☆生没年 737~806
☆在位期間 781~806
☆両親
父・光仁天皇 母・高野新笠
☆略歴
光仁天皇(白壁王)の皇子。母は渡来系の血を引く高野新笠。名は山部。
天平九年(737)
白壁王の子として誕生。当時天皇は天武系の聖武天皇であり、天智天皇の孫である白壁王は皇位から最も遠い一親王であった。
天平宝字八年(764)
従五位下に叙せられ、官途の道を歩み始める。
宝亀元年(770)
称徳天皇が崩御すると父、白壁王が天皇に選ばれ践祚(光仁天皇)。白壁王が天皇に選ばれた理由として、聖武天皇の皇女、井上内親王を妃にしており、他戸王をもうけていたことなどが考えられる。山部は親王となり四品に叙される。翌年中務卿に任じられる。
宝亀三年(773)
皇太子となっていた異母弟、他戸親王が廃される。母井上内親王も皇后位を廃される。その後2人とも幽閉され、2年後に獄死する。
宝亀四年(774)
皇太子に立てられる。内臣藤原良継の女を妃にしていたことなどが理由か?
天応元年(781)
父、光仁天皇の譲位により践祚。弟の早良親王が皇太子に立てられる。
延暦元年(782)
氷上川継の乱を鎮定する。
延暦三年(784)
長岡京造営開始。
しかし翌年、造長岡京使の藤原種継が暗殺され、その後、首謀者として皇太子早良親王が逮捕される。親王は無実を訴え、淡路島に配流の途中に亡くなり、新皇太子として皇子安殿親王(母は藤原良継女乙牟漏)が立てられる。
しかしこの頃より、桓武天皇の周囲の人々(皇后藤原乙牟漏、夫人藤原旅子、母高野新笠、安殿親王妃藤原帯子など)が次々と世を去る。天皇は次第に、井上内親王や早良親王の怨霊のせいではないかとおびえるようになる。
更に洪水の被害なども重なり、長岡京造営は中止となり、新しい都造営に着手する。
延暦十三年(794)
平安京遷都。
延暦十九年(800)
早良親王に崇道天皇の称号を与え、廃后されていた井上内親王の皇后位を復活させる。
延暦二十五年(806)
3月17日(15日説も)崩御。柏原山陵に葬る。
桓武天皇の業績としては平安京遷都の他、坂上田村麻呂による蝦夷征伐、財政再建、地方政治の粛正、平城仏教の俗化を抑え、近江に梵釈寺を建て、最澄らを保護したこと、『続日本紀』『延暦交替式』等、史書・法典の整備などが挙げられます。皇位から最も遠い一親王だっただけに、天皇になることで政治や文化の保護に夢中になってしまったのでしょうか。
しかしその反面、怨霊におびえたり、一度決行した長岡京遷都を断念したりなど、「普通の人」という一面もあるような気がします。
☆父方の親族
祖父・志貴皇子(天智天皇皇子) 祖母・紀橡姫(紀諸人女)
主なおじ
湯原王 壱志王 榎井王
主なおば
難波女王
主ないとこ
壱志濃王 尾張女王*父は湯原王
神王*父は榎井王
☆母方の親族
祖父・和乙継 祖母・土師氏
☆主な兄弟姉妹と甥・姪
主な兄弟(○は同母兄弟、*は異母兄弟
○早良親王 *他戸親王
主な姉妹
○能登内親王 *酒人内親王
☆主な后妃と皇子・皇女
藤原乙牟漏(藤原良継女) → 安殿親王(平城天皇) 神野親王(嵯峨天皇 高志内親王(淳和天皇妃)
藤原旅子(藤原百川女) → 大伴親王(淳和天皇)
藤原吉子(藤原是公女) →伊予親王
酒人内親王(光仁天皇皇女) →朝原内親王(伊勢斎王 平城天皇妃)
多治比真宗(多治比長野女) → 葛原親王 賀陽親王
藤原小屎(藤原鷲取女) →万多親王
坂上全子(坂上苅田麻呂女) →高津内親王(嵯峨天皇妃)
坂上春子(坂上田村麻呂女) → 葛井親王
橘 常子(橘嶋田麻呂女) →大宅内親王(平城天皇妃)
藤原河子(藤原大継女) →仲野親王
藤原東子(藤原種継女) →甘南備内親王
藤原南子(藤原乙叡女) → 伊都内親王(平城天皇皇子阿保親王妃)
百済永継(元・藤原内麻呂の妻) → 良岑安世
百済王明信(元・藤原継縄の妻)
☆末裔たち
・その後の皇位継承について
桓武天皇の崩御後は皇太子安殿親王が皇位を継承(平城天皇)。
しかし平城天皇は3年後に退位、皇太弟神野親王が践祚します。(嵯峨天皇)。その皇太子には高丘親王(平城天皇の皇子)が立てられました。
しかし4年後、薬子の変によって高丘親王は廃され、大伴親王が皇太弟に立てられました(後の淳和天皇)。
このようにして桓武天皇の皇子たちが順々に即位したあと、最終的には嵯峨天皇の子孫たちが皇位を継承していくこととなります。
・葛原親王の子孫たち
桓武天皇が多治比真宗との間にもうけた葛原親王の子、高棟王は平姓を賜って臣籍降下し、最終的には都で大納言にまで昇進しました。その子孫は桓武平氏高棟流と言われ、公卿になったり、有能な実務官人を輩出して中級貴族になって活躍しています。
平安中期、一条天皇側近として活躍した惟仲、その弟で藤原定子(一条天皇中宮、のち皇后)の出産の時、自分の邸宅を提供した生昌、平清盛の妻時子、その弟で清盛の側近として活躍した時忠、その妹で後白河天皇中宮の滋子などがこの系統です。
一方、高棟の兄弟の高見王の子、高望王は寛平元年(889)、臣籍降下して平姓を賜り、上総介として東国に下向。そのまま土着しました。高望の子孫が桓武平氏高望流です。
なお、高見王に関しては尊卑分脈に名前があるだけで経歴などは一切わからない謎の人物なので実在を疑う説があり、高望王は葛原親王の子ではないかという説もあることをつけ加えておきます。このあたり、ちょっとミステリアスですね。
高望には多くの子があり、そのうち良将の子が将門です。
また、国香の子が後に伊勢平氏と言われる系統で、院政期に活躍する正盛、忠盛、清盛らを輩出しました。
参考までに、葛原親王と同じく多治比真宗を母とする賀陽親王の子孫の中にも、平姓を賜っている人物がいることもつけ加えておきます。
・仲野親王の子孫
桓武天皇が藤原河子との間にもうけた仲野親王の子、茂世は平姓を賜って臣籍降下しました。その子が好風、好風の子が「平中物語」の主人公として知られる貞文です。
また、仲野親王の女には伊勢斎王となった宣子女王と、宇多天皇の母、班子女王がいます。
・良岑安世の子孫
桓武天皇が百済永継との間にもうけた安世は臣籍降下して良岑姓を賜り、最終的には大納言にまで昇進しました。
なお、永継は初め、藤原北家の内麻呂の妻となり、真夏、冬嗣らをもうけました。つまり安世は冬嗣たちとは異父兄弟の関係になります。冬嗣はのちに藤原摂関家となる家の祖です。
その安世の子の一人に「百人一首」12番の歌の作者、僧正遍昭がおり、遍昭の子が「百人一首」21番の歌の作者、素性法師です。
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☆在位期間 781~806
☆両親
父・光仁天皇 母・高野新笠
☆略歴
光仁天皇(白壁王)の皇子。母は渡来系の血を引く高野新笠。名は山部。
天平九年(737)
白壁王の子として誕生。当時天皇は天武系の聖武天皇であり、天智天皇の孫である白壁王は皇位から最も遠い一親王であった。
天平宝字八年(764)
従五位下に叙せられ、官途の道を歩み始める。
宝亀元年(770)
称徳天皇が崩御すると父、白壁王が天皇に選ばれ践祚(光仁天皇)。白壁王が天皇に選ばれた理由として、聖武天皇の皇女、井上内親王を妃にしており、他戸王をもうけていたことなどが考えられる。山部は親王となり四品に叙される。翌年中務卿に任じられる。
宝亀三年(773)
皇太子となっていた異母弟、他戸親王が廃される。母井上内親王も皇后位を廃される。その後2人とも幽閉され、2年後に獄死する。
宝亀四年(774)
皇太子に立てられる。内臣藤原良継の女を妃にしていたことなどが理由か?
天応元年(781)
父、光仁天皇の譲位により践祚。弟の早良親王が皇太子に立てられる。
延暦元年(782)
氷上川継の乱を鎮定する。
延暦三年(784)
長岡京造営開始。
しかし翌年、造長岡京使の藤原種継が暗殺され、その後、首謀者として皇太子早良親王が逮捕される。親王は無実を訴え、淡路島に配流の途中に亡くなり、新皇太子として皇子安殿親王(母は藤原良継女乙牟漏)が立てられる。
しかしこの頃より、桓武天皇の周囲の人々(皇后藤原乙牟漏、夫人藤原旅子、母高野新笠、安殿親王妃藤原帯子など)が次々と世を去る。天皇は次第に、井上内親王や早良親王の怨霊のせいではないかとおびえるようになる。
更に洪水の被害なども重なり、長岡京造営は中止となり、新しい都造営に着手する。
延暦十三年(794)
平安京遷都。
延暦十九年(800)
早良親王に崇道天皇の称号を与え、廃后されていた井上内親王の皇后位を復活させる。
延暦二十五年(806)
3月17日(15日説も)崩御。柏原山陵に葬る。
桓武天皇の業績としては平安京遷都の他、坂上田村麻呂による蝦夷征伐、財政再建、地方政治の粛正、平城仏教の俗化を抑え、近江に梵釈寺を建て、最澄らを保護したこと、『続日本紀』『延暦交替式』等、史書・法典の整備などが挙げられます。皇位から最も遠い一親王だっただけに、天皇になることで政治や文化の保護に夢中になってしまったのでしょうか。
しかしその反面、怨霊におびえたり、一度決行した長岡京遷都を断念したりなど、「普通の人」という一面もあるような気がします。
☆父方の親族
祖父・志貴皇子(天智天皇皇子) 祖母・紀橡姫(紀諸人女)
主なおじ
湯原王 壱志王 榎井王
主なおば
難波女王
主ないとこ
壱志濃王 尾張女王*父は湯原王
神王*父は榎井王
☆母方の親族
祖父・和乙継 祖母・土師氏
☆主な兄弟姉妹と甥・姪
主な兄弟(○は同母兄弟、*は異母兄弟
○早良親王 *他戸親王
主な姉妹
○能登内親王 *酒人内親王
☆主な后妃と皇子・皇女
藤原乙牟漏(藤原良継女) → 安殿親王(平城天皇) 神野親王(嵯峨天皇 高志内親王(淳和天皇妃)
藤原旅子(藤原百川女) → 大伴親王(淳和天皇)
藤原吉子(藤原是公女) →伊予親王
酒人内親王(光仁天皇皇女) →朝原内親王(伊勢斎王 平城天皇妃)
多治比真宗(多治比長野女) → 葛原親王 賀陽親王
藤原小屎(藤原鷲取女) →万多親王
坂上全子(坂上苅田麻呂女) →高津内親王(嵯峨天皇妃)
坂上春子(坂上田村麻呂女) → 葛井親王
橘 常子(橘嶋田麻呂女) →大宅内親王(平城天皇妃)
藤原河子(藤原大継女) →仲野親王
藤原東子(藤原種継女) →甘南備内親王
藤原南子(藤原乙叡女) → 伊都内親王(平城天皇皇子阿保親王妃)
百済永継(元・藤原内麻呂の妻) → 良岑安世
百済王明信(元・藤原継縄の妻)
☆末裔たち
・その後の皇位継承について
桓武天皇の崩御後は皇太子安殿親王が皇位を継承(平城天皇)。
しかし平城天皇は3年後に退位、皇太弟神野親王が践祚します。(嵯峨天皇)。その皇太子には高丘親王(平城天皇の皇子)が立てられました。
しかし4年後、薬子の変によって高丘親王は廃され、大伴親王が皇太弟に立てられました(後の淳和天皇)。
このようにして桓武天皇の皇子たちが順々に即位したあと、最終的には嵯峨天皇の子孫たちが皇位を継承していくこととなります。
・葛原親王の子孫たち
桓武天皇が多治比真宗との間にもうけた葛原親王の子、高棟王は平姓を賜って臣籍降下し、最終的には都で大納言にまで昇進しました。その子孫は桓武平氏高棟流と言われ、公卿になったり、有能な実務官人を輩出して中級貴族になって活躍しています。
平安中期、一条天皇側近として活躍した惟仲、その弟で藤原定子(一条天皇中宮、のち皇后)の出産の時、自分の邸宅を提供した生昌、平清盛の妻時子、その弟で清盛の側近として活躍した時忠、その妹で後白河天皇中宮の滋子などがこの系統です。
一方、高棟の兄弟の高見王の子、高望王は寛平元年(889)、臣籍降下して平姓を賜り、上総介として東国に下向。そのまま土着しました。高望の子孫が桓武平氏高望流です。
なお、高見王に関しては尊卑分脈に名前があるだけで経歴などは一切わからない謎の人物なので実在を疑う説があり、高望王は葛原親王の子ではないかという説もあることをつけ加えておきます。このあたり、ちょっとミステリアスですね。
高望には多くの子があり、そのうち良将の子が将門です。
また、国香の子が後に伊勢平氏と言われる系統で、院政期に活躍する正盛、忠盛、清盛らを輩出しました。
参考までに、葛原親王と同じく多治比真宗を母とする賀陽親王の子孫の中にも、平姓を賜っている人物がいることもつけ加えておきます。
・仲野親王の子孫
桓武天皇が藤原河子との間にもうけた仲野親王の子、茂世は平姓を賜って臣籍降下しました。その子が好風、好風の子が「平中物語」の主人公として知られる貞文です。
また、仲野親王の女には伊勢斎王となった宣子女王と、宇多天皇の母、班子女王がいます。
・良岑安世の子孫
桓武天皇が百済永継との間にもうけた安世は臣籍降下して良岑姓を賜り、最終的には大納言にまで昇進しました。
なお、永継は初め、藤原北家の内麻呂の妻となり、真夏、冬嗣らをもうけました。つまり安世は冬嗣たちとは異父兄弟の関係になります。冬嗣はのちに藤原摂関家となる家の祖です。
その安世の子の一人に「百人一首」12番の歌の作者、僧正遍昭がおり、遍昭の子が「百人一首」21番の歌の作者、素性法師です。
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