昨日沖縄、また韓国の弟子たちから電話があった。しかしその電話では用件がなかった。午後になってある人の電話で「今日は先生の日・・・」といったので5月15日が韓国では先生の日であることを思い出した。帰宅してみたら贈り物とメールが届いていた。私は自分の恩師になにもしていないのに。韓国で教鞭をとっていた時には多くの学生が拙宅に挨拶に来るので靴を置くところが足りなく外側にも並べた。しかし日本では先生の日はないし、もちろんそのような先生像もない。天皇の恩や先生の恩は古いものとして捨てられた。私が指導教官で博士号を取得した人の中には先生の指導は職務であり特に感謝すべきではないとドライな考え方を持っている人もいた。しかし多くの学生は恩を感じ、それに私も感謝する。普通の人情として恩や感謝の気持ちは保つべきものではないだろうか。
数年前韓国で『親日と反日』(多楽苑)を出版した。日本関係専門出版社の社長である彼は若い人は日本が好きで、日本に関する本を読んでおり、「反日」は今では古く、死語になっていると言っていた。社長の話の通りに日本で韓流の逆流もあって反日を検討した拙著は注目されることがなかった。しかし韓国の政府が親日派の財産を没収するなど過激になっている今、拙著は特に若人から読れ、反響が見受けられている。拙著の内容は反日や親日の「日」が日本ではなく、韓国内での喧嘩の相手を指すと強く言ったものである。これが読者の関心を引いているようである。参考までに日本語版は『親日と反日の文化人類学』(明石書店)である。
日曜日の午後2時梅光女子大学同窓会主催でNHK交響楽団第一コンサートマスターヴァイオリニスト篠崎史紀とピアニスト桑生美千佳の演奏を楽しんだ。大学チャペル堂のステンドグラスstained glassの光のカーラーの神秘的美しさ、大部耳にした曲が演奏されて懐かしく感動した。ヴァイオリンとピアノのハーモニーの美しさが最高であった。高校時代古典音楽の鑑賞方法などを勉強し、大学一年の時古典音楽ソナタ形式についてレポートを書いたり一年間勉強したのが蘇ってきた。満員の女子同窓生の中に異様な存在として数人座っていた男性の一人であったが、梅光大学の健全さを強く感じた。ミッションスクールとして経営の真面目ささえ感じた。
久しぶりに足を伸ばしてサッカーの中継を視ているうちにゴールに向けて蹴る時自分の足が上がり椅子が動いて自分で驚き、自爆笑した。私はスポーツとは縁がないし、それほどスポーツゲームなどを見ていない者だが、これはいったいどうしたことなのか、自分を疑う。今大学でスポーツ好きな学生たちと演習時間で「スポーツ人類学」を読んでいる。私は昔読んだホイジンガーのホモ・ルデンスを開いて説明した。スポーツやゲームは遊戯、遊びplayから起源したものであると。その遊戯性は人間が普遍的に持つ気質であろう。私まで椅子にすわっているのに思わず足を上げ、蹴飛ばす動作をするほど熱中し、感動するほど、それは遊戯性の強さがあるのであろう。
日本では無投票当選が多い。スポーツの不戦勝のように面白くない。世襲的な政治家や無投票当選が多いことは競選民主主義が弱い国と感ずる。無投票当選とは相手がいない、絶対的な人物が存在するということを意味する。その「絶対的な人物」というと独裁政権の専有物であったことを思い出す。村長選挙から総理選挙まで無投票当選のようなことがないことを願う。
先日予告したように拙著『樺太朝鮮人の悲劇:サハリン朝鮮人の現在』が発行され、手元に届いた。この本は文部科学省の科研費によって6年間調査した研究の一部である。サハリンの瑞穂という農村で1945年8月22日、23日にソ連軍との交戦中、森下安夫などの日本人が同村朝鮮人住民の赤ん坊、女性を含む27人を殺害した事件を扱った。それは朝鮮人がソ連軍のスパイという誤解から起きた悲惨な事件である。私はこの事件を植民地同化政策に逆行する民族間の葛藤として分析し、国家や民族をアイデンティティとするナショナリズムや民族主義を強く批判する。これがこの拙著の大きいメッセージである。拙著を一読し、ご批判をお願いしたい。
フランス大統領選挙でサルコジ氏が当選しロヤル氏が敗北宣言をした。しかしそれに不満を持つグループが暴動を起こしていると報じられている。選挙後負けチームの反撥は私も韓国でよく経験したことであり、異様な現象ではない。しかし私はフランスでのそれには異様な感をもつ。それはフランスでは世界民主主義の本源でもある革命を起こした国であるからである。その国でも多数決主義の原則に敗北することはまだ民主主義が成熟していないということである。勝利することは難しいが敗北することはもっと難しい。敗北で終ることは悲惨であるが、敗北を宣言するだけではなく、心底から反芻して克服し、勝利の源にすることこそ大勝利につながるであろう。
また「靖国」が問題となっている。靖国問題については私見を何度も発表したがそこにはナショナリズムの形成のメカニズムがある。つまり日本の中の愛国、遺家族などとの関係で「靖国」が存在する。それを以って韓国や中国は政治的カードとして使い、反日感情を煽ぐ。それに反撥して日本のナショナリズムが強化され防衛省へ、憲法改正などへ軍事的に強化していく。つまり日本の靖国問題が中国や韓国の反応によって軍国化(?)に繋がっていくのである。日本の政治家や韓国と中国の政治化が深く考えて欲しい。
前も書いたように私は良く物を捨てる性格である。しかし捨てていないものも多い。写真などは確かに3分の2以上は捨てた。今日記を捨てようとする。いつからか私は日記を書いている。60年代からのものは割と残っている。捨てるために目を通していると、いろいろな「過去たちが」(歌詞)読みが甦って来る。1983年暮れの日記から一つを紹介する。近い親族の男性が三年懲役を言い渡された裁判の現場で感じたことをこうメモしている。当事者の母親は「息子と財産」について心配しているが、彼女の友人は当事者より当事者の母親を心配し、彼の恋人は彼の「健康」、彼の近い親族は「家屋」のことを心配している。大事なことは本人であるが、彼は「裁判の誤りだと悔しがり、弁護士と親を恨む」。本人には罪意識がまったく感じられない。それは彼だけのことではない。歴史的に島流しされた子孫たちにインタビューしたことがあるが、彼らは先祖の罪をまったく認めておらず、政治的謀略だといいながら祖先を英雄化する。罪は神様しか知らない。
韓国の小説「兄弟の江」の訳文を読む。1ページ当たり5個くらいの漢字語などがわからない。辞書なくては完全に理解できない。日本に来て20年近くてもこれしか力がないのかと嘆く。特に関心を引くところがある。舞台は韓国慶尚道密陽であり、牛の仲買いと牛市場の話が出る。私の父親は牛の仲買い人であった。38度線を往来しながら北鮮牛を南鮮に売る商売人であった。子供の時から牛の出入を観察した。我が家の牛小屋には2頭しか入らない。牛が暴れて眠れない夜もあった。美味しいそうに食べる煮詰めたえさの中から豆を取って牛と一緒に食べたこともある。父は牛に針で病気を治してあげたりしていた。また牛の喧嘩を仲裁させる事も出来た。私は父が金持ちで広く名前が知られていることに誇りを持っていた。しかし中学生の時姉から牛の商売人は社会的には両班の仕事ではないので「言わないで」といわれた時にはかなりショックであった。
深夜に目覚ることが多くなっている。それは早起きの勤勉さとは関係ない。年とともにリズムが変わっているからである。目が覚めてラジオの深夜放送を聞いたり、研究の内容を考えることが多い。重要な決心をすることもある。時には早くからコンピューターの前でエッセイなどを書いたりもする。無理に寝ようとはしない。それでも人のいるところで居眠りはしない。がそれも守っていくことがいつまでできるかわからない。老化によって早起きや居眠りがリズムになりそうであるが若者が居眠りをするのは自己管理ができないからである。若者よ。いつでも覚醒していてください。
私は1980年代に調査団を作って巨文島でフィールドワーク中ある住民から長編小説『イノンドル(こやつら)』の話を聞いた。その小説はこの島のことを悪く書いたので住民たちが抗議して販売禁止になったという。私は早速その出版社に電話して十数冊を注文して調査団全員に配り、意見を求めたことがある。今度、再調査前にその作品を速読した。19世紀末巨文島に西洋の船と日本人が現れた時、住民たちがそれに対応して生き方を変えていくさまを批判的にみており、伝統的な生活習慣を守っていこうとする主人公のフクドルが、片思いの女性が日本人と密通したことに憤慨して、その性器の汚れを海水で洗わせるなど、硬い人物像が設定されている。小説は全羅地方の方言で面白く展開されている。一昨日その作家白雨岩氏と通話した。彼は発売禁止の理由は意外に政治的なものであると言った。
朝早く我が夫婦が犬を連れて散歩する。この愛犬ミミは人見知りをしないで誰にでもついていって抱かれる。私より心が広く普遍的な愛情を持っている。しかし不満がある。なぜ他人に簡単に抱かれるのか。「忠犬」つまり飼い主だけを愛し、忠誠を尽くすようにはならないのかと。前のミミは他人に対してはいつも警戒し、吠えていた。新ミミの愛情の表現をみて自分の愛がいかに偏狭であるかを反省している。
昨夜川棚グランドホテルで穴見(ピアノ)・相原(声楽)コンサートに行ってきた。プチニ-などの名曲から金子みすず詩に穴見作曲、山田耕作作「のばら」、Amaging Grace, Time to say Goodbye など普段耳にする歌が次々歌われた。二人の楽しいコンビの表情がより美しく感じた。帰りの車の中ではその音楽会の草分けの時代のフランスから来た有名な故コルドー氏の話や山田耕作、李香蘭の歌が歌われ、子供時代の遠足からの帰りの気分であった。
人の失言を良く笑うが、実は私が大失言をした。それを思うといまだに顔が真赤になる。国際基督教大学で行われた、今は中堅学者の秀村研二氏の結婚式で第一番で登壇した私が「ご結婚有難うございます」といって大笑いになった。彼の結婚があまりも晩婚であったので親心からとても嬉しかったのでこのような失言がでたのであろうといいなが祝辞を無事に終えたが、ビデオカメラに収録されたものを消すことも出来ない大変な失言である。その新郎にはすでに子供も数人も授かり、当時の新郎であった彼の頭は白髪になっている。その時のことをを思い出すと「こんな失言を私がしたのか」と笑ってしまう。