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Richard Wrightの俳句(73)

■旧暦11月2日、土曜日、

(写真)山茶花

ライトの俳句、817句すべてに目を通してみた。正直言って、それほどいい句はなかった。ライトは俳句よりも散文の方がいいのかもしれない。以下は164番から817番までの俳句の中から採った3句である。これで、一応、ライトの俳句の検討は終了し、次回からはジャック・ケルアックの俳句を検討してみたい。




No star and no moon:
A dog is barking whitely
In the winter nihgt.


星も月もない
犬が一匹息白く吠えている
冬の夜


Autumn moonlight is
Deepening the emptiness
Of a country road.


月光が
人気のない田舎道の
しづけさを際立たせる


This autumn evening
is full of an empty sky
And one empty road.


秋夕べ
何もない空と誰もいない道
それだけ




Sound and Vision

The Animals - House of the Rising Sun (1964)




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Richard Wrightの俳句(72)

■旧暦10月26日、日曜日、

(写真)冬の光

数年ぶりに風邪をひいて、今日は、俳句を作る以外、何もせず。湯ざめが原因か。




As the music stops,
Flooding strongly to the ear,
The sound of spring rain.


音楽が止むと
耳に激しく水走る音
春の雨


(放哉)
秋の雨朝より障子しめきりつ


■ライトの句、たとえば、凡兆の灰汁桶の雫やみけりきりぎりすと比べてみると面白い。ライトの句の音楽は、なかりの大音量だった様子がわかる。それが止むと水があふれてくる音が強く耳についたのであるから。一方、凡兆の蟋蟀の音は、気がつけば聞こえてきた、というかなり微妙な味わいである。蟋蟀の音が聞えたことで、逆に、灰汁桶の雫が止んだことを悟っている。ライトの句の音は音楽と春雨という人間と自然の対比。凡兆の音はどちらも作為がない音。双方が自然の音のようである。一方、放哉の句は、障子の内側に秋雨の音が聞こえてくる。これも派手な音ではないだろう。障子の内側の放哉と秋雨が溶け合っているかのようである。



Sound and Vision

山鹿市立山鹿中学校 「生きる」(2007年改訂版)
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Richard Wrightの俳句(71)

■旧暦10月14日、火曜日、

(写真)秋の山

日曜日は、先生のみえた句会だった。非常に勉強になる。「切れ」のニュアンスの違いについて、これ以上ないくらい明解な解を与えていただく。披講する関係上、先生の隣に座るので、毎回、ひとつ、質問してみることにしている。今回は、歌仙について尋ねてみた。芭蕉の発句の「間」と歌仙の「間」には密接な関係があることがわかった。芭蕉の歌仙から俳句は何を学べるか。言葉の使い方の自在さだけでなく、「間」の自在さ。これが、今後、芭蕉の歌仙を検討するときの問題意識になる。「間」を理路で理解しようとせず、「体得する」ように、というのが先生のご指示だった。「体得」には、心身全体を使った読み込みが有効ではなかろうか。

理路との関係で、もうひとつ、重要なお話があった。それは禅(とくに、道元の「碧厳録」)と関係している。われわれにとって世界は今あるように現象しているが、はたして、本当にそうなのか。時代の拘束を受けた小さな理性(あるいは意識)の枠を外すと世界はどう現れるのか。先生は、これを、「自分の心の動きに気づいて詠むように」と述べられている。また「それは日常生活の中で常にやっていること」とも述べられている。前頭葉型の人間のぼくとしては、これが、俳句の一番の壁かもしれないと感じている。このお話は、一句で応答するしかないので、道元の思想などを参考に試行錯誤を重ねてみるしかない。




Standing in spring rain,
The hitchhiker has a stance
That nobody trusts.


春雨に立つ
ヒッチハイカー
あんな態度じゃ誰も止まらない


(放哉)
春雨や磯分れ行く船と傘


■上の話を書いた後で、ライトの俳句を読むと、やはり、これは三行詩だなと感じる(正確に言うと翻訳された日本語読むと)。西欧には西欧の歴史があるので、言い回しや表現の上澄みだけをまねても、はやりどこか薄い俳句になってしまう気がする。どこをどう学ぶのか。そもそも、日本語の俳句にとって欧米の俳句は学びの対象になりえるのか。いっけん、理性の総本山のように見えながら、実は、どこか、日本語の俳句の底流と共鳴するものがあるのではないか。だから、書き手も多いのではないか。そんなこんなを考える。ライトの俳句も、翻訳して終わりじゃなくて、原句を読み込むと、また違った世界が立ち上がるかもしれない。ライトの句、The hitchhiker has a stance/That nobody trusts/の表現が面白く惹かれた。放哉の句、「磯分れ行く」という動詞と、「船」と「傘」の対比が面白かった。

Sound and Vision

Claudio Arrau - Beethoven Sonata No. 32 - 2nd Mvmt. (1/2)
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Richard Wrightの俳句(70)

■旧暦10月6日、月曜日、、文化の日

(写真)熊笹

曇っていて寒い。朝から、仕事である。さてと。




As still as death is,
Under a circling buzzard,
An autumn village.


その静寂は死に等しい
ノスリが空に円を描く
秋の村



(山頭火)
しづけさ、竹の子みんな竹になつた
  『草木塔』

■ライトの句、秋の村のしづけさが、ノスリの運動で際立っている。そこに惹かれた。山頭火の句は、竹の子の成長という時間の経過にしづけさを感じ取っている。時間の経過は生の中に死をすでに宿しており、そこに山頭火はしづけさを感じ取ったのかもしれない。



Sound and Vision

Bartok: Solo Violin Sonata ("Melodia")
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Richard Wrightの俳句(69)

■旧暦10月1日、水曜日、のち

(写真)芒

山の芒は、さすがに、セイタカアワダチソウと共演していないので、気分が良かった。なかなか平地ではソロで芒のなびく姿が見られない。

今日は夜風が冷たかった。湯豆腐で一息。




A wounded sparrow
Sinks in clear cold lake water,
Its eyes still open.


傷ついた雀が
冷たく澄んだ湖に沈んでいく
眼を開いたまま



(放哉)
雀が来る木が切られてしまつた


■ライトの句、Its eyes still open(目を開いたまま)に惹かれた。情景が目に浮かぶようである。自然界の非情さと、自然のものは自然へ還る掟の清々しさを感じた。放哉の句、残念がっている放歳の姿がどこかおかしい。人間は自然なのだろうか、不自然なのだろうか。その両方なのだろうか。二人の句を読んで、そんなことを思った。




Sound and Vision


Nirvana - Rape Me live


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Richard Wrightの俳句(68)

■旧暦9月23日、火曜日、

(写真)もみじして

山登りやトレッキングというのは、今まで、ほとんど興味がなかったが、実際歩いてみると、自然は変化に富んでいて、非常に面白い。都市だけで暮らしていると、人間、どこか歪むな、と実感するこの頃。




That road is empty,
The one leading into hills
In autumn twilight.



その道は行く人なく
一本道の丘また丘
秋の暮



(放哉)
道いつぱいになつて来る牛と出逢つた


■ライトの句、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」を思い出させる。丘がどこまでも連なっている景を想像した。道行く人が誰もいない静けさに惹かれた。放哉の句は、人ではなく牛が道いっぱいに広がっていてユーモラス。



Sound and Vision

Jack Kerouac - American Haiku
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Richard Wrightの俳句(67)

■旧暦9月14日、日曜日、

(写真)桜の落ち葉

情報化社会について雑感。以前、五感と言語の弁証法が情報化の本質だと書いたが、情報化はマスメディアの登場で伝達される情報量が増大し、コンピュータが媒介するコミュニケーションの登場で、さらに飛躍的にそれが増大し、ミクロメディアがマスメディアの間隙を埋め尽くしている。ここに至って、情報化は質的な変化を遂げたように思える。一方向的な情報量が急激に増えると、一方的に話しかけられ、一方的に説明されているのと同じで、情報の受け手は、思考することができなくなる。思考運動の練習時間がなくなるからだ。情報量は多いので一見、わかったような気になるが、理解したり考えたりする能力は確実に奪われる。とくに、倫理的な問題や価値の問題について考える能力が著しく低下する。この結果、精神の幼稚化が起きる。マスメディア・コンピュータ登場以降の情報化と人間の幼稚化には相関関係があると思う。面白いことに、情報量が爆発的に増えると、創造力も衰えてくる。情報がありすぎると、何かを作り出すことがやりにくくなるのだ。インターネットは、マスメディアと違って、双方向的なメディアなので(そもそも、インターネットには、マスメディアに対するカウンターメディアの意味もある)、一方的な情報の流れにはならないが、これが、うまく機能するのは、思考の運動性が加わったときだと思う。もうひとつ、インターネットには面白い特徴がある。それは、ある意味で、アイデンティティを形成するという特徴である。このアイデンティティがどれほど強固なものなのかは、それぞれだが、ネット上に集合した諸個人は、そこにアイデンティティを投影しようとする。たとえば、携帯の掲示板がそうだし、たとえば、ネット上の社会運動がそうである。




A long autumn day:
A wind blowing from the west,
But none from the east.


長き秋の日
西から一陣の風
東からはなにも



(放哉)
秋日さす石の上に脊の児を下ろす


■ライトの句、日本では、秋の日は短いが、パリでは、「A long autumn day」、となっていて面白い。A wind blowing from the west, But none from the east.のリズムにも惹かれた。放哉の句、「秋日さす石の上」に子どもを下ろしたという。もう肌寒い時期だったのだろう。子どもに対する放哉の愛情を感じた。



Sound and Vision

Aimard - Schumann Symphonic Etudes (3/5)
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Richard Wrightの俳句(66)

■旧暦9月6日、土曜日、

(写真)工事中

今日は、晴れて気持ちがいい。朝早く起きて、散歩。途中、モスによって、俳句を推敲する。オバマのブレーンの一人、黒人哲学者のコーネル・ウェストに興味があって、その著書『Race Matters』を読んでいる。まだ、読み始めだが、黒人指導層に巣食っているニヒリズムを批判している。ある社会の本質を考えるとき、底辺に置かれている人々を考えるスタンスが有効だと思う。




From the scarecrow's sleeve
A tiny green leaf unfolds
On an oaken arm.


案山子の袖
そのオークの腕に
青い葉が一枚生えている


(放哉)
案山子の顔をこう書いてやらう


■ライトの句も放哉の句もユーモアが漂う。とくにライトの句は、案山子そのものを詠んでいてそのままで面白い。対象に面白みを発見しているところに惹かれた。




Today's Sound and Vision

The The "The Beat(en) Generation"
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Richard Wrightの俳句(65)

■旧暦8月24日、火曜日、、秋分の日

(写真)芭蕉

今日は秋らしい一日だった。鱗雲、秋の蝉、こほろぎ。

ちょっと、調べ物をしていて、ハンナ・アーレントがユダヤ教と真理について、語っている箇所を見つけて、少し考え込んでしまった。

プラトンにおける絶対的真理の語りえないものは、ユダヤ教の像の欠如に完全に対応している。ギリシャ人はあらゆる感覚のうちで視覚の優位から出発し、ユダヤ人は聴覚の優位から出発する。見られた真理は、見えた家と同じように言葉では完全に十分捉えることはできない。同じことは聞かれた言葉にもあてはまる。それを像に移すことは不可能である。そのためギリシャ人ではロゴスが真理を損ない、ヘブライ人では像が真理を損なう。
『思索日記』(2)p.183

真理。われわれは感覚を入れ替えることはできない。聞こえたものは(映像にして)目に見えるようにすることはできない。目に見えたものは(言葉で)耳に聞こえるようにすることはできない。それゆえ、真理が―ギリシャ人では形姿(エイドス)として経験されたように―何よりも目に見えたものとして経験される場合には、真理は語りえないものにならざるをえない。真理が―ユダヤ人では神の言葉として経験されたように―何よりも聞こえるものとして経験される場合には、真理は目に見える形で表すことは禁じられざるをえない。こうした入れ替えようのないことは、われわれが真理を超感覚的なものと捉えがちである理由を説明してくれる。―それは単に、五感を媒介できる感覚がわれわれに欠けているためにすぎない。
  『思索日記』(2)pp.192-193

この二つの断章が語るものは、視覚と聴覚の非互換性である。見られた真理は、ロゴス(言語)に変換できない:ギリシャ人。聴かれた真理は像に変換できない:ユダヤ人。これを五感すべてに拡大して、その互換性はありえないと述べている。これは、非常に面白い話で、ユダヤ教が偶像崇拝を厳しく戒めている理由が理解できる。だが、ひとつ、疑問なのは、「言語」の位置で、五感と言語は、相互媒介的な関係にあるんじゃないだろうか。つまり、そもそも、言語にないものは、聴き取れないし、見ることができない。聴き取られたり見られたりしたものは、伝達を志向し、その文化的・歴史的・社会的文脈の中で、徐々に言語化されていく。たとえば、歳時記を見るとそれがよくわかる。虫時雨という言葉のない世界では、虫の声は「存在しない」。ただの雑音であり、価値は付与されない。英語とドイツ語(フランス語も?)では、虫の声と鳥の声は同じ動詞で表す。情報化が伝達を前提にした行為だとすると、情報化とは、実は、五感の言語化ではなかろうか。言語と五感の弁証法こそが、情報化の本質なのかもしれない。見られたものは、言語化できない。聴かれた言葉は視覚化できない。この永遠のジレンマが弁証法のエンジンである。




Like a fishhook,
The sunflower's long shadow
Hoves in the lake.


釣竿のように
向日葵の長い影が
湖に伸びる


(放哉)
静かなるかげを動かし客に茶をつぐ

■ライトの句、実は釣竿じゃなく釣針(a fishhook)である。釣針だと、向日葵の長い影の比喩として、不適切に感じたので勝手に直した。ライトがどういう考えで、釣針を持ってきたのかわからないが、俳句としては、静まり返った湖畔の夏の午後の景色が浮かんで惹かれた。放哉の句は、影が人間のものなので、少し動く。茶を注いだ後は、やはり影は静かなままだろう。
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Richard Wrightの俳句(64)

■旧暦8月18日、水曜日、

(写真)猫と蜂

かなり涼しい朝である。今度読む鳴海英吉の詩を探していて、シベリア抑留を経験したこの詩人が、なかなかのユーモアの持ち主であったことを改めて思った。

うるせーいと 怒鳴ったら
女房と子供は 床からとび上がり
屋根をつきぬけて 宇宙のかなたに消える
俺は仕方がないから
冷飯に にがいお茶をたっぷりかけて
タクアンをかじり
ザクザクと飯を食う
見上げると
女房と子供が とび去った屋根の穴から
水のような月の光が入ってきて
ポチポチした星が 光っているのが見える

俺の子供だった頃 叱られると大飯を食った
貧乏人の家では 飯を食われることは辛い
たかが おかずのことで言い争う
怒りをこめて 宇宙のかなたに飛び去った
たましいの尻軽い奴を とっつかまえ
ずらり三つ 俺の前に正座させて
俺はそういうことを話してやろう
三つの屋根の穴から流れ込んでくる光
青い海の中 ダボハゼのように
泳ぎ去りたいのは俺の方だ
重みに耐えている 俺は屋根の梁
そのなかでぬくぬくとタダ飯を食っている
ぐちゃ と十九坪の家が吸盤になり
俺を吸っている
気持ちが悪いったら ありゃしない
けれど宇宙の方はどうだったと聞くと
寒くって風がビユビユ吹くしゴミだらけ
澄んでいるけど ガランポ
月も木星も本当はないんだ
ちょうど 秋みたいで
早く帰って お風呂に入りたかった
女房と子供は 言うのである


「秋」全




The cat's shining eyes
Are remarkably blue
Beside the jonquils.


猫の光る眼は
びっくりするほど青い
黄水仙のかたはら



(放哉)
どろぼう猫の眼と睨みあつてる自分であつた


■ライトの句、「remarkably blue」という言葉と「Beside the jonquils」という表現に惹かれた。青と黄色の対照。放哉の句は、句の中に自分が登場していて、ユーモラス。

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