☆生没年 1139~1155
☆在位期間 1141~1155
☆両親
父・鳥羽天皇 母・藤原得子(美福門院)
☆略歴
名は躰仁。鳥羽天皇の第九皇子。
生後三ヶ月で異母兄崇徳天皇の皇太子となり、三歳で即位。崇徳天皇は実は白河上皇の子だという噂があり、鳥羽上皇から「叔父子)と言われてうとまれていたため、寵愛する得子から躰仁が生まれると喜んで、彼を皇太子に立て、天皇に即位させたのでした。
そのようなわけで近衛天皇は、鳥羽上皇と得子のただ一人の男子でもあったため、父母の愛情を一身に受けて成長したと思われます。そして鳥羽上皇は、近衛天皇の即位に伴い、思うままの院政を執り行うこととなります。
その頃、摂関家の藤原忠通と頼長兄弟の対立が激化(詳しくは当ブログ内の「藤原多子」の項をご覧下さい)、近衛天皇もその渦の中に巻き込まれていきます。
近衛天皇が元服すると、頼長は養女の多子を入内させて皇后とし、ついで忠通も養女の呈子を入内させて中宮としました。天皇はそんな二人の対立を、なすすべもなくただ眺めているよりほかありませんでした。元々病弱だった天皇は眼病にかかり、久寿二年(1155)に十七歳の若さで崩御してしまいます。
その後間もなく、「近衛天皇が崩御したのは、頼長の呪詛のせいだ」という噂が広まります。この噂は忠通が流したと思われますが、鳥羽天皇と得子はこの噂を信じ、頼長を深く恨むようになります。これが保元の乱の一因となったのでした。自分が崩御したことがきっかけで、保元の乱のような大乱が起こるなど、近衛天皇は想像もしていなかったと思います。
このように周辺人物によって翻弄されてしまったような近衛天皇の人生ですが、彼は容姿端麗で頭も良く儀礼を学び、和歌にも優れ、多くの勅撰集に作が見えるそうです。もっと長生きしていたら、色々と業績を残した優れた天皇になれたかもしれませんね。
☆父方の親族
祖父・堀河天皇 祖母・藤原苡子(藤原実季女)
主なおじ
寛暁 最雲法親王
主なおば
宗子内親王(賀茂斎王 「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) 喜子内親王(伊勢斎王)
☆母方の親族
祖父・藤原長実 祖母・源方子(源俊房女)
主なおじ
藤原顕経 藤原顕盛 藤原長輔
その他、こんな方も!
曾祖父・藤原顕季(白河院近臣)
母の叔父・藤原家保
母の叔父・藤原顕輔(百人一首の歌人)
母のいとこ・藤原家成(家保の子、鳥羽院近臣 盛親の父)
母のいとこ・藤原清輔(顕輔の子 百人一首の歌人)
藤原得子は藤原魚名の子孫、末茂流の女性です。魚名の子孫たちについては、当ブログ内の藤原魚名とその子孫たちもご覧下さい。
☆兄弟姉妹とおい・めい
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*顕仁親王(崇徳天皇) *雅仁親王(後白河天皇) *通仁親王 *君仁親王 *本仁親王(覚性法親王)
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
○子内親王(八条院) ○(女朱)子内親王(高松院) ○叡子内親王 *統子内親王(上西門院) *禧子内親王 *妍子内親王(伊勢斎王) *頌子内親王(賀茂斎王)
主なおいとめい
重仁親王(父は崇徳天皇)
守仁親王(二条天皇) 憲仁親王(高倉天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王 亮子内親王(慇富門院) 式子内親王 観子内親王(宣陽門院) 以上 父は後白河天皇
海恵(母は(女朱)子内親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
藤原多子(藤原公能女・藤原頼長養女)
藤原呈子(藤原伊通女・藤原忠通養女)
☆末裔たち
近衛天皇は皇子や皇女を残さずに崩御しました。そのあとは、異母兄の雅仁親王が即位(後白河天皇)、その後はその皇子である二条天皇、更にはその皇子の六条天皇、、そして、後白河の皇子の高倉天皇へと、後白河の子孫たちが皇統を継いでいきます。
そのようなわけで、近衛天皇には末裔たちはいませんが、何も書かないのは寂しいので、彼の后たちについて、書きたいと思います。
多子についてはこちらにまとめてありますので、ここではもう一人の后、呈子について、「平安時代史事典」の記述をもとにまとめてみます。
☆藤原呈子(1131~1176)
父は藤原伊通(太政大臣)。母は藤原顕隆女の立子。
久安四年(1148) 美福門院の養女となる。
久安六年(1150) 摂政藤原忠通の養女となり、二月従三位に叙される。四月に近衛天皇の後宮に入内、六月に立后して中宮となる。忠通、頼長兄弟の対立の渦中に身を置くことになったわけですが、美福門院のうしろだてもあり、立場は安定していたと言われています。
久寿二年(1155) 七月、近衛天皇の崩御にあい翌八月落飾、法名を清浄観と称する。
保元元年(1156) 十月、皇后となる。
保元三年(1158) 二月、皇太后となる。
仁安三年(1168) 院号宣下を受け九条院と号す。藤原兼実は、「皇太后宮が院号宣下を受けるとは未曾有のことだ」と批判しています。
安元二年(1176) 九月十九日、病により四十六歳で崩じた。
院号宣下を受け、恵まれた晩年だったと思われますが、若くして近衛天皇と死に別れ、様々な政争を目にした彼女の心中はどうだったのでしょうか。多子同様、時代の波に翻弄された人生とも言えそうです。
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☆在位期間 1141~1155
☆両親
父・鳥羽天皇 母・藤原得子(美福門院)
☆略歴
名は躰仁。鳥羽天皇の第九皇子。
生後三ヶ月で異母兄崇徳天皇の皇太子となり、三歳で即位。崇徳天皇は実は白河上皇の子だという噂があり、鳥羽上皇から「叔父子)と言われてうとまれていたため、寵愛する得子から躰仁が生まれると喜んで、彼を皇太子に立て、天皇に即位させたのでした。
そのようなわけで近衛天皇は、鳥羽上皇と得子のただ一人の男子でもあったため、父母の愛情を一身に受けて成長したと思われます。そして鳥羽上皇は、近衛天皇の即位に伴い、思うままの院政を執り行うこととなります。
その頃、摂関家の藤原忠通と頼長兄弟の対立が激化(詳しくは当ブログ内の「藤原多子」の項をご覧下さい)、近衛天皇もその渦の中に巻き込まれていきます。
近衛天皇が元服すると、頼長は養女の多子を入内させて皇后とし、ついで忠通も養女の呈子を入内させて中宮としました。天皇はそんな二人の対立を、なすすべもなくただ眺めているよりほかありませんでした。元々病弱だった天皇は眼病にかかり、久寿二年(1155)に十七歳の若さで崩御してしまいます。
その後間もなく、「近衛天皇が崩御したのは、頼長の呪詛のせいだ」という噂が広まります。この噂は忠通が流したと思われますが、鳥羽天皇と得子はこの噂を信じ、頼長を深く恨むようになります。これが保元の乱の一因となったのでした。自分が崩御したことがきっかけで、保元の乱のような大乱が起こるなど、近衛天皇は想像もしていなかったと思います。
このように周辺人物によって翻弄されてしまったような近衛天皇の人生ですが、彼は容姿端麗で頭も良く儀礼を学び、和歌にも優れ、多くの勅撰集に作が見えるそうです。もっと長生きしていたら、色々と業績を残した優れた天皇になれたかもしれませんね。
☆父方の親族
祖父・堀河天皇 祖母・藤原苡子(藤原実季女)
主なおじ
寛暁 最雲法親王
主なおば
宗子内親王(賀茂斎王 「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) 喜子内親王(伊勢斎王)
☆母方の親族
祖父・藤原長実 祖母・源方子(源俊房女)
主なおじ
藤原顕経 藤原顕盛 藤原長輔
その他、こんな方も!
曾祖父・藤原顕季(白河院近臣)
母の叔父・藤原家保
母の叔父・藤原顕輔(百人一首の歌人)
母のいとこ・藤原家成(家保の子、鳥羽院近臣 盛親の父)
母のいとこ・藤原清輔(顕輔の子 百人一首の歌人)
藤原得子は藤原魚名の子孫、末茂流の女性です。魚名の子孫たちについては、当ブログ内の藤原魚名とその子孫たちもご覧下さい。
☆兄弟姉妹とおい・めい
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*顕仁親王(崇徳天皇) *雅仁親王(後白河天皇) *通仁親王 *君仁親王 *本仁親王(覚性法親王)
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
○子内親王(八条院) ○(女朱)子内親王(高松院) ○叡子内親王 *統子内親王(上西門院) *禧子内親王 *妍子内親王(伊勢斎王) *頌子内親王(賀茂斎王)
主なおいとめい
重仁親王(父は崇徳天皇)
守仁親王(二条天皇) 憲仁親王(高倉天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王 亮子内親王(慇富門院) 式子内親王 観子内親王(宣陽門院) 以上 父は後白河天皇
海恵(母は(女朱)子内親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
藤原多子(藤原公能女・藤原頼長養女)
藤原呈子(藤原伊通女・藤原忠通養女)
☆末裔たち
近衛天皇は皇子や皇女を残さずに崩御しました。そのあとは、異母兄の雅仁親王が即位(後白河天皇)、その後はその皇子である二条天皇、更にはその皇子の六条天皇、、そして、後白河の皇子の高倉天皇へと、後白河の子孫たちが皇統を継いでいきます。
そのようなわけで、近衛天皇には末裔たちはいませんが、何も書かないのは寂しいので、彼の后たちについて、書きたいと思います。
多子についてはこちらにまとめてありますので、ここではもう一人の后、呈子について、「平安時代史事典」の記述をもとにまとめてみます。
☆藤原呈子(1131~1176)
父は藤原伊通(太政大臣)。母は藤原顕隆女の立子。
久安四年(1148) 美福門院の養女となる。
久安六年(1150) 摂政藤原忠通の養女となり、二月従三位に叙される。四月に近衛天皇の後宮に入内、六月に立后して中宮となる。忠通、頼長兄弟の対立の渦中に身を置くことになったわけですが、美福門院のうしろだてもあり、立場は安定していたと言われています。
久寿二年(1155) 七月、近衛天皇の崩御にあい翌八月落飾、法名を清浄観と称する。
保元元年(1156) 十月、皇后となる。
保元三年(1158) 二月、皇太后となる。
仁安三年(1168) 院号宣下を受け九条院と号す。藤原兼実は、「皇太后宮が院号宣下を受けるとは未曾有のことだ」と批判しています。
安元二年(1176) 九月十九日、病により四十六歳で崩じた。
院号宣下を受け、恵まれた晩年だったと思われますが、若くして近衛天皇と死に別れ、様々な政争を目にした彼女の心中はどうだったのでしょうか。多子同様、時代の波に翻弄された人生とも言えそうです。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いします。
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