平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

紫式部と天皇家・村上源氏

2008-01-19 20:38:07 | 系譜あれこれ
 1月8日にUPした「紫式部の子孫と親戚」中の、「紫式部の血は今でも天皇家に流れていますし、村上源氏をはじめとした貴族たちにも受け継がれています。」という文章に対して、咲希さんから掲示板で質問を頂きました。その回答については掲示板No934で簡単に書かせていただいたのですが、せっかくですのでこちらで一つの記事にまとめることにしました。前回に続いてちょっと複雑なお話ですが、おつきあいいただけますと幸いです。

 前回の記事にも書きましたが、高階為家は紫式部の娘、賢子が産んだ子であるとほぼ推定されています。その為家には為賢・為章などの子供がいました。そのうちの為賢の娘は藤原南家の藤原能兼という人の妻となって範兼をもうけます。範兼の娘が範子と兼子です。では、ここまでを略系図にしてみますね。

紫式部(藤原宣孝室) → 藤原賢子(高階成章室) → 高階為家 → 高階為賢 → 女子(藤原能兼室) → 藤原範兼 →藤原範子・兼子

*なお、一説によると、範兼の母は為賢の子、為時の女という説もあるそうです。つまり、為賢と藤原能兼室の間に「為時」という人物が入るということですよね。どちらにしても、紫式部の子孫であることには違いないのですが…。

 わ~、後鳥羽天皇の乳母として権勢をふるった卿二位藤原兼子さん、実は紫式部の子孫だったんだ~」と感動しました。でも、兼子のことはこちらに置いておいて、本記事で問題となるのは彼女の姉の範子の方なのです。この範子という女性が、紫式部の系譜と天皇家・村上源氏の系譜をつなぐキーポイントとなるのです。では、彼女の生涯を紹介しながらそのあたりをお話ししますね。

 藤原範子(?~1200)は、早く父を亡くし、叔父に当たる範季に養育されました。そしてまず、平時子(平清盛室)の異父弟に当たる能円と結婚し、在子という娘をもうけます。

 ところが親平家派の能円は、寿永二年(1183)七月、平家都落ちに同行して範子のもとを去ってしまいます。しかし、都に残された範子のもとに一人の男性が現れます。その男性こそ、村上源氏の源通親でした。

 範子は通親との間に通光・定通・通方といった子供たちをもうけます。さらに、能円との間にもうけた在子は通親の養女となって後鳥羽天皇の後宮に入り、皇子をもうけます。この皇子こそ、後鳥羽天皇のあとを受け手帝位についた土御門天皇です。通親はこうして天皇の外戚となり、内大臣として権勢をふるいました。範子も内大臣の妻として、また後鳥羽天皇の乳母として「刑部卿三位」と呼ばれ平穏な生活を送っていたと思われます。ただ、早く亡くなってしまったのが惜しまれますが…。

 話が少し横道にそれてしまいましたが、土御門天皇の系譜は、後嵯峨天皇→後深草天皇を通して、今の天皇家に受け継がれています。

一方、範子が通親との間にもうけた子供たちの子孫は、久我家・土御門家・中院家といった分家に分かれ、範子の血は村上源氏の中に受け継がれました。つまり紫式部の血は、範子を通して、天皇家と村上源氏にしっかり受け継がれているのです。すごいですよね。

 では、範子から天皇家・村上源氏に至るまでを略系図にしてみますね。

☆藤原範子 → 在子(承明門院) → 土御門天皇 → 後嵯峨天皇 → 後深草天皇 …… 今上天皇

☆藤原範子 → 通光・定通・通方

☆通光(太政大臣) …… 久我家・六条家・中院家

☆定通(内大臣) …… 土御門家

☆通方(大納言) …… 三条家・北畠家

 ところで、範子・兼子姉妹を養育した彼女たちの叔父、範季は、平清盛の姪、平教子(平教盛女)を妻にしたり、源範頼の養父になったりして、源平と深く関わりを持った人物です。彼の母親は兄の範兼と同じなので、彼もまた、紫式部の子孫ということになります。新しい発見です。

 そして、範季が平教子との間にもうけた重子は、後鳥羽天皇の後宮に入って順徳天皇をもうけました。つまり、土御門天皇の異母弟に当たる順徳天皇も、紫式部の子孫というわけです。

 では、こちらも略系図にしてみますね。

紫式部 →賢子 → 為家 …… 藤原範季(範兼の弟) → 藤原重子 → 順徳天皇

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 「紫式部伝」 角田文衞 法蔵館

 なお、この記事を書くにあたって、咲希さんからも色々教えていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。

☆トップページに戻る
 

最新の画像もっと見る