崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

戦争責任

2015年08月10日 05時14分36秒 | 旅行
 広島大学での集中講義は楽しく終えて夜、下関の自宅に帰宅した。海辺のわが家には風があり、冷房せず熟睡することができた。昨日は朝鮮総督府が製作した映像「銃後の朝鮮」から植民地朝鮮において日本帝国への愛国心が強調されていたのを見せた。また日本帝国の北海への進出する映像「北進日本」、満洲での「開拓農村」映像などを以て自由討論を行った。弁当を食べながら私の平和へのメッセージをフィトニー・ヒューストンの「愛」(I always love you)の映像音楽を挟んで楽しむ講義、集中講義であっても集中しないような講義で皆が楽しかったと言う。
 しかし最後の討論は皆難しいと言った。日本の戦争に関して日本人のあなたは責任を感ずるかの問いであった。中国もベトナム、朝鮮戦争をしたので日本人だけの話ではない。私は過ぎ去った過去と「わたしego」とは断絶か継続かに論理的解釈を求めた(陸さん発言)。能勢さんは今、日中韓の葛藤などは戦争史の対立というより文化の差による対立ではないかとチャートを書きながら説明した。日本人としてのアイデンティティ(立川さん)をやめてグローバル化を前提にして世界人あるいは自然体の「人間」humanとして戦争をどう考えるかである。
 過ぎ去った日本の戦争は今の日本人にとって無関係無縁のものであろうか。縄文弥生時代の文化を日本の文化として誇りを持ちながらたった数十年の前の近い歴史とは無関係と言えるのか。日本人に謝罪を求める中国や韓国へ応じるべきであろうか。中国の司馬さんは戦争のような悪いものは継承せず、その中から教訓だけをいただく、その他の悪い歴史とは断絶すると考えた。戦争史さえ受け入れるならすべての歴史は必要となる。そこにフィリピン人のラバヨさんと中国のYuさんは戦争を忘れず、許す寛容を主張した(We can forgive,but never forget)。ヒギンボサムさんは自他の過ちに寛容でなければならない(We should not forget what we did, but we should forgive what they or we did)と言った。これから戦争が起きると自国を守るために戦争に参加するかには全員否定的で「逃げるescape」といった。私は「逃げる」の意味が「卑怯」であるか「正当」であるか(Erich Fromm, Escape from Freedom)。
 私の講義に楽しかったと、村上さんは「ただ話を聞いてメモをとるだけの授業はつまらなく、この授業を通して考えることの大切さを学びました。また、考えるというのはこんなに楽しいことなのかと初めて知りました。」ランザンさんとはバングラディシュを訪問する約束をして皆で記念写真を撮った。Thank you,Sensei! Salamart Po!(by Ceballo)

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