マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

山手線命名100周年

2009年10月20日 | 身辺雑記

 ”東京の足”山手線が10月で命名100年周年を迎えたことを記念して、JR東日本は焦げ茶色の車両を走らせています。今回復活した旧型電車の色は「ぶどう色2号」と言い、昭和30年代まで使われていたそうです。当時よく乗ったその車両、ポスターで見かけ是非乗車し、写真も撮りたいと思い、通過時刻を駒込駅や日暮里駅で聞いて、待っているのですが、未だおめもじ叶わずで、フラストレーションがたまっています。


   (偶然遭遇し、一瞬だけ撮った「ぶどう色2号」)
 

 一方で、山手線駅の改築が進んでいます。マーちゃんが良く乗るのは上野・池袋間ですが、特にこの区間での変化が激しいと思います。上野駅は数年前に大改築が行われ、駅中のレストランなどが開店し多くの人の知るところなっていますが、それ以外では日暮里駅が華々しくデビューしました。昨年には「日暮里・舎人ライナー」が開通し、駅近辺の高層マンションの建設等も重なり、山手線内一番の変わり様だと思います。田端駅も新装なり、駒込駅には駅隣接のホテルが9月に開業、大塚駅では南北を結ぶ通路が完成したばかり。巣鴨駅も急ピッチで工事が進められています。JR東日本は強気の営業活動を展開中です。


      (日暮里駅中には有名店も)


     (明るく広々としたコンコース)

 命名100周年の命名とは、命名時点でどの路線のどの部分を命名したのか知りたいと思いました。何度か「山手線」の変遷を知りたいと思いながら、その複雑な変化を良く理解出来ないでいましたが、今回「Wikipedia」をよく読んでみたら、見事な図入り説明が付いていて、知識の整理が出来ました。
 
 それによれば、1909年(明治42年)以前、日本鉄道本線(現在の東北線)は上野駅止まり、官設鉄道(現在の東海道線)は新橋止まり)。この2駅間を結べば距離は短いのだが、既にその沿線は住宅密集地だったので建設を断念し、品川駅から池袋を経由して赤羽駅まで(品川線)の山の手側に建設され、電車運行開始が1909年、今から丁度100年前だったとの事。この赤羽・品川間の品川線と、池袋・田端間の豊島線と、大崎・大井連絡所間(貨物支線)の3つを、線路名称として正式に「山手線」と定めた、と「山手線ガイドブック」には書かれています。主たる品川線が山の手側を通った事から「山手線」と命名されたのでは無いでしょうか。

 又既に田端・三河島間を走っていた常磐線に繋げる為に建設されたのが池袋・田端間の豊島線。少し話が枝道に逸れますが、その常磐線は今では上野駅を始発とし、日暮里で山手線と別れ、田端には行っていません。日暮里から150度近い転回をしているのは田端からの三河島へ向かう路線に繋げる為で、この名残が急カーブと納得しました。週3回の通勤でここの急カーブを実感していましたが、そのいわれを漸く知りました。かっての田端から三河島への路線の一部は今は貨物線として利用されています。
 又駒込・巣鴨間は本郷台地をかなり深く切削する難工事だったのではと推測しているのですが、この間の進行方向は池袋駅方面ではなく、目白駅方面を向いています。これは、この路線の当初計画は目白駅と結ぶはずであったが、目白駅付近の用地確保が困難になった為急遽池袋駅への進路変更をしたともあります。大塚駅手前で山手線が右へ旋回を始める理由も納得です。

 駒込駅近くで「山手線」を跨ぐ駒込橋から、かって富士山が見えました。線路の進行方向に建物はありませんから展望が良かったわけですが、偶然にも駒込駅から目白駅への延長線上に富士山が存在しているわけです。これは切削が目白駅目指して行われた証です。
 
 その後1925年に上野・東京間が漸く開通し、環状運転が開始されたそうです。面白い事に、品川駅を起点として、渋谷駅・新宿駅・池袋駅を経由して田端駅を終点とする20.6kmの路線としての「山手線」に対して、運転系統としての「山手線」は東京都区内を環状線とする34.5km。この概念だと、田端から品川駅までは東海道線と東北線の一部を”間借り”していることになり、歴史的事実に影響されている事がわかります。
 今日は、「Wikipedia」の記述から(その記述が正しいとして)日々感じていることの幾つかの”歴史的経緯”を知る事が出来ました。


利根運河

2009年10月18日 | 身辺雑記

 10月から勤め始めた中学校、最終下車駅は東武「野田線」沿線にあります。少し興味を持って「野田線」の様子を眺めていました。不思議に思うことは、この野田線、船橋・大宮間を走っているのですが、仮に船橋から大宮へ行こうとすれば、柏で乗り換えなければなりません。この路線、船橋・柏間の往復電車と柏・大宮間の往復電車は走っていますが、船橋・大宮間の直通電車は走っていないのです。
 所謂スイッチバック形式を柏駅で採用すれば物理的には直通運転が可能と、素人眼には見えますが、何故かそうなっていません。柏駅でホームの向こう側に停車中の電車に乗り換えなければなりません。
(駅員さんに聞いてみましたら、一日に数本の電車はスイッチバックとの事でした)
 柏駅で野田線の路線版を見ていて、あ!と思いました。『運河』なる駅名に気が付いたのです。何か遥か昔に記憶した事柄と結びついた感じがしました。それはテレビで観た映像だったかも知れません。あるいはもう何年も前に千葉県を旅行中に見た、珍しい川の像で、何時か行きたいなと思った川だったかも知れません。帰宅してインターネットで調べてみました。
 この『運河』駅の直ぐ傍を『利根運河』が流れ、利根川と江戸川を結んでいる。近辺には東京理科大野田校舎がある、などが分かりしました。
 
 16日の授業終了後、出かけて見ました。運河駅は柏・大宮間にあり、柏から5つめの駅です。柏で乗り換えました。運河駅で下車して駅員さんに運河への道をお聞きします。すると一枚のパンフレットを手渡され、駅舎から出てきて、運河のある方向を指差しで案内してくれました。とても親切です。


          
(東武野田線 運河駅)


       (運河沿いの看板)


          (ふれあい橋)

 商店の脇を通り抜けると運河は直ぐそこにありました。大きな橋がかかり対岸には理科大らしき建物が。橋は「ふれあい橋」で歩行専用の橋。そこから運河を眺めました。水量が極端に少ないのです。想像していたより遥かに少ない水の流れです。ここに到着したのは5時過ぎ、辺りは暮れなずんで来ました。両岸を少し散歩しただけで今日のところは帰ってきました。帰りの電車内で、渡されたパンフレットを眺めました。


        (水量は少なかった)


    (こちらの岸沿いに理科大野田校舎)


      (野田線も見渡せました)

 「流山市観光協会」発行のこのパンフレット「利根運河絵図」と題され、表に運河の概略や運河沿いの名所が紹介され、裏には運河全体の地図が描かれていました。
 利根川と江戸川を結ぶこの運河、1890年(明治23年)に、東北からの物資を船で東京へ早く安全に運ぶ目的で、民間資本で開削し、最盛期には高瀬舟や外輪蒸気船が一日100艘ほど運航していた、とあります。東京ー銚子間を約18時間で結び、大正8年まで人々の往来手段として活躍後は、東京の水不足を補う暫定水路となっていた、とも書かれています。東京から江戸川と利根運河を経て利根川へ、利根川の流れに沿って銚子の太平洋へと抜けたのかなと想像します。物資は東北から太平洋を経て利根川へ。利根運河利用で東京へと運ばれたのでしょうか。
 沿岸に点在する数々の寺や公園や名所、日を改めて訪れて見たくなります。帰宅して妻に話すと、確か花の名所がここにあるのではとの話。更に詳しく眺めると、『運河』駅の近辺には「花の回廊」なるものがあり、秋には曼殊沙華が、春には桜のライトアップが、目を楽しませてくれるとも。千葉県は勝浦ばかりに出かけていましたが、縁あって出向いた房総の地、この利根運河や佐倉、伊能忠敬の出身地佐原にも出かけたいと思いは膨らみます。
 


光源寺でコンサート(その2)

2009年10月17日 | 身辺雑記

 コンサート開始17時より2時間ほど早く会場に到着すると、~フリーコンサートと交流の夕べ~と題されている様に、既に屋台が数件営業を開始していて、コンサート前段の集会も、やがて始りました。
 まず主催者を代表して、”日の丸・君が代”強制反対予防訴訟をすすめるの会の方の挨拶が始りました。
 「6年前に東京都教育委員会から出された『10・23通達』によって、卒業式は一変しました。今まで行われてきた『卒業生・在校生の対面式』形式は認められなくなり、教職員は”国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること”を命じられました。それに違反するものは服務命令違反として処分される事ともなりました。思想・信条の問題として起立できない教員もいるのです。、
『国旗・国歌法』審議の段階で時の野中官房長官が”決して強制するものではない”と国会で答弁しましたが、その政府答弁に逆行し、他県と比較しても突出した東京都教育委員会の姿勢が教育現場を苦しめています」とのお話です。
 前書きはまだ続きます。「多くの方は、確かに強制は拙いけれど、なにもそこまで反対する必要はないのではとおっしゃいます。しかしその様な方々にこそ、その強制の実態の凄さを、聞いていただきたいのです」と前置きして、語られた強制の実態と処分の有様。
 僅か40秒間の、一度の不起立で懲戒処分となり、賃金でも人事異動でも差別され、無理やりの研修も待っています。定年後の嘱託内定者は採用を取り消され、既に採用されていた嘱託の方は、次年度から”くび”です。2回・3回と不起立を繰り返せば何れ停職にまで至るそうです。この処分に対し「日の丸・君が代 予防訴訟をすすめるの会」が組織され、裁判で争われ、又人事委員会での審理が提起されています。東京地裁での判決では「10・23通達」は”日の丸・君が代”を一律に強制するものであり、憲法19条の保障する思想・良心の自由を侵害するものであるとの判決も出ています。

 続いて事務の方からは「数年前と比較して、授業料を払えない家庭が急増し、7人に1人の子どもが貧困状態に置かれている」実態が語られました。確かにGDP比の教育予算がOECD主要先進国中最低の日本。政権交代がどの様な変化をもたらすのか、多くの方が注目して予算編成を見守っているところだと思います。

 コンサートはパントマイムから始りました。続いて幾つかの演奏が続きました。この辺の実情が全く分からないマーちゃんとしては演奏者を書き並べるだけですが、生で聴く演奏、凄い迫力でした。
 ◆五十嵐正史とソウルブラザーズ 5人組みのバンド。メンバーは主に福祉施設で働き、新宿の越年炊き出しでも活動しているそうです。
 ◆寿(ことぶき) インディーズ系の大御所とチラシに書かれていました。
 ◆コール佐藤 「非常勤ブルース」を歌う、大学非常勤講師。
 ここまで聴いてきて急激な温度低下。寒さ対策をまったくしてこなかったので、慌てて会場を去りました。
 ◆市民による「自由の風」合唱団 聴きたかったのですが・・・。

 神社やお寺さんは広いスペースを持っています。広場を提供してくださり、そこでいろいろな催しが行われる、有難いとも思いますし、地域の活性化にも益ありと思います。昨日の富士神社のラジオ体操は40人もの参加。気候の良い時期、人の出も盛んです。
 


光源寺でコンサート(その1)

2009年10月14日 | 身辺雑記

 我が家から歩いて15分の距離に浄土宗「光源寺」があります。実にユニークな寺です。11日の日曜日、この「天昌院 光源寺」の境内で”STOP!教育の貧困”とのサブタイトルのもと、あるコンサートが開かれました。

 白山から団子坂に向かう道を「大観音通り」と呼んでいます。この光源寺は江戸時代から、大きな身の丈の十一面の観音様が有名で、太平洋戦争で消失した後にも先代住職により再建されました。非常に大きな観音様で,目立つ為「駒込にある大きな観音様が目印のお寺」ということで『駒込大観音』とも呼ばれるようなったそうです。通りの名前もその名に由来して「大観音通り」と名付けられています。通りから観音様の頭部が拝めるように、特別に建物の上の部分はガラス窓になっています。


          (観音様を奉るお堂)

 この「光源寺」実は裁判で訴えられていました。観音像の制作者の遺族から「仏頭を無断ですげ換えたのは著作権の侵害」として、寺側に原状回復を求めた訴訟です。今年の5月28日に、原告勝利、被告光源寺側敗訴の地裁判決が下りています。
 
 この光源寺がユニークなのは寺の一部にステージを作り、ここでイベントを開催出来るようにしている事です。境内で”縁日”の出店が出せる様にもなっています。お寺さんから見て「我が意を得たり」、別の表現を借りれば「お寺さんのお眼鏡に叶えば」無料でステージや境内を貸してくれます。この点が一番ユニークでしょうか。
 私達は4年ほど前、お寺さん主催の「ほおずき 千成り市」に出掛けた事がありました。~地域でつながる・みんなでつくる・てづくりの縁日~ と題されたこの縁日、幾つかの屋台が出ていました。特に、ステージでの津軽三味線の生演奏に圧倒されました。映画「津軽じょんがら節」の比ではないのです。この様な模しものを主催するお寺に大きな興味を持ったのですが、日常の忙しさの中、記憶の彼方へ飛んでいっていました。
 そんな日々に「光源寺で コンサート」のチラシを見、会費1000円を送金して届いた入場券を手に、出掛けて行ったのでした。(次回ブログに続く)

 

 


久しぶりの荒川土手

2009年10月12日 | 身辺雑記

 連休の中日の昨日、朝5時半に起床すると好天気でした。マンション9階からは、遠く富士山が薄化粧しているのも望まれます。久しぶりにサイクリングだと思いました。本当に久しぶり、愛車のクロスバイクは錆びてはいないようです。
 日曜日はラジオ体操がお休みです。心置きなく、6時には家を飛び出しました。向かうは荒川土手のサイクリングコース。ここはかって、ランニングで向かった懐かしの場所。家から土手まではほぼ一本道。天祖神社の境内を通り抜け、田端駅へ。ここの跨線橋で山手線・京浜東北線・三本の新幹線を越え、山手線の内側とさようなら。更に進んで東北本線・高崎線のガード下を通過。まだまだ風が冷たく感じられます。更に国道458号線を進むと小台で都電荒川線と平面交差。その先で隅田川を渡り、ようやく荒川土手にぶつかります。ここまで20分強。


      (荒川サイクリングロード)

 サイクリングロードは、サイクリストやジョガーで賑わっています。河口から17kmの地点から上流に向けていよいよサイクリング開始。快晴の中、少しスピードをあげます。太陽が照り始めていても肌寒く、風を切るようにスピードを上げるといっそう寒さが身に沁みますが、とても気持ちが良い。
 河口まで19km地点近くで一時、少し高い荒川の土手の方に移動しました。小高い土手から荒川のゆったりした流れが望め、富士山や秩父の山々も姿を現していました。反対側を見渡すと、筑波山も遠望出来、大満足です。


   (左側が土手路、右側がサイクリングロード)


    (荒川の流れが垣間見えます)



    (土手からは富士山も見えました)

 更に上流に進むと、岩淵水門。ここで新河岸川と荒川からの流れの一部が合流し隅田川となり、水門の下流では隅田川と荒川の2本の流れとなります。
 今から十数年前、日常的にランニングを取り入れていた頃、その延長線上にフルマラソンがありました。都内で初めてのフルマラソン大会の荒川マラソンに出場したことがありました。印象に残るものが少ない川べりのこのコースで、岩淵水門は一番印象に残る風景でした。4時間も越え、良い記録が残せなかったことも思い出しました。


      (右側が岩淵水門)


     (付近にはこんな掲示板が)

 
ここで荒川の右岸とさようなら。新河岸川沿いを走る事になりますが、マーちゃんはここで土手を降り、少し行くと「荒川知水資料館」が。まだ開館の時間ではありませんでした。何れ又の機会にと心に決めます。

 後は一般道を行きます。この辺りは見知らぬ地域ですが、「北本通り」があるはす、と勘を頼りに進みます。途中、造り酒屋「小山醸造」で見知ったものに到達。ここは23区内での唯一の醸造所で、「丸眞正宗」を製造しています。かつて、知人の紹介で内部を案内してもらい、試飲もさせて頂きました。辛口の豊穣なお酒が私の口に合いました。荒川の地下を流れる水脈を用いての醸造とも聞きました。その当時入り口付近には誰でも汲めた湧き水口がありましたが、今は見当たりません。


   (正面の看板)

  (愛酒報国との看板がまだ残されていました)


    (ここでも一休み、愛車も一休み)

 ここまで来ればあとは見知った道、「南北線」の真上を行きます。飛鳥山公園では、昨年開通した「飛鳥山公園モノレール」を一目見て、家路を急ぎました。帰宅は8時少し前、およそ2時間のサイクリングでした。


      (飛鳥山モノレール線路)
 

     
(16人乗りモノレール:無料です)