平安夢柔話

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第60代 醍醐天皇

2008-07-12 10:34:12 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  885~930
☆在位期間 897~930
☆両親
 父・宇多天皇 母・藤原胤子(藤原高藤女)

☆略歴
 宇多天皇の第一皇子。名は初め維城と言い、後に敦仁と改めました。寛平五年(893)に皇太子に立てられ、その4年後に13歳で践祚しました。これは、先帝の宇多天皇が形の上では院政を執り行おうとして譲位したためです。以後、33年にわたって帝位についていたのですが、平安時代の天皇では最も在位期間が長い天皇となりました。

 醍醐天皇は最初、父の宇多天皇の訓戒に従い、藤原時平と菅原道真を重く用いました。そのため時平を左大臣に、道真を右大臣に任じて、親政の両翼として政務を推進させていました。

 しかし権門の時平は、寒門であるのに宇多上皇の強力な推挙で昇進した道真を苦々しく思い、延喜元年(901)正月、醍醐廃帝とこれに代わって女婿の斉世親王(醍醐の弟)を帝位につけようと企てたという讒訴により道真を大宰権帥に流してしまいます。その後の政界は、時平が天皇を支えるという形で主導権を撮り、種々の改革を行いました。時平が薨じたあとは、その弟忠平が廟堂を掌握して醍醐親政を支えました。

 醍醐天皇は生まれつき英明で、その治世は「延喜の治」と称されました。また、醍醐天皇の御代には文化事業が大変盛んでした。

・醍醐天皇御代に手がけられた文化事業
①『日本三代実録』 五十巻 国史編纂事業として時平らに命じて撰進させた六国史の最後を飾る史書
②『延喜格』十二巻、『延喜式』五十巻 時平・三善清行・紀長谷雄らが関わった格式の編纂。
③『古今和歌集』 紀貫之・友則らに命じて編纂させた日本最古の勅撰和歌集。

 天皇自ら和歌に優れ、『後撰』278以下の勅撰和歌集に四十首余りが収められています。その他『風土記』の再編修なども行いました。
 また、天皇は大変勉強家で、『漢書』『後漢書』を三善清行や紀長谷雄から学び、大江千古には『白氏文集』の教えを受けました。詩歌を物し、その作品も多く遺し、ほかに『醍醐天皇御記』という日記も遺しました。和漢の文化に通じたオールマイティーな天皇という印象を受けます。

 延長八年(930)秋、病を得て出家、8歳の皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位。九月二十九日に崩御しました。享年四十六。


☆父方の親族

祖父・光孝天皇 祖母・班子女王(仲野親王皇女)

主なおじ
 是忠親王・是貞親王・源 国紀

おもなおば
 為子内親王(醍醐天皇妃)・綏子内親王(陽成天皇妃)・繁子内親王(伊勢斎王)・源 和子(醍醐天皇女御)

主ないとこ
 興我王 源 宗于*百人一首28番目の歌の作者(以上、父は是忠親王)
 源 公忠*三十六歌仙の一人(父は源 国紀)


☆母方の親族

祖父・藤原高藤 祖母・宮道列子(宮道弥益女)

主なおじ
 藤原定方 藤原定国

主ないとこ
 藤原朝忠・藤原朝成・藤原朝頼・女(藤原兼輔室)・藤原能子・女(代明親王妃)・女(藤原師尹室)・女(藤原雅正室) 以上、父は藤原定方
 藤原和香子(父は藤原定国)

その他、こんな方も!
 母、藤原胤子のいとこ=藤原兼輔(紫式部の曾祖父)


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟、*は異母兄弟
 ○敦実親王 ○敦慶親王 ○敦固親王 *斉中親王 *斉世親王 *斉邦親王 *行明親王

主な姉妹(○は同母姉妹、*は異母姉妹
 ○柔子内親王(伊勢斎王) *均子内親王(敦慶親王妃) *君子内親王(賀茂斎院)

主なおいとめい
 源 雅信・源 重信(父は敦実親王)
 中務(父は敦慶親王)
 源 庶明(父は斉世親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原穏子(藤原基経女) → 保明親王・寛明親王(朱雀天皇)・成明親王(村上天皇)・康子内親王(藤原師輔室)

 為子内親王(光孝天皇皇女) → 勧子内親王

 藤原能子(藤原定方女) *のちに敦慶親王、敦実親王、藤原実頼と通じる。

藤原和香子(藤原定国女)

 源 和子(光孝天皇皇女) → 常明親王・式明親王・有明親王・慶子内親王・韶子内親王・斉子内親王

 藤原桑子(藤原兼輔女) → 章明親王

 藤原淑姫(藤原菅根女) → 兼明親王(源 兼明)・源 時明・英子内親王(伊勢斎王)

 源 周子(源 唱女) → 源 高明・盛明親王・勤子内親王(藤原師輔室)・雅子内親王(伊勢斎王・藤原師輔室)

 藤原鮮子(藤原連永女) → 代明親王

 源 封子(源 旧鑑女) → 克明親王

 源 昇女 → 重明親王


☆末裔たち

・その後の皇位継承について
 醍醐天皇の皇太子にまず立てられたのは、第一皇子の保明親王でした。ところが保明親王は923年、父帝に先だって21歳の若さで世を去ってしまいます。そこで、保明親王の子、慶頼王が皇太孫に立てられるのですが、彼もまた、925年に5歳で亡くなりました。これらの不幸は、菅原道真の怨霊のせいだと噂されました。

 そのような中、次に皇太子に立ったのが保明親王の20歳年下の同母弟、寛明親王でした。彼は醍醐天皇の譲位後に朱雀天皇として践祚しました。朱雀天皇の次に帝位についたのは3歳年下の同母弟の成明親王、つまり村上天皇です。帝位はその後、この村上天皇の子孫によって受け継がれていきます。

・源 高明の子孫
 醍醐天皇の子孫たちには、臣籍に降下して源姓を賜った方がとても多いですが、男系の子孫が一番栄えたのは源高明の子孫だと思います。しかし私は、高明の子孫すべてを把握しているわけではないので、有名な方のみを紹介させていただきたいと思います。

 高明は源氏に降下して左大臣にまで昇進した人物ですが、969年に起こった安和の変で失脚し、太宰府に左遷されてしまいました。後に赦されて都に戻ってきたものの、失意のうちに世を去ります。

 そんな高明の子供たちには、源 俊賢(四納言の一人と称された有能な人物)、源 経房(道長に我が子のようにかわいがられました。)、源 明子(道長の室)、女子(為平親王妃)などがいました。

 このうち俊賢の系統が、有能な公卿を輩出して栄えていきます。有名な方としては、俊賢の子で「宇治大納言物語」を編集した隆国、隆国の子で閑院流の藤原公実の関白就任を阻止した俊明、確証はありませんが『鳥獣戯画』を描いたと伝えられている鳥羽僧正覚猷などがいます。

 一方、明子は藤原道長の室となり、頼宗、能信、顕信、長家、寛子(小一条院敦明親王妃)、尊子(村上源氏の源師房室)をもうけました。頼宗の子孫は中御門家、長家の子孫は御子左家となります。このように明子の血統は藤原氏や村上源氏にしっかりと受け継がれています。為平親王の妃となった女は、源頼定や恭子女王(伊勢斎王)、婉子女王(花山天皇女御・藤原実資室)などの母となりました。一見男系が目立っていますが、高明流の女系もしっかりと繁栄したのですよね。

・代明親王の子孫
 男系が繁栄した高明流に対し、女系が繁栄したのが代明親王の子孫ではないでしょうか。

 代明親王の子供たちには、臣籍に下って源姓を賜った重光、保光、延光、そして荘子女王、厳子女王、恵子女王がいます。このうち娘たちの血がそれぞれ、村上源氏や、藤原公任や行成の家につながっていきます。男系も思いがけないところとつながっていてなかなか面白いです。詳しくは当ブログ内の「代明親王の子孫たち」のページをご覧下さいませ。

・有明親王の子孫
 有明親王の子供たちには、臣籍に降下して源姓を賜った忠清、泰清、そして昭子女王、藤原公季の室となった女などがいます。

 このうち泰清は、四納言の一人、藤原行成の妻の父です。昭子女王は兼通との間に朝光をもうけました。藤原公季の室となった女は公季との間に実成をもうけ、彼女の血は閑院流藤原氏の子孫たちに受け継がれていくこととなります。

・雅子内親王の子孫
 雅子内親王は藤原師輔の室となり、高光、為光、尋禅、愛宮をもうけました。

 このうち高光の子孫については、当ブログの「藤原高光とその子孫たち」をご覧下さいませ。思いがけないところとつながっていて興味深いです。

 為光の子供たちには、誠信、斉信(四納言の一人)、公信、道信、(女氏)子(花山天皇女御)、中関白家事件と関わった三の君や四の君などがいます。

 愛宮は源 高明の室となり、経房や明子の母となりました。このうち明子の子孫に関しては本記事の源 高明の子孫の項をご覧下さいませ。

・康子内親王の子孫
 康子内親王は雅子内親王の没後、藤原師輔の室となり、師輔との間に深覚、公季をもうけます。つまり公季の子孫である閑院流藤原氏は、有明親王の女と共に、醍醐天皇の子孫の血が色濃く流れているのですよね。

・以下、その他の醍醐天皇の子孫のうち、有名な方や個性的な方を挙げておきます。

 源 博雅(克明親王の子) そうです、「陰陽師」に登場するあの博雅さんです。笛の名手として有名です。

 徽子女王(重明親王の女) 朱雀天皇御代の伊勢斎王。斎王退下後は村上天皇の女御となり、規子内親王をもうけました。規子内親王は後に円融天皇御代の伊勢斎王に卜定されるのですが、徽子女王はその際、娘に付き従って再び伊勢に下向しています。

 済子女王(章明親王の女) 花山天皇御代の伊勢斎王に卜定されますが、野宮にての滝口武士、平致光との密通が露見し、伊勢に行かずに斎王を退下しました。

 煕子女王(保明親王の女) 朱雀天皇の女御となり、昌子内親王(冷泉天皇皇后)をもうけました。

 この他、源姓を賜って左大臣にまで昇進しながら、藤原兼通の謀略によって二品の親王に戻されてしまった兼明親王と、彼の子、源 伊陟親子もなかなか面白いので、いつか人物伝で取り上げてみたいと思っています。

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