
『明日に向かって撃て』 ジョージ・ロイ・ヒル監督 ☆☆☆☆☆
久しぶりに、所有するDVDで再見。これも間違いなく「名画」である。何かの要素が突出した実験的なまたは挑発的な映画ではなく、あるいは奇抜な、もしくは奇を衒った映画ではなく、情景、人物、ストーリー、情緒、ユーモア、ペーソス、そして美意識、これらが渾然一体となって普遍的な感動をもたらす。すべての要素が、ある品格の中でバランスを保っている。「名画」とはそういうものだと思う。
映写機のカタカタいう音と、とぎれとぎれのピアノの音、そしてセピア色の画面で始まるこの映画は、最初から独特のトーンで語りかけてくる。西部劇の体裁をとってはいるけれども、他のどんな西部劇にも似ていない。押し付けがましくなく、控えめで穏やかだけれども明らかに独自の美意識に貫かれており、その美意識はみずみずしい映像やバート・バカラックの音楽、そして西部劇らしからぬキャラクター造形やストーリー展開と、すべてにおいて首尾一貫している。陽光にきらめく川の水面や目に沁みるような緑など、これほど情感豊かな光景を映し出したウェスタンは他にないだろう。というより、この映画はジャンルものでは全然なく、ただ西部を舞台にした一個の美しい映画というべきだろう。
そして何よりも、主演スターであるポール・ニューマンとロバート・レッドフォード、この二人の魅力とケミストリーがあまりにも素晴らしいために、映画を観ていると彼ら二人の存在感が他のすべてを圧倒してしまうように思える。原題は「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」、まさにこの二人とその生き様こそがこの映画のテーマであり、ストーリーなのだ。
かつて実在した強盗団「壁の穴」のアウトロー二人、知能犯のブッチと早撃ちガンマンのサンダンス。この二人は別に正義漢でも義賊でも何でもなく、人助けをするわけでも仇討ちをするわけでも悪人を懲らしめるわけでもない。ただ気ままに、今を楽しく刹那的に生きているだけだ。その生き方は限りなくキリギリス的である。マッチョなところも全然なく、凄腕の追っ手がやってくるとひたすら逃げ回る。そのアウトロー性やカリスマ性にもかかわらず、この二人はとても子供っぽい。物語の後半でエッタが「農夫になってまじめに生きる手もある」と提案しても、二人はまったく取り合わない。嫌なことに耐えて、がんばって生きていこうという発想がないのである。だからブッチとサンダンスの物語は必然的に楽園喪失の物語、崩壊と凋落の物語となる。前半の楽しいムードはやがて陰り、二人は破滅へ向かって転がり落ちていく。
二人のアウトローは快感原則の世界に生きている。スリルと興奮、そして愛や友情が彼らの世界のすべてであり、だから法律や世間的な因習などには一顧だにしない。どうしようもない二人だが、しかし観客はやがてこの二人を愛するようになる。それはもちろん数々のエピソードを通して彼らの中にある優しさや寂しさが描かれ、それに共感するためだが、より本質的には、二人の中にあるどこか子供のような無垢に惹かれるせいだ。しかし快感原則はやがて現実の壁に突き当たらねばならない。夢の時間は続かない。いつか現実原則が彼らを打ち負かし、楽園を粉砕する。これは避けがたい必然であり、悲しい人生の真実だ。映画の中で、友人の保安官が二人に言う。「もう遅いんだ。お前達二人を待っているのはもう、血まみれの死しかない。あとはただ場所を選ぶだけさ」
追い込まれたブッチとサンダンスはエッタを連れてボリビアに逃げる。そこで再び古き良き時代を取り戻したかに見えた三人だが、そこにも追っ手が迫るに至り、強盗をやめて堅気になろうと決心する。そして給料袋のボディガードになるが、皮肉なことに、それまで強盗生活の中で一人も人を殺したことがなかったブッチが、この「堅気の仕事」の中で初めて人を殺すことになる。給料泥棒を射殺したあとの彼の放心と幻滅の表情は、まさに現実原則に直面し、覚醒を促された子供の表情だ。
そしてエッタが去り、避けがたい二人の最期がやってくる。警官隊に包囲されて弾薬を取りに走るブッチ、二丁拳銃でそれを援護するサンダンス。このクライマックスの銃撃戦はスリリングとか手に汗握るとかいうより、限りなく悲愴である。もはや誰の目にも、彼らがここで死ぬことは明らかだ。しかし最後の最後まで、彼らは彼ら自身であることを止めない。
「次はオーストラリアだ。考えといてくれ」とブッチ。「分かった、考えとく」とサンダンス。そう言って、これまでいつもそうだったように、二人並んで弾幕の中に飛び出していく。
ラストのストップモーションは映画史に残る名場面と言われている。映画の冒頭と呼応するように画面がセピア色になり、ピアノの調べとともに終わっていく。彼ら二人は結局、現実原則に従って生きることはできなかった。愚かで子供っぽい、刹那的なアウトローの生き様だが、私たちの中にもどこかそんな生き方に憧れる部分が存在するはずだ。二人の人生ははかない。が、この映画はそのはかなさゆえに私たちを魅了し、人間の哀しさを教えるのである。
久しぶりに、所有するDVDで再見。これも間違いなく「名画」である。何かの要素が突出した実験的なまたは挑発的な映画ではなく、あるいは奇抜な、もしくは奇を衒った映画ではなく、情景、人物、ストーリー、情緒、ユーモア、ペーソス、そして美意識、これらが渾然一体となって普遍的な感動をもたらす。すべての要素が、ある品格の中でバランスを保っている。「名画」とはそういうものだと思う。
映写機のカタカタいう音と、とぎれとぎれのピアノの音、そしてセピア色の画面で始まるこの映画は、最初から独特のトーンで語りかけてくる。西部劇の体裁をとってはいるけれども、他のどんな西部劇にも似ていない。押し付けがましくなく、控えめで穏やかだけれども明らかに独自の美意識に貫かれており、その美意識はみずみずしい映像やバート・バカラックの音楽、そして西部劇らしからぬキャラクター造形やストーリー展開と、すべてにおいて首尾一貫している。陽光にきらめく川の水面や目に沁みるような緑など、これほど情感豊かな光景を映し出したウェスタンは他にないだろう。というより、この映画はジャンルものでは全然なく、ただ西部を舞台にした一個の美しい映画というべきだろう。
そして何よりも、主演スターであるポール・ニューマンとロバート・レッドフォード、この二人の魅力とケミストリーがあまりにも素晴らしいために、映画を観ていると彼ら二人の存在感が他のすべてを圧倒してしまうように思える。原題は「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」、まさにこの二人とその生き様こそがこの映画のテーマであり、ストーリーなのだ。
かつて実在した強盗団「壁の穴」のアウトロー二人、知能犯のブッチと早撃ちガンマンのサンダンス。この二人は別に正義漢でも義賊でも何でもなく、人助けをするわけでも仇討ちをするわけでも悪人を懲らしめるわけでもない。ただ気ままに、今を楽しく刹那的に生きているだけだ。その生き方は限りなくキリギリス的である。マッチョなところも全然なく、凄腕の追っ手がやってくるとひたすら逃げ回る。そのアウトロー性やカリスマ性にもかかわらず、この二人はとても子供っぽい。物語の後半でエッタが「農夫になってまじめに生きる手もある」と提案しても、二人はまったく取り合わない。嫌なことに耐えて、がんばって生きていこうという発想がないのである。だからブッチとサンダンスの物語は必然的に楽園喪失の物語、崩壊と凋落の物語となる。前半の楽しいムードはやがて陰り、二人は破滅へ向かって転がり落ちていく。
二人のアウトローは快感原則の世界に生きている。スリルと興奮、そして愛や友情が彼らの世界のすべてであり、だから法律や世間的な因習などには一顧だにしない。どうしようもない二人だが、しかし観客はやがてこの二人を愛するようになる。それはもちろん数々のエピソードを通して彼らの中にある優しさや寂しさが描かれ、それに共感するためだが、より本質的には、二人の中にあるどこか子供のような無垢に惹かれるせいだ。しかし快感原則はやがて現実の壁に突き当たらねばならない。夢の時間は続かない。いつか現実原則が彼らを打ち負かし、楽園を粉砕する。これは避けがたい必然であり、悲しい人生の真実だ。映画の中で、友人の保安官が二人に言う。「もう遅いんだ。お前達二人を待っているのはもう、血まみれの死しかない。あとはただ場所を選ぶだけさ」
追い込まれたブッチとサンダンスはエッタを連れてボリビアに逃げる。そこで再び古き良き時代を取り戻したかに見えた三人だが、そこにも追っ手が迫るに至り、強盗をやめて堅気になろうと決心する。そして給料袋のボディガードになるが、皮肉なことに、それまで強盗生活の中で一人も人を殺したことがなかったブッチが、この「堅気の仕事」の中で初めて人を殺すことになる。給料泥棒を射殺したあとの彼の放心と幻滅の表情は、まさに現実原則に直面し、覚醒を促された子供の表情だ。
そしてエッタが去り、避けがたい二人の最期がやってくる。警官隊に包囲されて弾薬を取りに走るブッチ、二丁拳銃でそれを援護するサンダンス。このクライマックスの銃撃戦はスリリングとか手に汗握るとかいうより、限りなく悲愴である。もはや誰の目にも、彼らがここで死ぬことは明らかだ。しかし最後の最後まで、彼らは彼ら自身であることを止めない。
「次はオーストラリアだ。考えといてくれ」とブッチ。「分かった、考えとく」とサンダンス。そう言って、これまでいつもそうだったように、二人並んで弾幕の中に飛び出していく。
ラストのストップモーションは映画史に残る名場面と言われている。映画の冒頭と呼応するように画面がセピア色になり、ピアノの調べとともに終わっていく。彼ら二人は結局、現実原則に従って生きることはできなかった。愚かで子供っぽい、刹那的なアウトローの生き様だが、私たちの中にもどこかそんな生き方に憧れる部分が存在するはずだ。二人の人生ははかない。が、この映画はそのはかなさゆえに私たちを魅了し、人間の哀しさを教えるのである。