「日本人は何故『さようなら』と別れるか」(ちくま新書)を読んだ。
読み終えるのに時間がかかってしまったので、ここに内容をまとめるのは
かなり難しい。
『さようなら』と言う言葉に込められた日本人の意識を追及した哲学書に
なっている。この言葉は、「そうならなければならないならば」と言う
必然と、未来へつながる思いと不可避を受け止める諦念を併せ持つと言う。
私はこの本を読みながら、「お早う」「こんにちは」「こんばんは」と言う
日本の挨拶の言葉が離れなかった。
何年も前になるが、私はこれら挨拶の言葉が翻訳されてできた言葉だと
思ったことがある。中国語や朝鮮語にない言葉だからだ。
でも考えてみると、これら挨拶の言葉のあとに省略されている言葉がある
ことが判る。
「お早いお出でで」
「こんにちは生憎の雨模様で」 などなど・・・
つまり、時候の挨拶の省略なのだと思った。
日本人は無自覚のうちに、どんなに偶然の出会いであっても時候の挨拶に
始まって、必然の別れの挨拶をしていることになるのだろうか。
これは手紙と同じなのではないか。
手紙と同じならば、「こんにちは」と「さようなら」の間に何かの展開が
ある。
展開とは会話の場合、相手を思いやる事なのかもしれない。
「さようなら」と言う言葉から、ついこんなことを考えてしまった。
読み終えるのに時間がかかってしまったので、ここに内容をまとめるのは
かなり難しい。
『さようなら』と言う言葉に込められた日本人の意識を追及した哲学書に
なっている。この言葉は、「そうならなければならないならば」と言う
必然と、未来へつながる思いと不可避を受け止める諦念を併せ持つと言う。
私はこの本を読みながら、「お早う」「こんにちは」「こんばんは」と言う
日本の挨拶の言葉が離れなかった。
何年も前になるが、私はこれら挨拶の言葉が翻訳されてできた言葉だと
思ったことがある。中国語や朝鮮語にない言葉だからだ。
でも考えてみると、これら挨拶の言葉のあとに省略されている言葉がある
ことが判る。
「お早いお出でで」
「こんにちは生憎の雨模様で」 などなど・・・
つまり、時候の挨拶の省略なのだと思った。
日本人は無自覚のうちに、どんなに偶然の出会いであっても時候の挨拶に
始まって、必然の別れの挨拶をしていることになるのだろうか。
これは手紙と同じなのではないか。
手紙と同じならば、「こんにちは」と「さようなら」の間に何かの展開が
ある。
展開とは会話の場合、相手を思いやる事なのかもしれない。
「さようなら」と言う言葉から、ついこんなことを考えてしまった。
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