
(前回の続き)
この純然たる知恵比べからの逸脱を不満に思うミステリ・ファンは『殺人処方箋』を低く評価するかも知れないが、いわゆる謎解きに留まらない心理的駆け引きをミステリに導入した点でこれは画期的だったと思う。従来のミステリ・ドラマ、事件が起きて探偵が最後に謎解きをするというパターンのドラマと比較した時、コロンボ作品の斬新さと柔軟性、そして知的スリルの卓越性は明白だ。それは倒叙ミステリという形式だからだろう、という人はコロンボ以前の倒叙ミステリ、たとえばソーンダイク博士ものやフレンチ警部ものを読んでみればいい。コロンボが倒叙ミステリとしてもいかに斬新だったか分かるはずだ。私見では、コロンボには探偵が登場する倒叙ミステリ、探偵が登場しない犯罪小説寄りの倒叙ミステリ、そしてディベートの面白さで見せる法廷もの、とさまざまな要素がミックスされている。そしてそこに投入されたポルフィーリィ判事の双生児=コロンボ警部補が、従来のフェアプレイ型のミステリにはあり得ない異形の探偵役として、すべての要素を融合させる。
もともと犯人(フレミングとジョーンのコンビ)が主役だった舞台の名残もあるのだろう、この『殺人処方箋』では完全に犯人側の視点で話が進んでいく。犯行を行うまでの描写が長くて丁寧なのもそうだし、コロンボとの対決場面もそうだ。たとえばコロンボが突然フレミングのアパートにやってきた時、ジョーンは寝室に隠れるが、グラスを片付けるのを忘れる。フレミングは姿勢を変えてなんとかそれを隠し、コロンボの隙を見て片付ける。コロンボは結局これに気づかない。それからアクシデントも多く、殺したはずの妻が危篤状態で生きている、ジョーンが手袋の件でミスをする、ニセの犯人が自首してくる、などさまざまな趣向が凝らされていて、犯人の心理を翻弄する。
そして犯人視点ということで、コロンボ側の描写はほぼ皆無だ。つまりコロンボは必ず犯人と対峙した状態で登場し、他の刑事と相談したり、あるいは後のシリーズのように解決のヒントをつかむ場面なんてものはない。従って観客にもコロンボが何を考えているのか分からない。観客は犯人と同じ立場でコロンボを見る。これがまた本作のコロンボのつかみ所のなさ、不気味さを助長している。たとえばニセ犯人であるトミーの自白だが、フレミングはこれについてコロンボに言う。「ひょっとしたら、このトミーのエピソードそのものが君の創作なんじゃないのか?」するとコロンボは打てば響くように問い返す。「何のために私がそんなことをするんです?」
結局、このトミーの件はコロンボのでっち上げだったのかどうか分からないままだ。
そしてラスト。コロンボお得意のトラップだが、これまでのすべて、つまりコロンボがジョーンを脅したこと、ジョーンが半狂乱になってフレミングに電話をかけたことなどのすべてが伏線となって、犯人と同時に観客を騙す仕掛けになっている。結局コロンボはフレミングの愛情が偽物であることを暴くことによって、ジョーンに自供させる。冒頭、ジョーンがフレミングに「私を愛してる?」と尋ねる場面があるが、結局すべてはそこに集約されてくる。次の『死者の身代金』と同じでこの『殺人処方箋』も、知的にはほぼ完璧な犯人の、人間性の欠陥をつくことによって事件を解決するというアンチ・ミステリ的な結末だ。
それにしても、やはりジョーンにとってこれは実に残酷な解決方法だったといわなければならない。コロンボは「聞かせたいことがある」と言って彼女をつれて来たようだが、フレミングの性格の洞察、そしてそれを誘導する自分の話術に絶大な自信がなければ出来ることじゃない。そしてジョーンが落ちたと見るや、もうコロンボはフレミングに話しかけもない。「これで自供する気になりましたか?」と事務的にジョーンに話しかける。ジョーンは力なくうなずくだけだ。
コロンボはジョーンを支えているのがフレミングへの愛情だと見て取り、それを突きくずしてみせたのである。なんという恐ろしい刑事だろうか。自分の知力を過信し、「君にこの犯人を捕まえることはできない」なんて言っていたフレミングを完全に掌の上で踊らせてしまった。そういうコロンボのよりどころは灰色の脳細胞でも論理的推理能力でもなく(もちろんそれも備えているが)、殺人課デカのプロフェッショナリズムである。彼は自信満々のフレミングに言う。「どんなに頭のいい犯人でも、アマチュアです。一回の経験しかない。それに対して我々はそれでメシを喰ってる。何百件と殺しを見ているんです」
私はこの『殺人処方箋』が大好きで、もう何度観たか分からないが、この作品にこそもっとも凄みのあるコロンボと優れた脚本があると思っている。コロンボが怒鳴ったりすることから、本作はまだ荒いプロトタイプで、後のシリーズ作品の方が洗練されていると思われがちだが、コロンボのカメレオン性、迫力、緻密に計算されたセリフ、パターン化されていない展開、戦術の豊富さ、緊迫感など、先入観抜きに見ればあらゆる点で『殺人処方箋』の方が優れている。シリーズ作品は本作のコロンボを親しみやすく修整し、観客を不安にする要素を取り除き、プロットの一部を抜き出して分かりやすくパターン化し、予定調和でシュガーコーティングすることによってお茶の間に普及させたのである。
最後にもう一つ。日本でコロンボといえば小池朝雄の吹き替えだが、本作に限ってはぜひともピーター・フォークのオリジナル音声で観て欲しい。小池朝雄の声は後のシリーズ・キャラクターとなったコロンボには大変良く合うが、先にも書いたように本作のコロンボは別物である。小池朝雄ののんびりした印象の声と本作におけるコロンボは違い過ぎる。フォークの喋り方と声はむしろクールで、鋭く、抑制されている。こっちでなければ本作の真価は分からないだろう。日本では小池朝雄の吹き替えじゃないとコロンボを観れないという人もいるらしいが、日本のコロンボ・ファンの間で『殺人処方箋』の人気があまり高くないのは、ひょっとしたらそのせいじゃないかと思うくらいだ。
この純然たる知恵比べからの逸脱を不満に思うミステリ・ファンは『殺人処方箋』を低く評価するかも知れないが、いわゆる謎解きに留まらない心理的駆け引きをミステリに導入した点でこれは画期的だったと思う。従来のミステリ・ドラマ、事件が起きて探偵が最後に謎解きをするというパターンのドラマと比較した時、コロンボ作品の斬新さと柔軟性、そして知的スリルの卓越性は明白だ。それは倒叙ミステリという形式だからだろう、という人はコロンボ以前の倒叙ミステリ、たとえばソーンダイク博士ものやフレンチ警部ものを読んでみればいい。コロンボが倒叙ミステリとしてもいかに斬新だったか分かるはずだ。私見では、コロンボには探偵が登場する倒叙ミステリ、探偵が登場しない犯罪小説寄りの倒叙ミステリ、そしてディベートの面白さで見せる法廷もの、とさまざまな要素がミックスされている。そしてそこに投入されたポルフィーリィ判事の双生児=コロンボ警部補が、従来のフェアプレイ型のミステリにはあり得ない異形の探偵役として、すべての要素を融合させる。
もともと犯人(フレミングとジョーンのコンビ)が主役だった舞台の名残もあるのだろう、この『殺人処方箋』では完全に犯人側の視点で話が進んでいく。犯行を行うまでの描写が長くて丁寧なのもそうだし、コロンボとの対決場面もそうだ。たとえばコロンボが突然フレミングのアパートにやってきた時、ジョーンは寝室に隠れるが、グラスを片付けるのを忘れる。フレミングは姿勢を変えてなんとかそれを隠し、コロンボの隙を見て片付ける。コロンボは結局これに気づかない。それからアクシデントも多く、殺したはずの妻が危篤状態で生きている、ジョーンが手袋の件でミスをする、ニセの犯人が自首してくる、などさまざまな趣向が凝らされていて、犯人の心理を翻弄する。
そして犯人視点ということで、コロンボ側の描写はほぼ皆無だ。つまりコロンボは必ず犯人と対峙した状態で登場し、他の刑事と相談したり、あるいは後のシリーズのように解決のヒントをつかむ場面なんてものはない。従って観客にもコロンボが何を考えているのか分からない。観客は犯人と同じ立場でコロンボを見る。これがまた本作のコロンボのつかみ所のなさ、不気味さを助長している。たとえばニセ犯人であるトミーの自白だが、フレミングはこれについてコロンボに言う。「ひょっとしたら、このトミーのエピソードそのものが君の創作なんじゃないのか?」するとコロンボは打てば響くように問い返す。「何のために私がそんなことをするんです?」
結局、このトミーの件はコロンボのでっち上げだったのかどうか分からないままだ。
そしてラスト。コロンボお得意のトラップだが、これまでのすべて、つまりコロンボがジョーンを脅したこと、ジョーンが半狂乱になってフレミングに電話をかけたことなどのすべてが伏線となって、犯人と同時に観客を騙す仕掛けになっている。結局コロンボはフレミングの愛情が偽物であることを暴くことによって、ジョーンに自供させる。冒頭、ジョーンがフレミングに「私を愛してる?」と尋ねる場面があるが、結局すべてはそこに集約されてくる。次の『死者の身代金』と同じでこの『殺人処方箋』も、知的にはほぼ完璧な犯人の、人間性の欠陥をつくことによって事件を解決するというアンチ・ミステリ的な結末だ。
それにしても、やはりジョーンにとってこれは実に残酷な解決方法だったといわなければならない。コロンボは「聞かせたいことがある」と言って彼女をつれて来たようだが、フレミングの性格の洞察、そしてそれを誘導する自分の話術に絶大な自信がなければ出来ることじゃない。そしてジョーンが落ちたと見るや、もうコロンボはフレミングに話しかけもない。「これで自供する気になりましたか?」と事務的にジョーンに話しかける。ジョーンは力なくうなずくだけだ。
コロンボはジョーンを支えているのがフレミングへの愛情だと見て取り、それを突きくずしてみせたのである。なんという恐ろしい刑事だろうか。自分の知力を過信し、「君にこの犯人を捕まえることはできない」なんて言っていたフレミングを完全に掌の上で踊らせてしまった。そういうコロンボのよりどころは灰色の脳細胞でも論理的推理能力でもなく(もちろんそれも備えているが)、殺人課デカのプロフェッショナリズムである。彼は自信満々のフレミングに言う。「どんなに頭のいい犯人でも、アマチュアです。一回の経験しかない。それに対して我々はそれでメシを喰ってる。何百件と殺しを見ているんです」
私はこの『殺人処方箋』が大好きで、もう何度観たか分からないが、この作品にこそもっとも凄みのあるコロンボと優れた脚本があると思っている。コロンボが怒鳴ったりすることから、本作はまだ荒いプロトタイプで、後のシリーズ作品の方が洗練されていると思われがちだが、コロンボのカメレオン性、迫力、緻密に計算されたセリフ、パターン化されていない展開、戦術の豊富さ、緊迫感など、先入観抜きに見ればあらゆる点で『殺人処方箋』の方が優れている。シリーズ作品は本作のコロンボを親しみやすく修整し、観客を不安にする要素を取り除き、プロットの一部を抜き出して分かりやすくパターン化し、予定調和でシュガーコーティングすることによってお茶の間に普及させたのである。
最後にもう一つ。日本でコロンボといえば小池朝雄の吹き替えだが、本作に限ってはぜひともピーター・フォークのオリジナル音声で観て欲しい。小池朝雄の声は後のシリーズ・キャラクターとなったコロンボには大変良く合うが、先にも書いたように本作のコロンボは別物である。小池朝雄ののんびりした印象の声と本作におけるコロンボは違い過ぎる。フォークの喋り方と声はむしろクールで、鋭く、抑制されている。こっちでなければ本作の真価は分からないだろう。日本では小池朝雄の吹き替えじゃないとコロンボを観れないという人もいるらしいが、日本のコロンボ・ファンの間で『殺人処方箋』の人気があまり高くないのは、ひょっとしたらそのせいじゃないかと思うくらいだ。
『殺人処方箋』という孤高の傑作が持つ魅力を余すところなく描破していて、私のような舌足らずなファンからすれば溜飲が下がるような思いです。
私もDVDで何度観たか分からないほど繰り返し観ていますが、実は原語版は一度も観たことがなかったので、今度はピーター・フォークのオリジナル音声で観てみます。
原語版は一度も観られたことがないとのこと、ぜひ一度ご覧下さい。この作品でのピーター・フォークのクールで抑制されたセリフ回しは最高、と個人的には思います。
余韻冷めやらず検索でこの記事を見つけました。
魅入られました。面白かったです。
ずいぶん古いドラマなのに夢中になりました。
誰かとこの思いを分かち合いたかったのですが、
この記事を読めてそういう気分を味わえました。
今観ると映像的にもかなり古いですが、にもかかわらず夢中になられたというのは作品のクオリティに加えて、すてらさんの見る目の確かさですね。
よろしければコロンボ・シリーズの方も(もし未見であれば)ぜひご覧になって下さい。特に初期は見ごたえあるものが多いです。