アブソリュート・エゴ・レビュー

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ブレードランナー

2009-12-20 10:01:39 | 映画
『ブレードランナー』 リドリー・スコット監督   ☆☆☆☆★

 名作『ブレードランナー』の「ファイナル・カット」というものを入手し、久々に鑑賞した。この映画は劇場公開版の他にディレクターズ・カット、未公開シーンを入れた完全版など色んなバージョンがあってややこしいことになっているのだが、このファイナル・カットというのはそれらをいいとこ取りし、映像をリストアしたり音声のずれを修整したりと細かく改善されたバージョンらしい。DVDの最初にリドリー・スコットが出てきて、「これが私の一番好きなバージョンです」とわざわざ断る短い映像がある。

 それにしても、大画面テレビで観たのは今回が初めてだったが、なんとまあきれいな映像。もんのすごくきれいだ。目の正月。もともとこの映画は筋書きよりもこの独特の世界観、そしてその見事な映像化がウリの作品であり、この世界観そのものが主役と言ってもいい。要するにスクリーンの上に映し出されるイリュージョンに酔いしれる作品なのである。『スカイ・クロラ』のところでも似たようなことを書いたが、押井守監督も同じようなタイプの作品を創る作家だ。今ではすっかり有名になったデカダンなSF的光景、つまり降り続く酸性の雨、毒々しいネオン、ゴシック調の壮麗な建築物、東洋と西洋が入り混じった都市文明、こうしたもののオリジナルはすべてこの映画の中にある。

 あの「強力わかもと」の宣伝が強烈なインパクトを残す都会の光景もそうだが、他でも印象的な映像がたくさんある。たとえばピラミッドのようなタイレル社の中で、デッカードがレイチェルと初めて会う場面。フクロウがはばたき、壁一面に広がる窓から翳った光が差し込む。あるいはまた、デッカードの住むアパートで縛った髪をほどき、ピアノを弾くレイチェル。すべての場面が美意識の結晶であり、画面の隅々まで計算され尽くしている。

 そして忘れちゃいけない、ヴァンゲリスの音楽。シンセサイザーによるシンフォニックな音楽がこの映像をさらに引き立てる。ヴァンゲリスの音楽は非常に清澄かつロマンティック、しかも格調高いので、このノワール風の映像には一見ミスマッチな気がするが、逆にそれがユニークな化学作用を生んでいる。このデカダンな世界観の表面下に隠された古典的なロマンティシズムを、この音楽がまるで泉水をくみ上げるように引き出しているのである。

 原作はフィリップ・K・ディックの名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』だが、ストーリーも雰囲気も原作とはまるで別物になっている。原作ではデッカードは妻帯者で、マーサー教とエンパシー・ボックスという宗教的なガジェットが重要な意味を持っていた。そして例によって渾沌とした世界でアンドロイドとは何か、人間とは何かというディック的問いが追求されるのだが、この映画ではストーリーは大幅に単純化、直線化され、逃げ出したレプリカント達とそれを追うハンター=ブレードランナーのノワール・アクションになっている。ちなみにこの「ブレードランナー」というかっこいい名称は原作にはなく、ウィリアム・バロウズの小説から取られている。アンドロイドのことを「レプリカント」と呼ぶのも映画オリジナルだ。

 しかしながら、この映画で最も感動的な場面はディック的感性を受け継いでいる。デッカード(ハリソン・フォード)はレイチェル(ショーン・ヤング)をVKテストにかけ、彼女がレプリカントであることを知る。自分の正体に疑念を持ったレイチェルは、彼のアパートにやってきて写真を見せる。「私と母の写真よ」母親の腕に抱かれて微笑む少女。「記憶の移植だよ」とデッカードは言う。「それはタイレルの姪の記憶だ。君のじゃない」言葉を失うレイチェル。彼女は自分がレプリカントだということを知らなかったのである。それらは偽の記憶、偽の写真だった。ここでレイチェルが流す涙は、ディック以前の世界が知らなかった涙である。自分が偽者であることの哀しみ。そしてそれを見たデッカードは嘘をつく。「オーケー、悪い冗談だった。謝る。君は人間だよ」

 ここでデッカードはすでに、レイチェルを人間として扱い始めている。相手の感情を気づかい、傷つけないように配慮すること。思いやること。それは相手を人間として扱うということではないだろうか。

 もう一つの秀逸な、そして観客の気持ちを激しく動揺させずにはおかない場面は逃亡してきたレプリカントの一人、ゾーラの射殺である。ゾーラはデッカードから必死に逃げる。彼女の表情には怯えと、死への恐怖がある。デッカードは走る彼女を背後から撃つ。ゾーラは転倒し、力を振り絞って立ち上がり、ガラスを突き破って倒れる。あまりにも痛々しく、哀れな姿だ。彼女はそのまま、降りしきる人工雪の中で息絶える。この場面でのデッカードの残酷さは観客にショックを与える。もちろん、彼はただ仕事をしているだけだ。これがブレードランナーという仕事であり、レプリカントの末路なのである。しかしそれは、レプリカントの死が人間の死と寸分の違いもないという事実をやわらげはしない。

 そして終盤は、ルドガー・ハウアー演じるレプリカント・ロイとデッカードが廃棄されたビルの中で繰り広げる闘いのシークエンスとなる。リドリー・スコット監督らしい強烈な光と影のコントラスト、そしてしたたる水が印象的だが、かなり重苦しく、悪夢じみたクライマックスになっている。私はこの終盤の展開は今ひとつだと思う。単調だし、長い。あの最後に出てくる白い鳩もやり過ぎじゃないだろうか。

 私が最初に観たのは劇場公開版だったが、冒頭から最後までハリソン・フォードつまりデッカードのナレーションが入っていた。そして「ブレードランナーとは…」とか「もちろん、レプリカントには鱗はない…」とか要所要所で親切に説明してくれるのである。最後、なぜロイがデッカードを助けたか、なんてことまで説明していた。映画が分かりにくいと思った映画会社が付けさせたらしいが、あれがないだけでも随分と印象が違う。もちろん、ない方が全然いい。それから劇場公開版のラストはそこだけ緑と光溢れるシーンになっていたが、ディレクターズ・カット以降それはなくなっている。デッカードとレイチェルがエレベーターに乗ったところで終わりである。ノワールっぽい、渋い終わり方だ。


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