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平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

第76代 近衛天皇

2010-09-13 16:59:39 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1139~1155
☆在位期間 1141~1155

☆両親

 父・鳥羽天皇 母・藤原得子(美福門院)

☆略歴

 名は躰仁。鳥羽天皇の第九皇子。

 生後三ヶ月で異母兄崇徳天皇の皇太子となり、三歳で即位。崇徳天皇は実は白河上皇の子だという噂があり、鳥羽上皇から「叔父子)と言われてうとまれていたため、寵愛する得子から躰仁が生まれると喜んで、彼を皇太子に立て、天皇に即位させたのでした。
 そのようなわけで近衛天皇は、鳥羽上皇と得子のただ一人の男子でもあったため、父母の愛情を一身に受けて成長したと思われます。そして鳥羽上皇は、近衛天皇の即位に伴い、思うままの院政を執り行うこととなります。

 その頃、摂関家の藤原忠通と頼長兄弟の対立が激化(詳しくは当ブログ内の「藤原多子」の項をご覧下さい)、近衛天皇もその渦の中に巻き込まれていきます。
 近衛天皇が元服すると、頼長は養女の多子を入内させて皇后とし、ついで忠通も養女の呈子を入内させて中宮としました。天皇はそんな二人の対立を、なすすべもなくただ眺めているよりほかありませんでした。元々病弱だった天皇は眼病にかかり、久寿二年(1155)に十七歳の若さで崩御してしまいます。
 その後間もなく、「近衛天皇が崩御したのは、頼長の呪詛のせいだ」という噂が広まります。この噂は忠通が流したと思われますが、鳥羽天皇と得子はこの噂を信じ、頼長を深く恨むようになります。これが保元の乱の一因となったのでした。自分が崩御したことがきっかけで、保元の乱のような大乱が起こるなど、近衛天皇は想像もしていなかったと思います。

 このように周辺人物によって翻弄されてしまったような近衛天皇の人生ですが、彼は容姿端麗で頭も良く儀礼を学び、和歌にも優れ、多くの勅撰集に作が見えるそうです。もっと長生きしていたら、色々と業績を残した優れた天皇になれたかもしれませんね。


☆父方の親族

祖父・堀河天皇 祖母・藤原苡子(藤原実季女)

主なおじ
 寛暁 最雲法親王

主なおば
 宗子内親王(賀茂斎王 「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) 喜子内親王(伊勢斎王) 


☆母方の親族

 祖父・藤原長実 祖母・源方子(源俊房女)

主なおじ
 藤原顕経 藤原顕盛 藤原長輔
その他、こんな方も!
 曾祖父・藤原顕季(白河院近臣)
 母の叔父・藤原家保
母の叔父・藤原顕輔(百人一首の歌人)
 母のいとこ・藤原家成(家保の子、鳥羽院近臣 盛親の父)
 母のいとこ・藤原清輔(顕輔の子 百人一首の歌人)

 藤原得子は藤原魚名の子孫、末茂流の女性です。魚名の子孫たちについては、当ブログ内の藤原魚名とその子孫たちもご覧下さい。


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *顕仁親王(崇徳天皇) *雅仁親王(後白河天皇) *通仁親王 *君仁親王 *本仁親王(覚性法親王)

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○子内親王(八条院) ○(女朱)子内親王(高松院) ○叡子内親王 *統子内親王(上西門院) *禧子内親王 *妍子内親王(伊勢斎王) *頌子内親王(賀茂斎王)

主なおいとめい

 重仁親王(父は崇徳天皇)
 守仁親王(二条天皇) 憲仁親王(高倉天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王 亮子内親王(慇富門院) 式子内親王 観子内親王(宣陽門院) 以上 父は後白河天皇
 海恵(母は(女朱)子内親王)

☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原多子(藤原公能女・藤原頼長養女)

 藤原呈子(藤原伊通女・藤原忠通養女)


☆末裔たち

 近衛天皇は皇子や皇女を残さずに崩御しました。そのあとは、異母兄の雅仁親王が即位(後白河天皇)、その後はその皇子である二条天皇、更にはその皇子の六条天皇、、そして、後白河の皇子の高倉天皇へと、後白河の子孫たちが皇統を継いでいきます。

 そのようなわけで、近衛天皇には末裔たちはいませんが、何も書かないのは寂しいので、彼の后たちについて、書きたいと思います。
 多子についてはこちらにまとめてありますので、ここではもう一人の后、呈子について、「平安時代史事典」の記述をもとにまとめてみます。

☆藤原呈子(1131~1176)

 父は藤原伊通(太政大臣)。母は藤原顕隆女の立子。

 久安四年(1148) 美福門院の養女となる。
 久安六年(1150) 摂政藤原忠通の養女となり、二月従三位に叙される。四月に近衛天皇の後宮に入内、六月に立后して中宮となる。忠通、頼長兄弟の対立の渦中に身を置くことになったわけですが、美福門院のうしろだてもあり、立場は安定していたと言われています。

 久寿二年(1155) 七月、近衛天皇の崩御にあい翌八月落飾、法名を清浄観と称する。
 保元元年(1156) 十月、皇后となる。
 保元三年(1158) 二月、皇太后となる。
 仁安三年(1168) 院号宣下を受け九条院と号す。藤原兼実は、「皇太后宮が院号宣下を受けるとは未曾有のことだ」と批判しています。
 安元二年(1176) 九月十九日、病により四十六歳で崩じた。

 院号宣下を受け、恵まれた晩年だったと思われますが、若くして近衛天皇と死に別れ、様々な政争を目にした彼女の心中はどうだったのでしょうか。多子同様、時代の波に翻弄された人生とも言えそうです。

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第61代 朱雀天皇

2010-05-04 22:14:20 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  923~952
☆在位期間 930~946

☆両親
 父・醍醐天皇 母・藤原穏子(藤原基経女)


☆略歴

 名は寛明。醍醐天皇の第十一皇子。

 延長元年(923)七月二十四日、藤原忠平の東五条第において誕生。同年十一月十七日親王宣下。同三年十月二十一日、三歳で東宮に立てられました。

 実は、醍醐天皇の最初の皇太子は第一皇子の保明親王でしたが位につくことなく二十一歳で世を去り、続いて皇太子に立てられた親王の子、慶頼王も五歳で亡くなりました。皇太子が相次いで世を去ったことは、太宰府に左遷されてその地で世を去った菅原道真の怨霊だとささやかれました。

 寛明親王は幼少時、母、藤原穏子のふところに抱かれて育ち、外に出ることもなかったようです。穏子は、「道真の怨霊にとりつかれては大変」と考え、親王を大切に育てていたのでしょう。そのためか、寛明親王は優しくて温順な性格であったと伝えられます。

 延長八年(930)十一月、醍醐天皇の譲位に伴い、大極殿において八歳で即位しました。摂政には醍醐天皇の遺詔により、藤原忠平が就任します。

 天慶九年(946)、同母弟の成明親王(村上天皇)に譲位。退位の理由は不明だそうです。
 退位後は朱雀院を御所とし、天暦六年(952)三月十四日、病により落飾。法名を仏陀寿と称しました。同年四月十五日、仁和寺に移り、八月十五日に至り崩御。享年三十。

 朱雀天皇の御代は、天変地異が相次ぎ、東国では平将門が、西国では藤原純友が叛乱を起こすといった、不安定な時代でした。優しい性質の朱雀天皇は、このような不祥事や天変地異が起こるのは自分のような者が天皇であるからかもしれないと悩み、早々と退位してしまったのかもしれません。

 和歌に優れ、「朱雀天皇御集」も遺しているそうです。


☆父方の親族

祖父・宇多天皇 祖母・藤原胤子(藤原高藤女)

主なおじ
 敦慶親王 敦実親王 斉世親王 行明親王

主なおば
 均子内親王 柔子内親王(伊勢斎王)

主ないとこ
 中務(父は敦慶親王)
 源 雅信 源 重信(父は敦実親王)
 源 庶明(父は斉世親王)


☆母方の親族

祖父・藤原基経 祖母・操子女王(人康親王女)

主なおじ
 藤原時平 藤原仲平 藤原忠平

主なおば
 藤原温子(宇多天皇中宮)

主ないとこ
 藤原保忠 藤原顕忠 藤原敦忠 藤原褒子(宇多上皇妃・京極御息所) 藤原仁善子(保明親王妃) 女子(克明親王妃) 女子(敦実親王妃) 女子(藤原実頼室)(以上、父は藤原時平)
 藤原暁子(有明親王妃)(父は藤原仲平)
 藤原実頼 藤原師輔 藤原師尹 藤原師氏 藤原寛子(重明親王妃・徽子女王の母)(以上、父は藤原忠平)
 均子内親王(母は藤原温子)


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *克明親王 ○保明親王 *重明親王 *有明親王 ○成明親王(村上天皇) *代明親王 *章明親王 *盛明親王 *源 高明 *兼明親王(源 兼明)

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *勤子内親王 *雅子内親王 ○康子内親王 *勧子内親王 *英子内親王

主なおい・めい

 憲平親王(冷泉天皇) 守平親王(円融天皇) 為平親王 輔子内親王 資子内親王 選子内親王 規子内親王(伊勢斎王) 具平親王 楽子内親王(伊勢斎王) 昌平親王 永平親王 盛子内親王(藤原顕光室) 広平親王 昭平親王(以上、父は村上天皇)
 源 博雅(父は克明親王)
 慶頼王・煕子女王(以上、父は保明親王)
徽子女王(伊勢斎王・村上天皇女御)(父は重明親王)
 源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王(村上天皇女御)・厳子女王(藤原頼忠室)・恵子女王(藤原伊尹室)(父は代明親王)
 源 忠清・源 泰清・女子(藤原公季室)(父は有明親王)
 源 伊陟(父は兼明親王)
 源 俊賢・源 経房・女子(為平親王室)・源 明子(藤原道長室)(父は源 高明)
 藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(藤原師輔室)(母は雅子内親王)
 深覚・藤原公季(母は康子内親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 煕子女王(保明親王皇女) → 昌子内親王

 藤原慶子(藤原実頼女)


☆末裔たち

 朱雀天皇には皇子がいませんでしたので、皇位は同母弟の成明親王が継承しました(村上天皇)。

 皇子はいませんでしたが、朱雀天皇は煕子女王との間に皇女を一人もうけました。では、朱雀天皇のただ一人の皇女である昌子内親王について、「平安時代史事典」の記述をもとに簡単に記すことにします。

昌子内親王(950~999)

 朱雀天皇の第一皇女。母は女御煕子女王。

 天暦四年(950)八月、内親王となる。
 応和元年(961)十二月、着裳、三品に叙される。
 応和三年(963)二月、東宮憲平親王の妃となる。
 康保四年(967)、憲平親王即位(冷泉天皇)。九月、冷泉天皇の皇后となる。しかし、天皇の病のためほとんど同居せず、里第に下がっていることが多かったと伝えられます。
 天延元年(973)七月、皇太后となる。
 寛和元年(985)二月、北岩倉山の大雲寺内に観音院を創立し、自ら行啓して供養した。仏心の篤い后だったようです。
 寛和二年(986)七月、太皇太后となる。
 長保元年(999)十二月一日、権大進橘道貞(和泉式部の最初の夫)の三条第において崩御。三条太皇太后、観音院太后と称される。歌人としても有名。

 紫式部の伯父、藤原為頼や、和泉式部の父、大江雅致が仕えていたことでも有名です。和泉式部も、その母も、女房として昌子内親王に仕えていました。

 幼くして父に先立たれ、夫となった冷泉天皇とも疎遠で、家庭的には少し寂しい生涯だったのでは…と思います。それでも、献身的に仕えていた多数の役人や女房に囲まれていたことは救いだったような気がします。


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第51代 平城天皇

2009-09-16 21:11:07 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  774~824
☆在位期間 806~809

☆両親
 父・桓武天皇 母・藤原乙牟漏(藤原良継女)


☆略歴

 諱は安殿親王。桓武天皇の第一皇子。

 延暦五年(786)、早良親王の廃太子ののち、皇太子となり、同七年に元服。しかしこの頃、安殿は重病にかかります。これは、廃太子早良親王や、それ以前、父の桓武天皇がまだ皇太子になる前、山部親王と呼ばれていた時代に廃太子となった多戸親王や、その母井上皇后の怨霊の仕業だと噂されました。そこで桓武天皇はこれらの人物の名誉を回復させ、特に早良親王には「崇道天皇」の称号を送り、安殿親王の健康もようやく回復したようです。

 大同元年(806)、桓武天皇の崩御を受けて即位。同母弟神野親王を皇太弟としました。
 天皇は、官司の統廃合による行財政の改革、観察使の設置による地方政治の充実などに努めました。しかし、次第に健康を損ねるようになり、大同四年(809)四月に神野親王に譲位し(嵯峨天皇)、上皇となりました。

 その後、寵姫藤原薬子・側近の仲成の兄妹は平城上皇の重祚を謀ります。そして、上皇とともに平城京に宮殿を新造し、ここに遷都を図ろうとして翌大同五年九月挙兵(薬子の変)、結局失敗し、仲成は捕らえられて殺され、薬子は自害、上皇は出家します。

 出家した上皇はその後も平城宮に住み、弘仁十二年(821)、空海から灌頂を受けました。そして天長元年(824)崩御、享年五十一歳。

 天皇在位中はなかなか良い政治を行ったようですが、健康を損なったため退位、その後、側近の暴走によって戦いに敗れて出家…。才能はあったようですが不運の天皇という印象を受けます。


☆父方の親族

祖父・光仁天皇 祖母・高野新笠

主なおじ

 多戸親王 早良親王

主なおば

 酒人内親王


☆母方の親族

祖父・藤原良継 祖母・阿倍古美奈

主なおば

 藤原諸姉(藤原百川室) 女(藤原永手室) 女(藤原鷲取室)

主ないとこ

 藤原旅子(母は藤原諸姉 桓武天皇妃 淳和天皇母)


☆兄弟姉妹と甥・姪

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 ○神野親王(嵯峨天皇) *大伴親王(淳和天皇) *伊予親王 *葛原親王 *賀陽親王 *万多親王 *仲野親王 *良岑安世

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 ○高志内親王(淳和天皇妃) *高津内親王(嵯峨天皇妃 *朝原内親王(平城天皇妃) *大宅内親王(平城天皇妃) *伊都内親王(阿保親王妃)
*甘南備内親王 *布勢内親王

主な甥・姪

 仁明天皇・源 融・源 信 正子内親王(淳和天皇皇后)・有智子内親王(初代賀茂斎院)・源 潔姫(藤原良房室) (以上、父は嵯峨天皇)
 恒世親王・恒貞親王・氏子内親王 (以上、父は淳和天皇)
 高棟王・高見王(高望王の父) (以上、父は葛原親王)
 平 茂世(平 貞文の祖父)・班子女王(光孝天皇妃 宇多天皇母)(以上、父は仲野親王)
 僧正遍昭(父は良岑安世)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原帯子(藤原百川女)

 朝原内親王(桓武天皇皇女)

 大宅内親王(桓武天皇皇女)

 藤原薬子(藤原種継女・元藤原縄主室)

 藤原縄主女(母は藤原薬子)*実は、この女性が東宮時代の安殿親王に入内してきたのですが、安殿は彼女に付き添ってきた母、藤原薬子を気に入ってしまい、薬子を寵姫にしたと言われています。

 伊勢継子(伊勢老人女) → 高岳親王 大原内親王

 葛井藤子(葛井道依女) → 阿保親王


☆末裔たち

 平城天皇退位のあとは、弟の神野親王が即位、嵯峨天皇となりました。嵯峨天皇の皇太子には、平城天皇の皇子、高岳親王が立てられましたが、薬子の変で廃太子となってしまいました。その代わりに皇太子に立てられたのが、平城天皇の異母弟の大伴親王(のちの淳和天皇)です。そのようなわけで、平城天皇の子孫は皇位につくことはありませんでした。

 皇位から遠ざけられたためか、平城天皇の二人の皇子、高岳親王と阿保親王は、それぞれ波乱に富んだ人生を送ることとなります。では、彼らの生涯と、その子孫たちについて述べてみたいと思います。

○高岳親王

 延暦18年(799)頃、安殿親王(のちの平城天皇)と、伊勢継子との間に生まれました。

 大同四年(809)4月、父、平城天皇が退位し、その弟の神野親王が嵯峨天皇として即位したため、皇太子に立てられました。高岳親王は大変聡明だったため、平城上皇の強い意向で皇太子に立てられたと言われています。しかし、翌大同五年=弘仁元年九月、薬子の変が勃発。平城上皇側は敗れ、高岳親王は廃太子となってしまいました。

 弘仁十三年(822)、四品に叙されますが間もなく出家し、東大寺(一説には東寺)に入ります。法名を真忠といい、のち真如と改めました。そして、初め道詮に就いて三論を学び、のち空海に就いて密教を学びました。

 斉衡二年(855)五月、東大寺大仏の頭部が落下するという事故が起こります。親王は修理東大寺大仏司検校に任ぜられ、前後七年間にわたってその修理事業を監督。貞観三年(861)三月にその功を終えます。

 貞観四年(862)、入唐の勅許を得て太宰府を出発し、唐に向かうこととなります。 貞観六年、洛陽を経て長安に入り、青竜寺の法全から両部の法を受けました。
 更に天竺への渡行を志し、翌貞観七年正月、三人の従者とともに広州を出発し、海路天竺へ向かいます。その後、一行の消息は不明になったようですが、親王は同じ貞観七年(864)、羅越国(マレー半島南端)で客死したことが後になって伝えられました。

 高岳親王が唐や天竺に向かった真の理由は今になってはわかりませんが、やはり仏教の発祥の地を見てみたかったのかもしれませんね。中途で挫折してしまったことはさぞ無念だっただろうなと拝察されます。

なお、高岳親王は出家する以前に、善淵・安貞の2人のこをもうけていますが、親王出家後に「在原」の姓を賜って臣籍に下りました。

○阿保親王

 延暦十一年(792)、安殿親王(のちの平城天皇)と、葛井藤子との間に生まれました。

 大同五年=弘仁元年(810)、薬子の変で父平城上皇が失脚したためにそれに連座し、太宰府に流され、天長元年(824)、父の崩御によって帰京を許されました。
 その後、天長十年(833)、三品に叙され、治部卿、宮内卿、兵部卿、弾正尹、上野・上総各太守等を歴任しました。

 承和九年(842)七月、春宮坊帯刀伴健岑の謀叛を太皇太后橘嘉智子に密告し、承和の変の発端をつくったと言われます。同年十月薨去、一品を追贈されました。

 高岳親王が仏教一筋に生きたのに対して、阿保親王はあくまでも親王としての出世にこだわったように思えます。父平城天皇の無念を晴らしたかったのでしょうか。

・阿保親王の子孫たち

〈在原氏〉

 天長三年(826)、阿保親王の上表により、彼の子、行平・守平・仲平・業平王が「在原」の姓を賜って臣籍に下りました。(なお、上で書いた高岳親王の子供たちが在原姓を賜ったのはこれより以前のことだそうです。)彼らが臣籍に降下した理由は、薬子の変で失脚した平城上皇系の皇子たちを皇位から遠ざけるためだったと言われています。

 このうち在原行平(818~893)は、文徳朝に須磨に流されたこともあったようですが次第に出世、清和天皇の側近となり、最終的には正三位中納言に昇りました。その娘は清和天皇に入内し貞数親王を産みました。

 阿保親王が、妃である伊都内親王との間にもうけた在原業平(825~880)は六歌仙の一人、平安時代を代表する歌人です。そして、「伊勢物語」の主人公に模擬せられている人物です。

 業平には、棟梁・滋春といった子供がありました。このうち棟梁の娘は大納言藤原国経の室となりますが、のちに左大臣藤原時平の室となり敦忠を産みました。このあたりの経過については、「今昔物語」巻二十二ノ八に、国経宅を訪れた甥の左大臣時平に若い妻(在原棟梁女)を引き出物として奪われた話が掲載されています。敦忠は歌人として知られています。曾祖父業平のDNAを受け継いだのでしょうか。

 また、一説には、業平は斎宮恬子内親王(文徳天皇皇女)と密通して子をもうけたとも言われています。その子は高階茂範の養子となって高階師尚と名乗り、高階家を継ぎました。これが事実だとすると、高階貴子を母とする中関白家の伊周・定子・隆家兄弟、「欲の大弐」と言われた高階成章、成章の玄孫である丹後局高階栄子なども業平の子孫ということになります。

〈大江氏〉

 もとは土師氏でしたが、桓武天皇の時に大枝氏に改め、貞観八年(866)十月十五日、参議大枝音人、散位氏雄らが上表して大枝を大江と改めるよう願い出て許されました。

 この大江音人(811~877)という人物は、阿保親王の子とも孫とも言われていて、出自がはっきりしないようです。私の個人的な考えとしては、彼の811年という出生年から見て、阿保親王の子供ではないかと思うのですが…。音人の母が阿保親王の侍女なので、彼女は阿保親王が太宰府に流される直前に音人を身ごもり、音人は出生後間もなく大枝家に養子に出されたのではないかと思います。あくまでも私の妄想です。

 音人は儒学者として有名ですが、彼の子、子の公幹・玉淵・千里(『句題和歌』作者)・千古はみな詩歌に優れた人物です。子孫からは一条天皇御代の大学者匡衡、その曾孫で漢学者としても知られる匡房がいます。匡房の子孫は、のち、文章道を受け継ぐ北大路家と、源頼朝の側近となって鎌倉に下った広元の子孫の武家政治家系に分かれました。広元のはるか後の子孫には、戦国大名の毛利元就がいます。


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第75代 崇徳天皇

2009-06-02 16:26:40 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1119~1164
☆在位期間 1123~1141

☆両親
 父・鳥羽天皇 母・藤原璋子(藤原公実女)
*崇徳天皇は白河天皇の皇子であるという説もありますが、ここでは通説通り鳥羽天皇の皇子として話を進めさせていただきます。

☆略歴

 名は顕仁。鳥羽天皇の第一皇子。

 元永二年(1119)五月二十八日、三条西殿において誕生。保安四年(1123)正月、5歳で皇太子に立てられ、翌月即位しました。顕仁親王は白河上皇に大変かわいがられ、5歳での即位にも上皇の意志が強く動いていたと言われます。

 しかし大治四年(1129)、白河上皇が崩御し、鳥羽上皇による院政が始まると、崇徳天皇の運命は一変します。鳥羽上皇は次第に崇徳天皇の母である待賢門院璋子を遠ざけ、藤原得子(のちの美福門院)を寵愛するようになります。得子は保延五年(1139)に躰仁親王を生みました。
 するとたちまち鳥羽上皇は躰仁を皇太子に立て、、その2年後に崇徳を退位させ、躰仁親王を即位させます(近衛天皇)。こうして崇徳は、権力のない上皇となってしまったのでした。実は崇徳は白河上皇の子であるという噂があり、鳥羽上皇も、「あれは叔父子だ。」(白河上皇は鳥羽上皇の祖父なので、祖父の子、つまり叔父だということでしょうか)と言っていたようです。つまり、鳥羽と崇徳の間には埋めることのできない確執があったようなのですよね。

 しかし、崇徳上皇は、我が子の重仁親王の即位を信じて待ち続けました。そして久寿二年(1155)、近衛天皇が17歳の若さで崩御したとき、「ついに願いがかなう」と期待を膨らませたに違いありません。しかし、即位したのは弟の雅仁親王(後白河天皇)でした。そしてその皇太子には雅仁の子、守仁が立てられます。こうして崇徳の望みは絶たれてしまったのでした。

 それでも、「鳥羽上皇が崩御すれば何とかなる」と崇徳上皇は思ったのでしょうか。翌保元元年(1156)七月、かねてから重病だった鳥羽上皇が崩御すると、摂関家内で不遇な立場にあった藤原頼長と手を結び挙兵しようとしますが、藤原忠通・後白河天皇方の兵の思わぬ奇襲攻撃にあって敗北します(保元の乱)。頼長は逃亡中に討ち死にし、崇徳は讃岐の白峯に配流されてしまいます。そして8年後の長寛二年(1164)八月二十六日、京に帰ることなく流刑地でその波瀾の生涯を閉じました。

 崇徳上皇の崩御後、世の中では悪天候や飢饉など凶事が続き、「これは上皇の怨霊である」と恐れられます。そこで、治承元年(1177)、朝廷は「讃岐院」の称号を改めて「崇徳院」の諡号を贈りました。更に粟田宮を建立し、その霊を慰めました。

 崇徳上皇は和歌にすぐれていたことでも知られます。『詞花』以下の勅撰集にも80首近く入集し、「瀬を早み 岩に堰かるゝ 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」は「百人一首」にも採られていて有名です。

       (参考)「平安時代史事典」


☆父方の親族

祖父・堀河天皇 祖母・藤原苡子(藤原実季女)

主なおじ
 寛暁 最雲法親王

主なおば
 宗子内親王(賀茂斎院 「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) 喜子内親王(伊勢斎宮) 


☆母方の親族

祖父・藤原公実 祖母・藤原光子(藤原隆方女)

おじ
 藤原実隆 藤原実行 藤原通季 藤原実能 藤原季成

おば
 女子(源有仁室) 女子(藤原経実室)

主ないとこ
 藤原公教(父は藤原実行)
 藤原公通(父は藤原通季)
 藤原公能・藤原幸子(藤原頼長室)・藤原育子(二条天皇中宮) (以上、父は藤原実能)
 藤原成子(高倉三位 以仁王・式子内親王などの母 父は藤原季成)
 藤原懿子(二条天皇母)・藤原経宗(以上、母は藤原経実室)


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 ○雅仁親王(後白河天皇) ○通仁親王 ○君仁親王 ○本仁親王(覚性法親王) *近衛天皇

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○統子内親王(上西門院) ○禧子内親王 *子内親王(八条院) *(女朱)子内親王(高松院) *叡子内親王 *妍子内親王(伊勢斎宮) *頌子内親王(賀茂斎院)

主なおいとめい

 守仁親王(二条天皇) 憲仁親王(高倉天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王 亮子内親王(慇富門院) 式子内親王 観子内親王(宣陽門院) 以上 父は後白河天皇
 海恵(母は(女朱)子内親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原聖子(藤原忠通女 皇嘉門院)

 兵衛佐(法勝寺執行信縁女) → 重仁親王


☆末裔たち

 崇徳天皇のあとは、異母弟の近衛天皇、続いて同母弟の後白河天皇が即位し、結局皇位は後白河の子孫たちに受け継がれることとなりました。そのため、崇徳天皇の系統は皇位につくことはできませんでした。

 そこで、ここでは崇徳天皇が即位を熱望していた重仁親王について、簡単に述べたいと思います。

・重仁親王(1140~1162)
 崇徳天皇の第一皇子。母は法勝寺執行信縁女、兵衛佐。
 兵衛佐は中宮、藤原聖子の女房でしたが、天皇の寵愛を受けて重仁親王を生みました。重仁はその後、藤原得子(美福門院)に引き取られて成長します。
 永治元年(1141)に親王宣下され、久安六年(1150)に元服、三品に叙されます。
 久寿二年(1155)、近衛天皇が崩御すると、父の崇徳天皇に帝位を期待されますが、雅仁親王の即位(後白河天皇)によってその望みを絶たれます。

 翌年、保元の乱が起こると、女房車で仁和寺に逃れようとして捕らえられます。のち、仁和寺に入って出家、応保二年(1162)正月二十八日に薨去しました。何か、父崇徳の悲運を背負い込んでしまったような、短くて気の毒な生涯のように思えます。


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第74代 鳥羽天皇

2009-04-28 09:46:46 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1103~1156
☆在位期間 1107~1123

☆両親
 父・堀河天皇 母・藤原苡子(藤原実季女)

☆略歴

 名は宗仁。堀河天皇の第一皇子。

 康和五年(1103)正月、藤原顕隆の五条第にて誕生。その年の六月に親王宣下され、八月に皇太子に立てられました。
 嘉承二年(1107)七月、父堀河天皇の崩御のあとを受けて践祚します。しかし、天皇はまだ五歳だったため、祖父の白河法皇が院政を執り行いました。

 永久五年(1117)、藤原璋子が入内、翌年、立后します。璋子は元永二年(1119)、顕仁親王を出産しました。白河法皇は大変喜び、顕仁の1日も早い即位を熱望します。そして、顕仁が五歳になった保安四年(1123)、鳥羽天皇を退位させてこの皇子を位につけてしまいます。これが崇徳天皇です。
 実は、白河法皇と璋子は以前からただならぬ関係だと噂されており、璋子が鳥羽天皇に入内したあとにもその関係は続いているとまことしやかに言われていました。そのため顕仁親王は白河法皇の子ではないかという説もあります。白河法皇が顕仁親王の1日も早い即位を願ったのはこのためではないかとも言われています。

 さて、退位したことによって上皇となった鳥羽は「新院」と呼ばれましたが、そのようなわけで政治の実権は白河法皇が握っていました。

 しかし、大治四年(1129)に白河法皇が崩御すると状況が一変、鳥羽はようやく院庁を開き、自ら院政を執り行うことができるようになります。
鳥羽上皇は、白河法皇と対立して宇治に隠居していた藤原忠実を朝廷に復帰させ、その愛児頼長を重く用いました。更に璋子を遠ざけ、藤原長実女の得子を非公式に入内させ寵愛しました。

 そして保延五年(1139)、得子は待望の皇子を出産します。躰仁と名づけられたこの皇子は、間もなく皇太子に立てられました。鳥羽上皇は永治元年(1141)、崇徳天皇を退位させ、躰仁親王を位につけます。これが近衛天皇です。

 しかし、近衛天皇は体が弱く、久寿二年(1155)、わずか17歳で崩御してしまいます。そこで鳥羽上皇は、璋子との間にもうけた第四皇子の雅仁親王を位につけました。これが後白河天皇です。崇徳上皇は自分の皇子、重仁親王の即位を願っていたのですが、かなえられませんでした。

 こうした無理な皇位継承は、朝廷内で対立を呼ぶこととなります。特に、政治から完全に疎外されてしまった崇徳上皇の憤りは深かったようです。さらに、摂関家内でも、忠実・頼長父子と、頼長の兄忠通の対立が激化しつつあり、どちらもいつ内乱に発展してもおかしくない状態でした。

 鳥羽上皇は近い将来、争乱が起こることを予測し、病が重くなった保元元年(1156)六月、源平の武士を召集して内裏と鳥羽殿の警護を厳重にします。しかし、その年の七月二日、安楽寿院御所において崩御しました。享年五十四。何か、火種をたくさん残して逝ってしまった上皇…、と言えそうですね。


☆父方の親族

祖父母
 祖父・白河天皇 母・藤原賢子(藤原師実養女 実父は源 顕房)

主なおじ
 敦文親王 覚行法親王 覚法法親王 聖恵法親王

主なおば
 (女是)子内親王 令子内親王 禎子内親王 善子内親王 官子内親王 子内親王


☆母方の親族

祖父母
 祖父・藤原実季 祖母・藤原経平女

主なおじ
 藤原公実

主ないとこ
 藤原実隆 藤原実行 藤原通季 藤原実能 藤原季成 藤原璋子 女(源有仁室) 女(藤原経実室) *以上、父は藤原公実

 なお、鳥羽天皇の母方については、閑院流藤原氏の系譜も参考になさって下さい。


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *寛暁 *最雲法親王

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 *宗子内親王(「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) *喜子内親王 *懐子内親王


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原璋子(藤原公実女 待賢門院) → 顕仁親王(崇徳天皇)*白河天皇の子であるという説もある 通仁親王 君仁親王 雅仁親王(後白河天皇) 本仁親王(覚性法親王) 禧子内親王 統子内親王(上西門院 後白河天皇准母)

 藤原泰子(藤原忠実女 高陽院)

 藤原得子(藤原長実女 美福門院) → 躰仁親王(近衛天皇) 叡子内親王 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(二条天皇中宮 高松院)

 三条局(藤原家政女) → 妍子内親王(近衛朝の伊勢斎王)

 紀 家子(石清水八幡宮別当紀光清女) → 道恵法親王 覚快法親王 双林寺宮阿夜御前

 春日局(藤原実能養女) → 頌子内親王(高倉朝の賀茂斎院)


☆末裔たち

 鳥羽天皇のあとの皇位継承については、「略歴」の項でも述べましたが、崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇と、彼の皇子たちが皇位についています。その後は、後白河天皇の子や孫たちによって皇位が引き継がれていきます。

 なお、鳥羽天皇の皇子のうち、子を残したのは崇徳天皇と後白河天皇だけです。

 皇女も、二条天皇の中宮となった(女朱)子内親王を除いて全員、生涯独身を通しました。(女朱)子内親王は、二条天皇と離別してしまいますが、その後、藤原信西の子、澄憲との間に海恵をもうけたと、藤原兼実の日記「玉葉」に記述されています。詳しくは(女朱)子内親王 ~激動の時代を愛に生きてをご覧下さいませ。


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第73代 堀河天皇

2009-04-01 09:42:56 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1079~1107
☆在位期間 1086~1107
☆両親
 父・白河天皇 母・藤原賢子(藤原師実養女 実父は源顕房)

☆略歴

 名は善仁。白河天皇の第二皇子。

承暦三年(1079)七月九日誕生。二宮と称され、十一月三日親王宣下されました。

 応徳三年(1086)十一月二十六日立太子、即日父帝のゆずりを受けて践祚します(一宮敦文親王はすでに世を去っていました)。この時、関白師実を摂政としましたが、上皇の院中における聴政が慣例化し、のちに院政といわれた政治形態がここに始められたと言えます。

 次いで天皇は寛治三年(1089)正月、紫宸殿において元服、翌四年師実の摂政を関白に改め、更に嘉保元年(1094)師実の辞表を納れて、その男師通を関白に任じました。成人した天皇は政務に精励し、剛直な師通の補佐もあって、必ずしも上皇の聴政に拘束されなかったそうです。

 また、政治だけでなく文化面も熱心でした。詩歌管弦にも優れ、特に笛が得意だったようです。

 長治二年(1105)以降、しばしば病を得、その度に譲位の議も起きましたが、嘉承二年(1107)七月十九日、堀河院にて崩御しました。享年29歳。この時、天皇のそばにいた乳母子たち、側近たち、女房たちがそろって号泣したと伝えられています。天皇が周囲の人々からどれほど慕われていたかがわかるような話ですね。

*堀河天皇は、堀河院(左京三条二坊九・十町)を祖父の師実から譲り受けていました。天皇は堀川院を愛し、在位期間の大半をここで過ごしました。
 また、女流文学として知られる「讃岐典侍日記」は、典侍として天皇の側近に仕えていた藤原長子が、天皇の発病から崩御までの一ヶ月間、献身的に看護した様子を哀切につづったもので、天皇への細やかな愛情が感じられる感動的な日記です。
  (参考) 「平安時代史事典」「平安京散策」


☆父方の親族

祖父母
 祖父・後三条天皇 祖母・藤原茂子(藤原能信養女 実父は藤原公成)

おじ
 実仁親王 輔仁親王

おば
 聡子内親王 俊子内親王 佳子内親王 篤子内親王

いとこ
 源 有仁・守子内親王・怡子内親王・信証・行恵(以上、父は輔仁親王)


☆母方の親族

祖父母
 祖父・源 顕房 祖母・源 隆子(源 隆俊女) 養祖父・藤原師実

主なおじ
 源雅実 源 顕仲 源 国信 源 雅兼

おば
 源 師子

主ないとこ
 源 顕通 源 雅定(以上、父は源 雅実)
 覚法法親王 藤原泰子 藤原忠実(以上、母は源 師子)
 待賢門院堀河*百人一首80番の作者(父は源 顕仲)


☆主な兄弟姉妹

兄弟(○は同母兄弟、*は異母兄弟
 ○敦文親王 *覚行法親王 *覚法法親王 *聖恵法親王

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 ○(女是)子内親王 ○令子内親王 ○禎子内親王 *善子内親王 *官子内親王 *子内親王


☆后妃と皇子・皇女

 篤子内親王(後三条天皇皇女)

 藤原苡子(藤原実季女) → 宗仁親王(鳥羽天皇)

 大夫典侍(康資王女) → 宗子内親王(崇徳朝の賀茂斎院) *「宗」は実際はりっしんべんに宗という字

 藤原宗子(藤原隆宗女)*のち、藤原家保の妻となる → 寛暁

 藤原時綱女 → 最雲法親王

 母不詳 →喜子内親王(近衛朝の伊勢斎王)

 母不詳 → 懐子内親王


☆末裔たち

 堀河天皇のあとは、皇子宗仁親王が五歳で践祚しました。これが鳥羽天皇です。以下、皇位は鳥羽天皇の子孫たちによって受け継がれていくこととなります。

 ついでに堀河天皇の他の皇子・皇女たちについても簡単に触れておきます。

 宗仁親王以外の皇子二人はそれぞれ出家、寛暁、最雲法親王と称しました。寛暁(1102~1159*平安時代史事典による。生年に関しては1103年説もある)は真言僧となり、のちに大僧正に昇りました。最雲法親王(1105~1162)は天台僧となり、のちに第49代天台座主になりました。

 一方、3人の内親王のうち、宗子内親王は崇徳朝の賀茂斎院、喜子内親王は近衛朝の伊勢斎王です。懐子内親王に関しては、その実在が「紹運録」から確認できるだけで、他の史料には一切記録がないため、内親王宣下の年月日など、経歴は不明だそうです。


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第72代 白河天皇

2009-02-23 10:54:57 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1053~1129
☆在位期間 1072~1086
☆両親
 父・後三条天皇 母・藤原茂子(藤原公成女 藤原能信猶子)

☆略歴

 名は貞仁。後三条天皇の第一皇子。歴代天皇の仲で最も専制君主的な天皇だと言われています。また、院政を始めた天皇としても知られています。
 では、経歴を年表風に紹介しましょう。

 治暦四年(1068)八月、親王宣下。

 延久元年(1169)、父後三条天皇の皇太子に立てられる。ついで藤原道子を御息所に迎えたが、二人の仲はあまり睦まじくなかった。

 延久三年(1071)、藤原賢子が入内。貞仁は賢子を寵愛し、二人の間には二皇子三皇女が生まれた。

 延久四年(1072)、後三条天皇の退位に伴い践祚。後三条の意向により、異母弟の実仁親王が皇太弟に立てられた。

 承保元年(1074)、賢子は中宮に立てられる。

 応徳元年(1184)、賢子が世を去る。

 応徳二年(1085)、実仁親王が早逝。

 応徳三年(1086)、十一月、にわかに譲位、第二皇子善仁親王が践祚する(堀河天皇)これは、賢子を喪ったショックのためと、実仁親王の弟、輔仁親王の立太子を阻止するためであった。

 永長元年(1096)、最愛の皇女、(女是)子内親王が21歳で世を去ったため、悲嘆のあまり出家。しかし、受戒はしなかった。

 嘉承二年(1107)、堀河天皇が崩御したため、堀河の第一皇子、宗仁親王を皇位につける(鳥羽天皇)
 なお白河上皇は、堀河天皇即位と同時に後見役として政治に発言するようになったが、剛直な関白、藤原師通の発言力も大きかったため、政界を完全には掌握できなかった。師通の死後は徐々に発言力を強めたが、その頃には堀河天皇が成人しており、まだ完全な院政を行うまでには至らなかった。しかし、鳥羽天皇は即位時にまだ5歳であり、摂政も白河より25歳年少、しかも温厚で政治力を欠いていた藤原忠実であったため、白河は完全に政界の実権を握ったようである。(本格的に院政を始める)

 永久元年(1113)、策を用いて輔仁親王を失脚させる。

 保安元年(1120)、関白藤原忠実を罷免。

 大治四年(1129)、七月六日、三条西殿において発病し、翌日崩御した。享年、七十七。


☆父方の親族

☆祖父母
 祖父・後朱雀天皇 祖母・禎子内親王

おじ
 後冷泉天皇

おば
 娟子内親王 良子内親王 祐子内親王 (示某)子内親王 正子内親王


☆母方の親族

☆祖父母
 祖父・藤原公成 祖母・藤原知光女(『春記』による) 養祖父・藤原能信

☆主なおじ
 藤原実季

☆主ないとこ
 藤原公実 藤原苡子(堀河天皇女御・鳥羽天皇母)

*なお、白河天皇の母方、閑院流藤原氏について詳しくはこちらからご覧下さい。


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *実仁親王 *輔仁親王 *藤原有佐(藤原顕綱養子)

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○聡子内親王 ○俊子内親王○佳子内親王○篤子内親王(堀河天皇中宮)

おい・めい
 源 有仁・守子内親王・怡子内親王・信証・行恵(以上、父は輔仁親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原賢子(藤原師実養女・実父は源顕房) → 敦文親王 善仁親王(堀河天皇) (女是)子内親王(白河朝の伊勢斎王 郁芳門院 堀河天皇准母) 令子内親王(堀河朝の賀茂斎院 鳥羽天皇准母) 禎子内親王(堀河朝・鳥羽朝の賀茂斎院)

 藤原道子(藤原能長女) → 善子内親王(堀河朝の伊勢斎王)

 藤原経子(藤原経平女 のち、藤原公定の妻となる) → 覚行法親王

 源 師子(源 顕房女 藤原賢子の妹 のち、藤原忠実の妻となる) → 覚法法親王

 源 頼子(源頼綱女) → 官子内親王(鳥羽朝の賀茂斎院)

 藤原師兼女 → 聖恵法親王

藤原季実女 → 子内親王(鳥羽朝の伊勢斎王)

 祇園女御(源仲宗の妻、その子惟清の妻、宮廷仕えの女房と諸説あるが氏素性は未詳)


☆末裔たち

・その後の皇位継承について

 後三条天皇は、「白河天皇のあとは異母弟の実仁親王を、そのあとはその弟の輔仁親王を皇位につけるように」と遺言していました。
 ところが、略歴でも触れたように、実仁親王は応徳二年(1085)に皇位につくことなく亡くなります。すると白河天皇は父の遺言を無視し、翌年に自分の皇子善仁親王に譲位してしまいます。これが堀河天皇です。以後、堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇と、白河天皇の血を受けた子孫たちによって皇位が継承されていきました。

・白河天皇の子ではないかと噂された二人の人物

 白河は晩年、祇園女御(後述)の猶子になっていた藤原公実女の璋子を自分の猶子として異常なほど慈しんでいました。璋子は長じて鳥羽天皇の後宮に入ります。自分がかわいがっていた璋子と愛孫を結びつけたのでしょうね。
 しかし、鳥羽天皇の後宮に入った璋子はその後も白河とただならぬ関係だと噂され、元永二年(1119)に生まれた鳥羽天皇と璋子の皇子、顕仁親王は白河の子だと噂され、鳥羽天皇も「あれは叔父子だ」と言っていたようです。この噂を裏づけるかのように、白河は保安四年(1123)に鳥羽天皇を退位させ、顕仁親王を即位させます。これが崇徳天皇です。このような鳥羽天皇と崇徳天皇の対立が後に保元の乱の要因ともなりました。

 一方、白河の晩年の寵姫に祇園女御という女性がいました。女御と言っても正式な女御ではなく、あまりにも寵愛が深かったのでそのようにあだ名されただけで、彼女の氏や出自は不明です。
 そして白河は祇園女御の妹も寵愛していました。しかし妹の方は後に平忠盛の妻となります。その、時彼女は白河の子を身ごもっていて、生まれた子が清盛だと噂されました。清盛の昇進の異常な早さは白河のご落胤だからであるという説もあります。永井路子さんの小説「絵巻」では、忠盛がこの噂をうまく利用して清盛を出世させたと描かれていました。

 つまり、崇徳天皇と清盛という、日本史に重要な位置を占める二人の人物は白河の子だと当時から噂されていたのです。しかし今となっては、二人が白河の子かそうでないか、真偽のほどはわかりません。どちらにしても、白河天皇という人物の影響の大きさが伝わってくる話だと思います。


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第70代 後冷泉天皇

2008-10-01 10:21:51 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1025~1068
☆在位期間 1045~1068
☆両親
 父・後朱雀天皇 母・藤原嬉子(藤原道長女)

☆略歴(平安時代史事典より)

 名は親仁。後朱雀天皇の第一皇子。

 万寿二年八月三日、土御門第(上東門第)東対において誕生。母嬉子は、出産後二日にして疫病のため一九年の生涯を閉じ、皇太后正一位が追贈された。母薨去後は、祖母で伯母でもある藤原彰子(上東門院)のもとで成長。万寿四年四月着袴。長暦元年(一〇三七)正月親王宣下。同年七月元服、三品に叙される。更に翌月立太子。寛徳二年(一〇四五)正月、後朱雀天皇の譲位に伴い受禅。

治暦四年四月十九日、里内裏である高陽院中殿において崩御。船岡西野(現京都市北区紫野)で火葬に付され、円教寺に安置された。円教寺陵は京都市右京区竜安寺に所在。日記『後冷泉天皇御記』(散逸)を記したことが知られ、また『後拾遺』以下の勅撰集に七首入集する。

*ちなみに後冷泉天皇の乳母は、紫式部の娘で大弐三位と呼ばれた藤原賢子でした。

 関白には、前代に引き続いて藤原頼通が就任し、天皇は政治を頼通に任せ、自らはけまりや和歌に夢中になっていたと伝えられています。後冷泉天皇の世は摂関政治の最末期に位置づけられ、一応安定していました。しかし奥州では、俘囚の安倍頼時・貞任親子が叛乱し、陸奥守源頼義がこれを討伐するといった「前九年の役が勃発するなど、新しい時代の波が着実に押し寄せてきていたことも事実です。


☆父方の親族

 祖父・一条天皇 祖母・藤原彰子(藤原道長女)

おじ
 敦康親王・後一条天皇

おば
 脩子内親王・(女美)子内親王

いとこ
 藤原(女原)子(藤原頼通養女・後朱雀天皇中宮) 実父は敦康親王
 章子内親王(後冷泉天皇中宮)・馨子内親王(後一条朝の賀茂斎院・後三条天皇皇后) 父は後一条天皇


☆母方の親族

祖父・藤原道長 祖母・源 倫子(源 雅信女)

おじ
 藤原頼通 藤原教通 藤原頼宗 藤原顕信 藤原能信 藤原長家

おば
 藤原彰子 藤原妍子 藤原威子 藤原寛子 藤原尊子

主ないとこ
 藤原通房 橘 俊綱(橘 俊遠養子) 藤原師実 藤原寛子(以上、父は藤原頼通)
 藤原信長 藤原生子 藤原歓子(以上 父は藤原教通
 藤原俊家 藤原能長(藤原能信養子) 藤原延子(以上 父は藤原頼宗)
 藤原道家 藤原忠家(以上 父は藤原長家)

後一条天皇 後朱雀天皇(母は藤原彰子)*後朱雀天皇は実際は父ですが、母方の親族から見るといとこにも当たるわけです。
 禎子内親王(母は藤原妍子
 章子内親王 馨子内親王(以上、母は藤原威子) 
 敦元親王 環子内親王(実際の字はぎょくへんではなくにんべんだそうです)(以上 母は藤原寛子)
 源 俊房 源 顕房 源 麗子(以上 母は藤原尊子)


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟、 *は異母兄弟
 *後三条天皇

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *良子内親王(後朱雀朝の伊勢斎王) *娟子内親王(後朱雀朝の賀茂斎院) *祐子内親王 *(示某)子内親王(後冷泉朝の賀茂斎院) *正子内親王


☆おもな后妃と皇子

 章子内親王(後一条天皇皇女)

 藤原寛子(藤原頼通女)

 藤原歓子(藤原教通女) → 皇子某


☆末裔たち

 後冷泉天皇は、藤原歓子との間に皇子を一人もうけましたが、この皇子は夭折してしまいました。他の后妃にはついに皇子が生まれることがありませんでした。頼通や教通は、摂関家の繁栄のために後冷泉天皇に皇太子に立てられる皇子が生まれることを望んでいたのですが、その望みは果たせませんでした。

 そのため皇統は摂関家の娘を母に持たない異母弟、後三条天皇の系統に移っていきます。摂関家の力は衰え、やがて院政期という新しい時代が到来することになるのです。


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第68代 後一条天皇

2008-09-05 11:48:47 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1008~1036
☆在位期間 1016~1036
☆両親
 父・一条天皇 母・藤原彰子(藤原道長女)

☆略歴(平安時代史事典より)
 名は敦成。一条天皇の第二皇子。

 寛弘五年九月十一日誕生、同年十月十六日親王宣下、同八年六月十三日皇太子に立ち、長和五年正月二十九日践祚、二月七日即位。寛仁二年(一〇一八)正月三日、十一歳にて元服。同年三月七日道長の三女尚侍威子を納れて妃とした。この時威子は二十歳で、天皇に長ずること十歳。同年四月二十八日女御、十月十六日立后して中宮となり、章子・馨子内親王を生んだ。天皇在位二十一年、長元九年四月十七日に清涼殿に崩じた。年二十九歳。

*後一条天皇は即位したとき、9歳だったので、まず外祖父に当たる藤原道長が摂政となりますが、寛仁元年(1017)、その子頼通がこれに替わり、寛仁三年に関白となって政治を行いました。後宮の女性も威子ただ一人です。道長ファミリーにしっかりと守られていた天皇だったと言えそうです。

 ところで、後一条天皇の若すぎる崩御は、色々なところに波紋をもたらしたようです。

 天皇の寵臣であった源顕基(醍醐源氏の源俊賢の子)は、天皇の崩御後間もなく大原にて出家し、横川に隠棲してしまいます。天皇をよほど慕っていたのでしょうね。

また、中宮威子は、天皇の崩御の約5ヶ月後、痘瘡を病んで天皇の跡を追うように亡くなります。上でも触れたように、威子は天皇よりもかなり年上の后でしたが、小柄で初々しい威子と大人びた天皇は、それほど年が離れているようには見えなかったそうです。後宮のただ一人の女性として、威子は天皇と仲睦まじく生活していたのではないでしょうか。


☆父方の親族

祖父・円融天皇 祖母・藤原詮子(藤原兼家女)

*後一条天皇の父である一条天皇には兄弟姉妹がいませんので、後一条天皇の父方にはおじ・おば・いとこはいません。


☆母方の親族

祖父・藤原道長 祖母・源 倫子(源 雅信女)

おじ
 藤原頼通 藤原教通 藤原頼宗 藤原顕信 藤原能信 藤原長家

おば
 藤原妍子 藤原威子 藤原嬉子 藤原寛子 藤原尊子

主ないとこ
 藤原通房 橘 俊綱(橘 俊遠養子) 藤原師実 藤原寛子(以上、父は藤原頼通)
 藤原信長 藤原生子 藤原歓子(以上 父は藤原教通
 藤原俊家 藤原能長(藤原能信養子) 藤原延子(以上 父は藤原頼宗)
 藤原道家 藤原忠家(以上 父は藤原長家)

 禎子内親王(母は藤原妍子
 章子内親王 馨子内親王(以上、母は藤原威子) *実際は子供ですが、母方の親族から見るといとこにも当たるわけです。
 後冷泉天皇(母は藤原嬉子)
 敦元親王 環子内親王(実際の字はぎょくへんではなくにんべんだそうです)(以上 母は藤原寛子)
 源 俊房 源 顕房 源 麗子(以上 母は藤原尊子)


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *敦康親王 ○後朱雀天皇

姉妹
 *脩子内親王 *(女美)子内親王

おいとめい
 藤原(女原)子(藤原頼通養女・後朱雀天皇中宮・実父は敦康親王)
 後冷泉天皇・後三条天皇・良子内親王・娟子内親王・祐子内親王・(示某)子内親王・正子内親王(以上、父は後朱雀天皇)


后妃と皇女

 中宮 藤原威子(藤原道長女) → 章子内親王 馨子内親王


☆末裔たち
 後一条天皇には皇子が生まれなかったので、皇統は弟の後朱雀天皇に移りました。皇女たちも子を生まなかったので、後一条天皇の血は耐えてしまったのですが、「末裔たち」の項に何も書かないというのも、後一条天皇がちょっとお気の毒なような気がしたので、彼が残した二人の皇女、章子内親王と馨子内親王について、「平安時代史事典」の記述をもとに簡単に記すことにします。

・章子内親王(1026~1105)
 後一条天皇の第一皇女。
 万寿四年(1027)に内親王宣下、長元三年(1030)に袴着、内親王の最高位である一品に叙されました。長暦元年(1037)十二月、いとこに当たる東宮親仁親王(のちの後冷泉天皇の妃となります。天皇の践祚後、寛徳二年(1045)、女御となり、翌年に中宮となりました。
 後冷泉天皇が崩御した翌年の延久元年(1069)に落飾、女院となって二条院と呼ばれました。晩年は亡父後一条天皇の御陵のかたわらに菩提樹院を営み、長治二年九月同所で崩じました。

・馨子内親王(1029~1093)
 後一条天皇の第二皇女。
 長元二年(1029)四月、内親王宣下。ついで袴着を行い、二品に叙されました。長元四年(1031)、賀茂斎院に卜定されます(大斎院選子内親王の後任)。同九年、父帝の崩御のため斎院を退下します。
永承六年(1051)十一月、いとこに当たる東宮尊仁親王(後の後三条天皇)の妃となりました。天皇践祚の翌年の延久元年(1069)、中宮となります。しかし同五年、後三条天皇の出家とともに尼となりました。承保元年(1074)六月贈皇太后。西院皇后と称せられました。寛治七年九月崩御。

*道長の娘である威子を母とする二人の内親王は、二人とも天皇の中宮になっているのですね。摂関家の縁につながる二人の内親王が、いかに特別待遇を受けていたかがわかるような気がします。

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第71代 後三条天皇

2008-07-25 10:10:06 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1034~1073
☆在位期間 1068~1072

☆両親
 父・後朱雀天皇 母・禎子内親王

☆略歴

 名は尊仁。後朱雀天皇の第二皇子として生まれました。寛徳二年(1045)、12歳の時に東宮に立てられました。この立太子はもちろん父、後朱雀天皇の意向によるものだったのですが、これに助力した藤原能信の功績も大きいと言えます。しかし、藤原摂関家を外戚に持たない東宮だったため関白藤原頼通らにうとまれ、東宮累代の宝物である「壺切剣」も渡されないといった嫌がらせも受けました。

 治暦四年(1068)、35歳で即位。帝位にあること約4年半、延久四年(1072)十二月八日、第一皇子貞仁親王(白河天皇)に譲位しました。翌延久五年(1073)四月二十一日、急病により出家し(法名金剛行)、同年五月七日、40歳で崩御しました。

 後三条天皇は上でも書いたように藤原摂関家を外戚に持たない天皇であったため、摂関家以外の有能な人材を重用し、思い切った天皇親政を行いました。また、荘園整理令と記録荘園券契所の設置活動などの改革も行っています。後三条天皇の出現は、藤原摂関家の衰退を招き、やがて新しい時代、院政期への橋渡しとなりました。


☆父方の親族

 祖父・一条天皇 祖母・藤原彰子(藤原道長女)

おじ
 敦康親王・後一条天皇

おば
 脩子内親王・(女美)子内親王

いとこ
 藤原(女原)子(藤原頼通養女・後朱雀天皇中宮) 実父は敦康親王
 章子内親王(後冷泉天皇中宮)・馨子内親王(後一条朝の賀茂斎院・後三条天皇皇后) 父は後一条天皇


☆母方の親族

 祖父・三条天皇 祖母・藤原妍子(藤原道長女)

おじ
 敦明親王(小一条院)・敦儀親王・敦平親王・師明親王

おば
 当子内親王(三条朝の伊勢斎王)・子内親王

主ないとこ
 源 基平(大僧正行尊・後三条天皇女御の源 基子の父)・敦貞親王・敦賢親王(白河朝の伊勢斎王、淳子女王の父)・嘉子内親王(後冷泉朝の伊勢斎王)・斉子女王(白河朝の賀茂斎院) 父は敦明親王
 敬子女王(後冷泉朝の伊勢斎王) 父は敦平親王


☆兄弟姉妹

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *後冷泉天皇

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 ○良子内親王(後朱雀朝の伊勢斎王)・ ○娟子内親王(後朱雀朝の賀茂斎院・源 俊房室) *祐子内親王 *(示某)子内親王(後冷泉朝の賀茂斎院)


☆主な后妃と皇子・皇女

 馨子内親王(後一条天皇皇女)

 藤原茂子(藤原公成女・藤原能信養女) → 貞仁親王(白河天皇)・聡子内親王・俊子内親王(後三条朝の伊勢斎王)・佳子内親王(後三条・白河朝の賀茂斎院)・篤子内親王(白河朝の賀茂斎院・堀河天皇中宮)

 源 基子(源 基平女) → 実仁親王・輔仁親王

 藤原昭子(藤原頼宗女)

 侍従内侍(平 経国女) → 藤原有佐(藤原顕綱養子)


☆末裔たち

・その後の皇位継承について
 後三条天皇のあとに帝位についたのは、略歴の項でも述べましたように藤原茂子の生んだ第一皇子、貞仁親王、すなわち白河天皇です。そして白河天皇の東宮に立ったのは、源 基子の生んだ第二皇子、実仁親王でした。そして後三条上皇は、実仁親王のあとはその同母弟、輔仁親王の即位を望んでいたのでした。

 ところが実仁親王は1085年、東宮のまま15歳で世を去ってしまいます。そこで白河天皇は、弟の輔仁親王ではなく、自分の皇子である善仁親王を東宮に立て、即日譲位してしまいます。これが堀河天皇です。以後、堀河天皇の子孫が帝位につくこととなり、輔仁親王は天皇への道を閉ざされてしまいました。


・輔仁親王と源 有仁
 輔仁親王(1073~1119)は英明な皇子で、東宮に立てられるにふさわしい人物でしたが、上でも書いたように堀河天皇の即位により、天皇への道を閉ざされてしまいました。しかし、堀河天皇に皇子が生まれるまでは、村上源氏を中心に「輔仁親王を東宮に」という動きもあったようですが、堀河天皇の皇子、宗仁親王が東宮に立てられ、やがて鳥羽天皇として即位してからは完全に道が閉ざされ、失意の輔仁親王は仁和寺に入ってしまいます。

 そんな輔仁親王には、何人かの妻との間に源 有仁、守子内親王(崇徳朝の伊勢斎王)、怡子内親王(崇徳・近衛朝の賀茂斎院)、信証、行恵といった子供たちがいます。

 そのうち源 有仁(1103~1147)は一時、白河天皇の猶子になりますが、1119年に臣籍に降下して源姓を賜り、最終的には左大臣にまで昇進しました。美貌で詩歌・管絃の才に優れていたので、光源氏のようだと讃嘆されたそうです。


・後三条天皇の一人のご落胤とその子孫
 後三条天皇は侍従内侍と呼ばれた女性を寵愛し、その間に男児を一人もうけました。その男児は藤原顕綱の養子となったのですが、これは顕綱の母である藤原明子が、禎子内親王の乳母だったことに関係しているようです。それはともかくとして、彼は藤原有佐と名乗り、受領階級としてその一生を送りました。同じ後三条天皇の子である輔仁親王は政争に巻き込まれてしまいましたが、それに比べると有佐の生涯は平穏で、ある意味では幸せだったかもしれませんね。

 ところで、この有佐の子孫は思いがけないところとつながっているので、そのあたりを紹介してみたいと思います。

 有佐には娘がおり、その娘は藤原知信(藤原氏長良流)という官人と結婚しました。その間に生まれたのが歌人としても知られる為忠です。

 為忠の息子たちが、いわゆる大原三寂と言われる寂念(為業)、寂超(為経)、寂然(頼業)の三兄弟です。このうち寂超が美福門院加賀との間にもうけたのが隆信です。美福門院加賀はのちに藤原俊成と結婚して定家をもうけるので、隆信は定家の異父兄ということになります。

 隆信は歌人でもありますが、どちらかというと肖像画描きの名人として有名だと思います。そして、隆信の子が佐竹本・三十六歌仙絵巻を書いたことでも知られる藤原信実です。おお、後三条天皇の遺伝子がこんな所に!何かわくわくしますね。

*後三条天皇から藤原信実までの略系図
 後三条天皇 → 藤原有佐 → 女(藤原知信室) →藤原為忠 → 寂超(藤原為経) → 藤原隆信 → 藤原信実


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