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平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
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閑院流藤原氏の系譜 第3回

2007-06-22 09:39:23 | 系譜あれこれ
 お手数ですが、「閑院流藤原氏の系譜 第1回」「閑院流藤原氏の系譜 第2回」からお読み下さい。


 今回は、藤原実行・藤原通季・藤原実能と、彼らが祖となった閑院流藤原氏の3つの系統、三条家・西園寺家・徳大寺家についてお話ししたいと思います。

藤原公実

藤原実行・藤原通季・藤原実能

1.藤原実行と三条家

☆藤原実行(1080~1162)

 藤原公実の二男。母は藤原基貞女。

 寛治七年(1093)に叙爵し、天永二年(1111)正月、異母弟通季とともに鳥羽天皇の蔵人頭に輔せられ、永久三年(1115)四月、通季と同時に正四位下参議となりました。続いて保安三年(1122)、権中納言に昇進します。

 大治二年(1127)兄実隆が死去、続いて翌年には十歳年下ながら、当時官位では上位(当時、実行は従三位、通季は正三位)にあった通季が死去したため、実行は閑院流嫡流の地位を占めることとなります。天承元年(1131)権大納言、久安五年(1149)七月右大臣、そして翌六年八月には太政大臣に昇進します。

 歌人としても知られ、しばしば歌合わせを催しています。『金葉』以下の勅撰集に13首が入集しています。

 なお、藤原実定がライバル心を燃やしていた藤原実長は、実行の孫(実行の二男公行の子)に当たります。

☆三条家について

 実行を祖とする藤原氏閑院流の家で、清華家(太政大臣にまで昇ることの出来る家。摂関家に次ぐ家格)の一つです。

○家名の由来
 三条北、高倉東に第宅、三条高倉第があり、実行がこの邸宅を所有していました。「三条」という家名はこの邸宅の名前に由来するものです。
 三条高倉第は実行の一男、公教に伝えられ、さらにその子孫に伝領されていきました。

○末裔と分家
 公教のあとは実房が継ぎ、その後裔からは多くの大臣・納言が輩出されました。後に正親町三条・三条西などの分家にも分かれます。

 そして、三条家のはるか後裔に三条公頼がおり、その娘が武田信玄の正室の三条の方(三条夫人)です。

○三条の方(円光院)(1521?~1570)

 甲斐の守護大名、武田信玄の正室。

 藤原公頼の二女として京都で生まれ、天文五年(1536)、駿河の守護大名今川義元の媒酌で武田晴信(後の信玄)と結婚します。信玄との間に義信、龍宝、黄梅院(北条氏政夫人)などをもうけました。信玄との仲はかなり良好だったようですが、義信は謀反の疑いをかけられて切腹、龍宝は失明、黄梅院は離縁ののちに早逝と不運が続きました。元亀元年(1570)、信玄に先立って病没しました。

 小説やドラマの影響で憎まれ役になることが多い三条の方ですが、乱世をたくましく生き抜いた女性だったといえそうです。信仰が厚く、穏和な性格であったという記録も残っているそうですので、今年の大河ドラマ「風林火山」の三条夫人が案外、実像に近いかもしれませんね。


2.藤原通季と西園寺家

☆藤原通季(1090~1128)

 藤原公実の三男。母は藤原隆方女の光子(堀河・鳥羽両天皇の乳母)。藤原実能・待賢門院藤原璋子の同母兄になります。

 承徳二年(1098)に叙爵し、永久三年(1115)正四位下参議、同五年従三位に叙されます。元永元年(1118)、妹璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権大夫に補され、次いで待賢門院別当に補されました。

 保安三年(1122)権中納言、翌年左衛門督を兼ね、大治三年(1128)正月に正三位に叙されますが、六月病により薨じました。日記『通季卿記』を遺しました。

 彼は璋子の同母兄ということもあり、中宮権大夫になったり、兄の実行より官位が上になったりしていますが、若くして病没してしまいました。もっと長生きしていたら当然、大臣に昇進していたでしょうし、実行ではなく通季が閑院流の嫡流になっていたかもしれません。

☆西園寺家について

 藤原通季を祖とする閑院流藤原氏の家で、清華家の一つ。

○家名の由来
 通季の曾孫である公経が、山城国葛野郡の北山の地に営んだ寺院、西園寺に由来します。この土地は後に足利義満に譲られ金閣寺となりました。西園寺は、現在は京都市上京区寺町に所在しています。

 余談ながら、2007年3月に当ブログで紹介した小説「新とはずがたり」のラストの方に西園寺実兼の北山の別荘「西園寺」が登場しますが、ここが現在の金閣寺のある場所です。私は金閣寺を訪れると、足利義満のことではなく、「新とはずがたり」の西園寺の別荘が舞台になっている各場面を思い出してしまいます。

○末裔と分家
 百人一首の96番目の歌「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」の作者、西園寺公経は前述した通り、通季の曾孫に当たります。
 公経は頼朝の姪(藤原能保と、頼朝の姉との間に生まれた女)を妻にしていた関係で鎌倉幕府との縁が強く、そのため朝廷からにらまれ、承久の変の際、息子の実氏とともに幽閉されてしまいます。しかし承久の変は鎌倉幕府方の勝利に終わり、公経は幕府の信頼を得て関東申次に任じられ、西園寺家は代々、この役職を世襲することとなります。なお、「とはずがたり」に登場する実兼は実氏の孫に当たります。

 また、後深草・亀山両天皇の母(女吉)子、後深草天皇中宮の公子姉妹は実氏の娘になります。このように西園寺家は、幕府だけでなく、朝廷との関係も強めていったようです。後に大宮・洞院・正親町・室町などの分家が分かれました。


3.藤原実能と徳大寺家

☆藤原実能(1096~1157)

 藤原公実の四男。母は藤原隆方女の光子(堀河・鳥羽両天皇の乳母)。前述の藤原通季は同母兄、待賢門院璋子は同母妹。

 長治元年(1104)に叙爵し、元永元年(1118)、同母妹璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権亮、次いで待賢門院別当に補されます。
 保安二年(1121)従三位参議、その後権中納言に進み、長承二年(1133)に摂関家の藤原頼長を娘幸子の婿として勢力の伸張を図ります。待賢門院の同母兄であることと同時に、摂関家の姻戚となったことも、彼の昇進に有利に働いたと思われます。それを裏付けるように彼は、保延二年(1136)に正二位権大納言に進み、大納言を経て久安六年(1150)には内大臣となりました。

 しかし、久寿二年(1155)六月、幸子が逝去すると頼長から離れて鳥羽上皇・美福門院に接近し、東宮傅に補されます。この頃、頼長は鳥羽上皇の信頼を失い、世間からの評判も悪くなり、失脚も時間の問題…という状態でしたので、実能にとっては、「このまま頼長についていたら自分の身が危ない。」と感じていたのかもしれません。娘に先立たれたことは悲しく思いながら、頼長から離れる良い機会…とほっとしていた気持ちもあったのでしょうね。

 そのようなわけで、翌年七月に起こった保元の乱では後白河天皇方につき、九月左大臣に任じられ、「徳大寺左大臣」と称されました。次いで保元二年(1157)正月従一位に叙されますが、七月病を得て出家し、九月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨じました。法名真理。日記『実能記』を遺しました。

 歌人としても有名で、在俗時代の西行が家人として仕え、出家後も永く親交を結んでいたようです。(『山家集』等)

 実能を調べてみて思ったのですが、何か、兄弟の中で一番世渡り上手だという印象を受けました。

☆徳大寺家について

 藤原実能を祖とする閑院流藤原氏の家で、清華家の一つ。

○家名の由来
 閑院流の祖、公季の子である実成は、衣笠山の南西麓(現在、このあたりは竜安寺となっています)に山荘を構え、ここに寺院を営み、これを徳大寺と呼んでいたようです。この山荘と寺院は、公成、公実を経て実能に伝領され、そのため彼の家系は、「徳大寺」と呼ばれるようになります。

○末裔
 実能には前述した幸子のほか、育子・公能といった子供達がいます。

 このうち育子は、二条天皇の後宮に入内し中宮となりました。

 また、公能は正二位右大臣にまで昇進し、その子には後白河天皇中宮の忻子、跡徳大寺左大臣と呼ばれた実定、「二代の后」と呼ばれた多子がいます。また、実能・公能・実定は三代続けて歌人として有名です。

 こうして徳大寺家は、摂関家に次ぐ清華家として多くの大臣・納言を輩出し、他の閑院流の家、三条家や西園寺家とともに明治維新まで続きました。

        ー閑院流藤原氏の系譜 終わり


☆この項を書くに当たって、主に「平安時代史事典 CD-ROM版」を参考にしましたが、三条の方の項に関しましては、『図解 山本勘助と武田一族の興亡(童門冬二著・PHP研究所)』円光院ホームページ様等を参考にしました。

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