兵を挙げました。当然、高倉宮にて挙兵計画が立てられたと考えられます。この挙兵は失敗に終わるのですが、以仁王の「平家を打て」という令旨は、諸国の源氏を立ち上がらせるきっかけとなりました。つまり、壇ノ浦合戦へと続く源平合戦はここから始まったとも言えそうです。そう考えると、高倉宮址は歴史を変えた重要な場所なのですよね。
さて、高倉宮址から東洞院大路(現在の東洞院通)を渡った西側、北を姉小路(現在の姉小路通)、西を烏丸小路(現在の烏丸通)、南を三条大路(現在の三条通)に囲まれた左京三条三坊十三町は、白河法皇の御所、三条東殿があった場所です。
ここは元々、播磨守藤原家保の邸宅で、彼が白河法皇の命で造進したものです。これは、家保の祖母が法皇の乳母、藤原親子であったことが関係しているようです。
三条東殿はその後、法皇の養女で鳥羽天皇の中宮であった待賢門院璋子に伝領され、さらに彼女処生の統子内親王(のちの上西門院)に受け継がれました。たびたび火災にもあいましたが、平治の乱の斎、源義朝の襲撃を受けたことは、「平治物語絵巻」にも描かれて有名です。
そして更に西に向かい、烏丸小路(現在の烏丸通)を渡った所、平安京の住所で言うと、北を姉小路(現在の姉小路通)、西を室町小路(現在の室町通)、南を三条大路(現在の三条通)に囲まれた左京三条三坊十二町にあったのがやはり白河法皇の御所、三条西殿です。烏丸通りを渡って地下鉄烏丸御池駅を少し南に下がったところに石碑も建っていました。
三条西殿は元々、白河法皇近臣の藤原基隆から法皇に進上されたものです。その後は待賢門院璋子の行啓も多く、彼女の里第のような形になっていました。璋子が顕仁親王(のちの崇徳天皇)を出産したのもこの御所です。
璋子は先にも書いたように白河法皇の養女となり、鳥羽天皇の中宮となった女性ですが、白河法皇ともただならぬ関係だと噂されました。そのため、顕仁親王は法皇の子だという説もあります。それでも法皇の生存中は鳥羽天皇との仲もうまく行っていたらしく、璋子はこの御所の寝殿に、白河法皇は西の対に、崇徳天皇に譲位して上皇となった鳥羽上皇は東の対に住んでいたこともあったようです。
法皇の崩御後は東殿と同様に璋子や統子内親王に伝領されますが、長承元年(1132)に消失、康治2年(1143)に再建されますが2ヶ月後に再び消失してしまいます。その後30年近く再建されなかったのですが、承安二年(1172)に藤原成親の功によって再建、後白河上皇と建春門院滋子の御所となりました。このように三条西殿は、院政期の三代の上皇と、女院たちが住んだ重要な邸宅だったのですよね。
こうして平安邸宅巡りを終え、地下鉄の烏丸御池駅より地下鉄にて京都駅に向かった私たちです。短い間でしたが、平安邸宅巡りができて嬉しかったです。今度こちらに来ることがあったらまた色々妄想できそうです。案内して下さったなぎさん、改めましてどうもありがとうございました。
参考文献
「平安時代史事典 CD-ROM版」 古代学協会 古代学研究所・編 角田文衞監修 角川学芸出版
「京都源氏物語地図」 社団法人紫式部顕彰会・編纂 角田文衞・監修 加納重文・編集責任 思文閣出版
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